スタッフによる、「新開地解開新所」まちあるきツアーレポート
新開地アートひろばでは、2023年4月より、施設全体を『あそび場』として捉え、毎月多彩なジャンルのアーティストと協働して、「あそべる作品」や「あそべる空間」を創造する、年間シリーズ企画「ニューあそび場の創造」開催しています。
9月の「ニューあそび場の創造」では、「新開地解開新所」と題して、新開地をリサーチするプロジェクトを始動させました。四半世紀以上、新開地の文化施設として在り続けたKAVCからリニューアルした、新開地アートひろばが、子どもから大人まで、あらゆる世代が交流する、開かれた「ひろば」になることを目指していく上で、新開地を改めてリサーチする機会を設け、まちの魅了を知り・伝えていけるプログラムを目指しています。
今回のプロジェクトで紐解いていくエリアは、新開地を語る上では欠かせない、北は菊水町から南は東川崎町までを占める「旧湊川」。まちを歩くことで見えてくる発見の数々、知らなかった事象、面白い小話は、好奇心と興味を刺激する「あそび」へと繋がっていきます。
「新開地解開新所」の中では、まちあるきの達人たちによる”まちあるきツアー”を開催しました。
このツアーに同行した、新開地アートひろばのスタッフによるレポートを公開します。
「在りし日の映画館を探して」に参加しました!
神戸で仕事をはじめてはや数年。ようやく神戸の街を迷わず歩けるようになった私ですが、やっと見慣れてきた場所や風景が、昔映画館だったという話を聞く機会が何度かありました。
かつては多くの人が集まり、いろんな思いを馳せていたであろう映画館が、今や、人づての話や、古いポスターのクレジットでしか知ることができないなんて…!と、さみしさとともになんともいえない魅力を感じた私は、詳細を知ろうとネットで名前を検索してみたはいいものの、あまりヒットせず。そして、その後真剣に調べることもなく。
今はない映画館の名前だけが、ぼんやりと頭の片隅に残っていました。
そんな中、「新開地解開新所」の企画のひとつとして、「在りし日の映画館を探して」が開催されるということで、しぼんでいた今はなき映画館への興味がむくむくと湧き上がり、この度スタッフとして参加することにしました。
今回の案内人は、田中晋平さん、安田謙一さん。
今回の街歩きでは、午前中に会議室でレクチャーを受けた後、実際に新開地の街に出て、映画館のあった場所を巡ります。
レクチャーは自己紹介の時間も含めてたっぷり約3時間!
貴重な写真や資料と共に、新開地の映画館の歴史が次々と分かり、とても楽しい時間でした。
それに加え、映画や歴史に詳しい参加者の方たちが多く、みなさんの自己紹介での映画館エピソードや、レクチャー中の興味深い質問や補足など、この場だからこその熱と情報をたくさん感じることができました。
午前のレクチャーが終わり、昼休憩の後は、当時の地図を片手に実際に街あるきへ。
まず向かったのは、新開地アートひろばを出て右、新開地本通を海側に向かって歩いた先にあるBIGMANモニュメントのあたり。
1930年代中頃、BIGMANモニュメントからCinema KOBEあたりまでは、有楽館、旭日館、菊水館、松本座という映画館が並んでいたそうです。
今、映画館が4件ならんでいる姿を見ることはなかなかないですよね。この当時の映画館は、封切館、2番館、3番館、ニュース映画専門、洋画専門など、映画館それぞれに特徴があり、数が多くても競合にならなかったのだとか。
向かい側には、スケート映画場という、アイススケート場から映画館になった場所もあったそうです。当時の賑わいが想像できますね。 その後、戦争の影響で映画館の多様性がなくなり、特徴が紅白のみで分かれるようになったり、先程名前をあげた旭日館は防火水槽になったりと、短い期間で映画館の在り方が変わります。1945年の空襲では、大半の映画館がダメージを受けてしまったそうです。
1958年の映画最盛期には、この同じ場所でも、新劇会館、新開地劇場、またその向かいは神戸東宝、神戸シネマ、神戸名画劇場と違う映画館が並んでいたそうです。新劇会館は、現在のCinema KOBEです。
さて、歩みを進めて新開地アートひろばの前へ。
この新開地アートひろばも、錦座という名前の映画館でした!1910年に寄席として始まり、その後活動写真館(映画館の旧称)になったそう。
レクチャーの際、劇場内の写真の紹介があったのですが、とても素敵な西洋建築。東洋一の豪華な劇場だったそうで、行ってみたい!と強く思いました。今、自分がいる場所の昔の姿を見るのは、とても不思議な気持ちになりますね。
新開地アートひろばを出て左、新開地本通を山側へ進んだ、ボートピア新開地あたりにも映画館が並んでいました。
ボートピア向かいの駐車場は相生座という映画館で、1907年12月に新開地に進出した最初の映画館だそうです。
1930年代、現在のボートピアの場所には、二葉館、栄館、キネマ俱楽部と映画館が並び、戦後も、相生座とキネマ俱楽部(日活キネマクラブに名称変更)は残っていたそう。
新開地本通から小道に入り、また山側へ進みます。
目の前に見えてきたのは、2~3年前までラウンドワンだった、外観が印象的なパチンコ屋。
ここが有名な聚楽館の跡地です。帝国劇場をモデルとした洋風建築で、神戸最大の豪華劇場だったそう。
私にとっては行ったことのない、もう行くこともできない場所ですが、参加者の方たちは実際に行ったことがある方がたくさんおられ、最近まで親しまれてきた場所だったんだ、としみじみ思いました。神戸国際松竹(元・kino cinéma神戸国際)に入ったときの匂いが同じだと言っている方がいて、そこに確かにあった場所をより鮮明に想像することができました。
跡地には、聚楽館の歴史の記録があり、街にとって大きな存在だったことがうかがえます。
聚楽館の跡地から湊川公園の方に進むと、こちらも現・パチンコ屋の神戸松竹座跡があります。
前には記念碑のようなものもありますね。 少ししか歩いていないのに、大きな映画館がまた現れるなんて、驚きです。
ここから、また少し進むと、湊川温泉劇場の跡地です。
裏路地に入ったところにあるこの階段は当時のまま!立派な階段です。
映画も鑑賞できて、温泉にも入れる、今考えても丸一日居られるような贅沢な施設があったんですね。
この付近には、1930年代には松竹劇場、1950年代には新開地大映があったそう。
新開地本通りをそのまま進んで湊川公園へ。
1958年頃、このあたりにもテアトルKS、湊川公園ニュース映画館、公園劇場、テアトル神戸など、映画館がいくつかありました。
跡地の場所を確認し、新開地の映画館の一つ、パルシネマしんこうえんへ向かいます。
パルシネマしんこうえんの前身は新公園劇場だったそうです。パルシネマ「しんこうえん」は「新公園」のことだったんですね!
パルシネマの後は、福原方面にある、福原国際東映へ。
気にはなっていたけれど、普段はなかなか歩かない場所だったので、大人数で歩くことができ、とても新鮮でした。
ここまで来て、街歩きは終了!
実際に歩いてみると、短い距離を少し歩いただけで、大きな規模の映画館が次々と現れるんだと、映画館がない今でもわくわくしてしまいます。賑わっていた当時の街の様子はいったいどんな感じだったんでしょうか。映画館の跡地を巡ることで、映画館が出来た頃、映画を純粋に楽しめなかったであろう戦中、そして映画最盛期、それぞれの街の風景とそこに訪れる人々と出会えたような気がします。なくなった映画館への興味と魅力はまだまだ尽きません。
ご協力、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました!