筒井潤「街の描けなさ」
「街に馴染む」をテーマに演劇公演のみならず展示やワークショップも展開する、劇団/アーティストグループの安住の地による企画「ライトシティー」の注目すべき点は、街を描けていないことだ。わたしはそれを評価している。これについて綴っていきたいのだが、その前に『あかり。』のおおまかな内容を記しておく。
東京から約1時間のところにある架空の街、新光井(にゅうみつい)で、身体が光るという病に悩みながらも、それを活かして地域アイドルとして活動する主人公の灯(あかり)、10年近く東京に暮らしていたが母親を介護するために新光井市に帰ってきた風(ふう)、限られた観光資源以外の街おこしとして灯のアイドル活動をあの手この手で展開させ、一定の成功を収めている観光協会職員の真護(まもる)の3人を軸に物語は進んでいく。
灯は病を治したいが、街に貢献できている事実もあるので深く思い悩み、自我を見失いそうになっていく。それに拍車をかけるのは真護の存在である。彼は灯のアイドル関連事業がうまくいっているので鼻息荒く野心的になっているが、彼の家族は家庭を一切顧みない彼の態度に日々苛立ちを募らせる。真護は活気のある街にするための仕事として誇りを持っているので、何と言われようと意に介さない。風は新光井に帰ってきた当初は街に馴染めなかったが、観光協会でのバイトや灯との交流、昔の家族や良き街の記憶を失っていく母の介護を通して街について考えるようになる。灯もまた、周りに振り回される状況から抜け出て自分自身を取り戻すために、身体が光らなくなる治療を始める。
さて、街を描けていないとはどういうことか。以下に理由を挙げてみたい。
登場人物たちによる対立は、作品のテーマや設定によって街や地域コミュニティーの問題のように見える。しかしもっとも象徴的な対立は、観光事業の一環として実施される地域アイドルの活動に熱中する真護と、彼の仕事ぶりだけでなくその影響として街に現れた事象に批判的な妻の砂絵子を中心としたものであり、つまり一家庭内の出来事でしかない。また、灯が抱く街に対する疑問も、その原因は街にあるのではなく、彼女がアイドルとして活躍すればするほど彼女自身が望んでいない街に変容していくシステムにある。つまり、この作品で取り上げられているのは街そのものではなく経済である。人間がからだを動かし汗をかき、お互いの表情が見える距離で声を掛け合いながら回す経済に、窺い知れない新自由主義経済が介入してきた話なのだ。地方住民と都市部からやって来た人たちの間で起こる摩擦はマスコミでもときどき紹介されている。当事者ではない読み手がそれを地域コミュニティーの閉塞と断じ非難するのは、新自由主義者である自らの考えを正当化するための一方的な物言いであり、論点ずらしだ。地域社会は閉塞していないわけではないが、閉じた性質が良くないとは限らない。わたしがある温泉街で聞いた話である。そこの住人が過去に凶悪犯罪が一件も起きていないことを誇っていたので、どうしてなのか理由を尋ねてみた。朝起きて門前の掃除をし、日中は仕事で最寄りの駅までの往来を繰り返す。すると1日のうちにほとんどの街の住人と挨拶をする。それがほぼ毎日続くコミュニティーである以上、悪いことをしたらすぐに噂は広まるし商売もしにくくなる。だから誰も悪ことをしない、というわけである。それでもときどき閉じた地域での殺人事件などの報道を目にする。それはなぜか。経済的な貧しさと将来の見通しの立たなさがあるからだ。天然の観光資源が沸き出続ける温泉街では住人たちが納得のいく経済活動をおこなえており、真面目に勤めていれば食うに困らず、何よりも将来への不安が限りなく少ない。この経済の安定が前提としてあり、そして街の主権者としての自覚が住民にしっかりと備わっているからこそ、その街にとっての平和が保たれているのである。『あかり。』の舞台となっている架空の街、新光井の経済基盤はわからない。いかにも新自由主義的なアイドル活動に街の命運を賭けている真護の言動からすると、新光井にはこれといった経済の決め手がないのだろう。埋立地にできた人工的な街ということで古くからの地場産業もなさそうである。
そう、街を描けていないとするもうひとつの理由に、“人工的”な街が“架空”であるという複層性、そしてチラつく事実との関係がある。独特な歴史を持つ街、新開地にある新開地アートひろばで実施される「ライトシティー」なのだから、新開地にまつわる風景や営みが濃淡に織り込まれるのだろうと思って臨んだが、そうではなかった。『あかり。』も、固有名詞は実際のものではないとしても、もととなっている設定や出来事には概ね沿っているNHK連続テレビ小説のような演劇作品だろうと期待したが、違った。あくまでも架空の街の出来事として創作されている。だが、新開地も湊川の度重なる氾濫を回避するために1905年につくられた埋立地にできた、人工的な街である。この掠めてくる“事実”、そして“人工的”、“架空”といった要素らの距離感と複雑な重なり合いに加え、灯の人物設定によって全体に帯びるSF的ムードが、新光井という街を鑑賞者にイメージしにくくさせている。住人たちの表情はそれぞれに個性的である。少ない出演者で多くの登場人物たちの衝突や心を通わせる様を表現する演出とそれに応える俳優の真摯な演技には感心した。しかし街の景色や風情が浮かび上がってこない。付け加えれば、今企画のチラシと公演前の展示で安住の地の劇団員が「ライトシティー」の住人として紹介されることでさらにもう1層重増している。これでは焦点の合わせようがない。
ここまで読み進めているうちに忘れられているかもしれない。冒頭にあるようにわたしは企画「ライトシティー」で街を描けていないことを評価している。
『あかり。』の風は、冒頭近くで次のように独白する。「僕がかつて住んでいたこの街は、出ていった時とそのまんまの、なつかしさを感じないくらいそのまんまの姿で僕を迎え入れた。」 懐かしさとは、それを思わせる対象の過年で生じるものではない。人間のほうに時の経過とそれに相応しい経験があって、そのうえで久々に対象と再会し過去の記憶のほうに意識が引き戻されたときに湧き起こる感情である。つまりこの台詞は、新光井の変わらなさではなく、10年の東京暮らしが風に何の成長ももたらさなかったことを示している。懐かしさを覚えないのを新光井のせいにしていることからも風の成長の無さをうかがえる。ほかの登場人物の口から「東京は死んでいる」といったような台詞が何度か発されるが、風は、死んでいる東京で暮らしていたのではなく、東京を仮死状態で過ごしたのである。そうでもしなければ東京では生きていけない、ということなのだろう。しかしこれは東京に限ったことであろうか。公演の前週にあった展示「安住の日々『Hello! my name is “Who are you?”』」において、来場者が1番最初に目にするのは、安住の地のメンバーたちが綴ったエッセイあるいは詩のようなテキストである。そのコーナーのタイトルは「街の中の私、私の中の街」だ。よく確かめてみてほしい。街の中にいる「私」とは自分自身のことであり、「私の中」にある街は記憶か想像である。どちらも実態のある街ではない。わたしは、仮死状態の風と、実態のある街と向き合えていない安住の地のメンバーを重ね合わさずにはおれなかった。わざわざ東京を持ち出さずとも、新自由主義経済やネット空間の存在、目まぐるしい価値観の変容、生きづらさなどに対応するために仮死を学習した現代人は、現前の街を見落とすのである。企画「ライトシティー」は、安住の地が創作過程であらゆる手を尽くしそして身を以て知った、街そのものの描けなさに関する報告なのだ。これは却って潔い。街や地域そのものを演劇として描けると思っている劇作家がいたら疑ったほうがいい。
1980年代半ばに始まった新開地のまちづくり活動は、1991年から“文化と芸能のまち”の現代的な復活と発展を目指す「アートビレッジ構想」を中心に据えて展開、阪神・淡路大震災後は震災復興と都市機能の向上をアピールする芸術文化の催しも盛んに行われた。新開地アートひろばもその流れを汲む施設である。とはいえ街の全体像をとらえるのは難しく、そもそも「街」は複層的で多面的、さまざまな価値観が共存している。都市の再生に文化がいかなるインパクトを与えたかをエビデンスに基づいて検証し、正しく評価することは不可能とされている。不用に数値のみで測ると本質を見誤るだろう。一方で、社会資本や人的資本などの無形資産は、非手段的な動機に支えられる時にだけ効率的に蓄積されるとも言われている(※)。灯は言う。「私はただ普通に新光井で暮らしたかっただけなんです。友達と喫茶店に行って、くだらない話したり、街の小さな映画館に行ったり、商店街を散歩とかしたり。」 この作品でもっともリアリティーを感じさせる台詞だ。劇場や演劇が含まれていない。新開地の賑わいのルーツは埋立地に自然発生的に立ち並んだ芝居小屋だ。街の描けなさを経験し、この灯の台詞を書き得た安住の地だからこそ、今後さらに地域における演劇/アートの役割について深く考え、現実的な試行錯誤を繰り返すことだろう。これは確かな成長であり、とても大切なことだ。
※ 参考図書
『芸術文化の価値とは何か』 The AHRC cultural value project Geoffrey Crossick & Patrycja Kaszynska:著 中村 美亜:訳 水曜社
執筆者プロフィール
筒井潤(つつい・じゅん)
演出家、劇作家、公演芸術集団 dracomリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとして東京芸術祭ワールドコンペティション2019、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(デュッセルドルフ)に参加。個人として『滲むライフ』(2017年、Dance Box)の演出、ルリー・シャバラ『ラウン・ジャガッ:極彩色に連なる声』(KYOTO EXPERIMENT 2021)の空間演出を担当。
写真:中谷利明