|筒井 潤(dracom)|「日本国憲法下のコミュ力について」
心の休まるところなどひとつもない。ユーモアが入る隙を探したものの、どこにも見当たらなかったのかも知れない。いまの日本の状況を総体的に描こうとすると大抵失敗するのだが、『パンと日本酒』は稀な成功例と言えるSF演劇作品だった。
登場するのはカルト教団に入信している小野田とアパレルの仕事を本業にしたい御崎の二人のみ。二人はカガチミムス(別名:オオツノオロチ)の保管庫の地下1階と地下2階の間の階にいる。カガチミムスとは、人が直接触るとヴィアゼムスキー炎症(別名:オオツ病)を起こすだけでなく、それが人から人へも感染する恐れもあるという、魚のような生物らしい。正体不明で大変危険なうえに、それが大量発生しているということで大問題になっている。小野田と御崎はその管理の仕事をしている。比較的安全な部署ではあるようだが、二人とも非正規雇用であり、これといって特別な資格も強い使命感も持っているわけではない。稼ぎを増やしたいから、ここに行き着いたのである。そして、その二人に危機が訪れる。地下1階でカガチミムスが暴れ出したのだ。外では大雨による洪水も発生し、二人は地下から出られなくなる。さらに、小野田が入信しているカルト教団がカガチミムスを使ってテロを行ったという情報がネット上で出回っている。二人は閉じ込められた環境で、最期を覚悟する…
登場人物の二人のやりとりが観ていて疲れる。どちらも情報処理が速くコミュ力(コミュニケーション能力)が高い。考え方の違いで対立することは多いが、完全に決裂する一歩手前でそうならないように回避できている。そのコミュ力に関して二人には異なる傾向も見られる。小野田はコミュ力を評価制の職場でうまく機能する術として使っている。言い換えれば、個人を新自由主義の経済に機能させるために発揮させている。それに対し、御崎は思ったことを悪びれる風もなくはっきりと言うための、とってつけたようなコミュ力である。小野田に対して寛容さも見せるが、それは社会学者ピエール・ブルデューが言うところの慇懃の戦略である。寛容さを見せつけることで他者との隔たりを確認し、自分が上位者であることを明らかにする。どちらにしろ、相手への敬意や共感があるからではない。自分が自身にとって印象が悪い人にならないための表層演技でしかない。典型的なハリウッド映画であれば、まず登場人物たちが対立を経てお互いを信頼するようになり、その絆が敵と戦う原動力になったりする。しかしこの二人の間には信頼関係が築かれない。信頼関係を築く必要をどちらも感じていない。関西人同士であることをきっかけに親しみを覚えるかと思いきや、その中での差異を見出してやはり心を通わせない。「観ていて疲れる」と書いたが、これは批判ではない。このコミュ力高い登場人物が如月萌と牧野亜希子の演技によって現前化されたことでその疲労は生じたのである。本当に不愉快だった(という賞賛)。
開演してしばらくの間は、時事ネタっぽい出来事を乱雑に散らかして、それを「現代的」や「リアリティー」と称させるよくあるパターンだと思い、あまり期待を持たず、冷静に上演を眺めていた。そしてカガチミムスは何のメタファーなのだろうかと思いをめぐらせた。感染する危険性があるのはそのまま新型コロナウイルスに結びつけられる。リゾート施設のホテルに一時保管所をつくったらそこに来た客に感染した、というエピソードはコロナ感染拡大の抑制がうまくできない行政の失策を連想させる。地下に保管されているという点は使用済み核燃料の問題と繋げてみることも可能だ。感染が関西を中心に広がっているので関西人が差別を受けているという設定も、身近なこととして感じられた。このように、とにかくいまの不安な事象を集積させたのが、カガチミムスなのだろうなぁと思って観ていた。
ただ、カガチミムスの存在があまりにも当然となっているところから物語が始まっているので、その生態や危険性を知れば知るほど、途中からは「そもそも何なのか」という根本的な問いが頭に浮かんで離れなかった。そしてそのタイミングで、批評することを前提として鑑賞していた私にとって極めて重要な情報が会話の中に出てきた。カガチミムスの発祥は琵琶湖(別名に“オオツ”が付く理由である)で、そこから大量発生したというのである。次のことと結びつけないわけにはいかなかった。
天皇陛下のブルーギル「持ち帰り謝罪」発言 舞台裏を証言(京都新聞 2020年4月26日) https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/6936
明仁天皇(現・上皇)は、皇太子だった1960年にアメリカからブルーギルを持ち帰ったのだが、それが日本中で異常繁殖し生態系を壊したのである。そのことを天皇が謝罪したというのがこの記事だ。また、『パンと日本酒』においてYouTuberがカガチミムスを東日本に持ち込んだのが大量発生の原因とされているのも重要である。日本人から誰よりも多くの「いいね」をもらい続けなければならないのは、紛れもなく天皇である。日本国籍を有する者は、もれなくチャンネル登録をしているとイメージすれば良いだろうか。『パンと日本酒』で皇室や天皇(制)について触れられている箇所はない。しかし、舞台が日本であることは疑いようがないのと、カガチミムスに関する情報はこれ以上遡られていない(遡れない?)こともあって、以上のような連想をせざるを得ない。今作で描かれているすべての不安の源はここにある。カガチミムスが舞台上には一度も姿を現さないということも手伝って、観客の頭の中でそれを如何様にも解釈ができるという作劇法に説得力と緊張感が備わった。
KAVC FLAG COMPANY 2020-2021のAhwoooによる「団体紹介」( https://s-ah.jp/kfc/2020-2021/company01.html )には、「怪獣とでも闘わせようかなと思ってます。心、通わないままに。」と記されている。確かに、カガチミムスと闘う意志がある間は、小野田と御崎は心を通わせていなかった。しかし二人きりで閉じ込められ、事態の好転の期待ができず諦めモードになったとき、このように言葉を交わす。
小野田 御崎さんを信じられる要素がない。
御崎 私も小野田さんの事理解できないんですけど。
果たしてこれは拒絶だろうか。私はそうではないと思う。機能する理由を失ったので、コミュ力を放棄し、心を通わせたのである。ここで、大塚英志『感情天皇論』から、映画『シン・ゴジラ』に関する批評を引用する。
『シン・ゴジラ』では何より、理解する、説得するという行為がプロセスとして消去される。(略)「人」が公務員としてのみ描かれ、しかしそこに「個」の孤立も、逆に、ナショナルなウェットさも感じないのは、「他者」という問題が忘却の彼方にあるからだ。ここではわかり合う必要のある相手の持つ不気味な感情はない。あるのかも知れないが、感情では同調せず、個人は感情でなく「機能」で繋がっている。
つまりこの映画にはいい悪いではなく「心」がない。
「心ない」映画なのである。
「心ない」という現代社会への批評性を成立させるためには、(一旦?)人間がゴジラに勝利しなければならなかった。それに対して『パンと日本酒』の小野田と御崎は、カガチミムスとの闘いで敗北が濃厚となったがゆえに、コミュ力を維持する理由も気力も失い、思わず心を通わせたのである。二人はお互いのことをわかり合ってはいないが、告白をしている。告白は相手に思いがきちんと伝わることが信じられなければできない。他者の存在を信じたから告白できたのだ。もし二人を心通わせずに闘いを続けさせたかったら、作家は最後の最後まで二人にコミュ力を発揮させ、勝利を目指す単なる機能としてポジティブに振る舞わせなければならなかったし、劇的転回もなく、まるで『スターシップ・トゥルーパーズ』のように、二人はカガチミムスによってあっけなく殺されなければならなかった。そうしなかったところに、徹底した現実の描写よりも、人と演劇に対する優しさを優先させる中野そてっつ個人の姿勢が表れていた。
残念だったのは、見えないところから聞こえてくるカガチミムスの音が緊張を煽らなければならなかったはずだが、その効果がいまひとつうまくいってなかったところだ。しかしそれを差し引いたとしても、高度な批評性を持つ優れた作品だったと言える。
|プロフィール
筒井 潤(つつい じゅん)
大阪を拠点とする公演芸術集団dracomのリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとしてフェスティバル/トーキョー10、サウンド・ライブ・トーキョー2014、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(2017、19年、デュッセルドルフ)、東京芸術祭ワールドコンペティション2019等に参加。個人としても桃園会やDANCE BOX主催『滲むライフ』で演出等、様々な活動を行っている。