nidone.works 渡辺たくみももちの世界#5『ハルカのすべて』

大学生の頃に2年間ラジオADの仕事をしていた程に音楽を聴くのが好きだ。バッキバキで時にはチルなエレクトロミュージックを中心にオンエアする深夜番組を担当していた頃、仕事終わりの朝方にはよくイヤホンを付けずに街の音を聴きながら帰った。街の音は時として、音楽よりも楽しく感じる事がある。今回のももちの世界「ハルカのすべて」は告知の段階で「都市の音を舞台上に載せたいと思います」と書かれていた。その言葉に惹かれてこの作品を観に行った。

本作は映画監督の緑川遥(りょう)という人物を中心に展開される。彼の娘であり宇宙飛行士になったハルカと妻である武田月子。彼を主役にしたドキュメンタリー映画を撮影するカメラマンとレポーター。その他にもニュース番組の司会者や映画ライター、釣り人にタクシー運転手・エレベーターガールまで、彼と深い関係を結ぶことのない人物でさえ、彼の人生と彼を取り巻く都市を舞台上に浮かび上げる重大な役割を担っている。それに加えて、音もその役割を担っているのが本作の大きな見所だ。舞台の裃と奥には13本ものマイクスタンドが立てられており、街の雑踏や鳥の鳴き声、ほんの小さな動作に伴う音も全て俳優の声によって表現される。俳優は体で役を演じていない間、常に声で音を演じている状態だ。上演中のどの時間・どの空間を切り取っても実に演劇らしくて愛らしい。ではなぜ愛らしく感じるのか。それは寂しさや悲しみの中に存在する幸福感が描かれていたからではないだろうか。

演者が舞台上でドアのノブを捻り押すと、それに合わせて俳優は声で音をあてる。シーンや場所が変わると勿論ドアの種類は違うため、それに合った音が表現される。つまり「ウゥーン」もあれば「ギィィ」もある。文字では表現できないような音を人間が声で表現している事でドアに性格やキャラクターのようなイメージも付随してくる。何気ない日常の一瞬が可愛く表現されているこの演出はドアだけに限らない。空調の音や電気が灯っている間の音にも言えることだった。そうなると、舞台上に1人だけが立っている時間でさえも、そのシーンは数名が存在しているように感じるのだ。劇中で「人はみなひとり」という台詞もあったが、この作品における1人は決して1人ではなく多数が連れ添っている1人だ。その目には見えない音による存在に心強い魂を感じた。

演者はほぼオーディションによって選ばれ、劇中で再現される街の音は神戸でのフィールドワークを通して出来上がったものだという。上演場所を伴った作品であるとともに、新開地・タワーレコード・モーニング娘などの私たちが暮らす世界と同じ固有名詞も出てくる。この現実的なモチーフに対して現実的な範囲を超えていく事象へのグラデーションが素晴しかったように思う。勤務中であるエレベーターガールと妙に深入りする会話や半馬半魚の海馬が登場するシーンのようにコントのようなシーンも全く浮いていない。ハルカを生んだ月子が月に帰っていくシーンもかぐや姫がモチーフとなっているが、物語上では違和感なく成立している。それは誰しもが胸をときめかせた事のある「アパートの屋上にあるアンパンマンのメリーゴーランド」や「不二家のパンケーキ」など、アンニュイでありながら夢見心地なモチーフが散りばめられている作用もあるだろう。確実に現実で存在する眩い幻想感が、ありえない幻想を現実へ引き出している。そのバランス感覚が私は好きだった。私たちが過ごす日常にもちょっとした幻想が隠れているようにも感じる。終演後にももちの世界の主宰であるピンク地底人3号さんへご挨拶をしに行った際、3号さんはグレムリンの刺繍が入ったパーカーを着ていた。今思えば映画「グレムリン」の作品がもつ幻想と現実の共存感は本作に少し似ている気もする。

音が重大な表現であったように思う本作だが、緑川遥の人生が遡るように表現される劇中で重要なテーマを成しているのは「映画」である。遥に迫って撮影されているドキュメント映画のシーンや遥が監督を務める映画のシーンもあるが、タクシー運転手との些細な会話でさえ映画のについて語られる。そこでは撮影する人・される人・作品を観る人・興味のない人と、映画の存在を通じて各々の価値観や思考が表現されている。その中でも映画作品が人に寄り添って進行するシーンが印象深かった。女性として生まれ男性の心をもつ遥が20歳の誕生日の時、自殺しようとする前に1人で映画「ショーン」を観に映画館を訪れるシーンがある。舞台の前の面には遥をはじめとする映画館の観客が腰をかけてスクリーンを眺めている様子が私たちに表現される。私たちの方向を向いて映画に釘付けになる彼らの表情に、私はうっとりしてしまった。無防備で緩みきっている顔に、たまに悲しさや驚きが小さく現れる。自殺しようとしていた遥に映写機の安定しない光が反射している様子も希望が滲み出るようで素晴らしく美しかった。それはまさに作品が人を幸せにしていく過程の時間であり、それを演劇として観ている自分自身も幸せな気持ちになる時間でもあった。

演劇や映画には実際に無いものや過ぎ去ったものを再現させる力がある。遠い宇宙の奥の方にあるかもしれない命や魂でさえ、演劇や映画は表現を試みることができるのだ。そんな作られた表現が、誰かの新しい考え方や街の景色の見え方を変えて、誰かの現実の人生を変えていく。そして思わぬ巡り合わせを呼び寄せる。映画を観終わった遥の席へハルカを身ごもった月子がやってくるのは、必然的な偶然だと思う。人が前へ進めなくなった時、些細な事でも必ず偶然の追い風はやってくる。そんな風に感じれるものがこの作品には確かにあった。

神戸アートビレッジセンター(KAVC)は2階で演劇を上演し、地下1階では映画も上演している建物である。本作「ハルカのすべて」はどの土地で上演してもその土地らしさが音として常に反映される作品であるが、KAVCのように人が一同に集まって同じ時間に同じものを見ることに特化された場所で産声をあげたのは作品の内容からも大きな意味があるように思う。神戸の街にあふれる様々な音の中でも、より遠くの人の耳に届く産声だったに違いない。本作の今後の広がりが楽しみだ。

プロフィール

渡辺たくみ

nidone.works 代表 / 劇作家 / 演出家。1995年生まれ、大阪府吹田市出身。
2016年、京都造形芸術大学舞台芸術学科を在学中に、固定メンバーを決めず活動を開始。
銭湯・音楽・ご飯など、幸福感が溢れるモチーフを用いて、生活空間の延長上に彩度の高いフィクションを演出している。
観客にこどもの存在を見据えた観客参加型・ツアー形式の演劇作品を中心に、
ラジオドラマの脚本、ミュージックビデオの監督、ワークショップの講師としても活動中。
nidone.worksのウェブ上にて、たまにのエッセイ『テレビとラジオ』を連載中。



nidone.works やまもとかれんももちの世界#5『ハルカのすべて』

演劇でこんなに感動したのはいつ以来だろう。ももちの世界による『ハルカのすべて』を観劇。感染予防のマスクをしていなければ、涙と鼻水を隠して主宰に挨拶するのが困難になるところだった。伊坂幸太郎作品を読み終わった後の散りばめられたテキストがひとつにつながっていく満足感のような、今敏のアニメ映画作品を観終わった後の視覚的音楽的な衝撃と幸福感のような。音と映画についての作品とあったので、元ネタが分かるとまた違う楽しみ方が出来ただろうとは思うが、洋画に親しみの無い私でも戯曲と表現の美しさに圧倒されすっかり引き込まれてしまった。

この作品は遥(リョウ)の一生を描いた作品だ。物語の冒頭は遥が75歳のシーンから。少しボケた老人のようだが、なぜかカメラマンとレポーターに取材を受けている。毎朝鏡の中にうつる自分を眺めながら「おはようございます。」と繰り返してから1日を始めている。レポーターはその行動の意味を尋ねるが、遥は答えない。シーンは年齢を50代、40代…と遡りながら進んでいく。遥は映画監督であること、ハルカという娘がいる事、性的マイノリティを抱えながら幼少期を過ごした事、それを理解してくれる奥さんに出会え事、などが明らかになっていく。年代ごとのシーンを通して、映画作りに対する真摯さや、不器用なところもあるが尊敬されている遥という人間の芯が自然と見えてくる。

この作品の美しさは、事件や出来事を中心に話をするのではなく、ただひたすら遥という人物にまつわる過去のエピソードを切り取りさかのぼっていくという作品構成にある。人それぞれ、生きてきた時間だけ経験の積み重ねがあり現在のその人物を形作っている(例えそれが戯曲上の想像された人物であってもだ!)2時間程度の上演時間に、何十年という時間を重ねてきた人間の一生からエピソードを切り取り、観客に遥という人間をしっかり魅せる構成にはかなり繊細さが必要だ。作中の遥とカメラマンとの会話の、
“そんな残酷なドキュメンタリー、誰も見ねぇよ!!”
“残酷だからみるんだよ!!残酷であればあるだけ泣けるんだよ!“
という言葉がこの作品に深みを出している。時に悲劇的で残酷なエピソードですら遥という人間を形成する上で重要なパーツとなっていく。

私の所属するnidone.worksの作品には、基本的に出来事や事件を通してキャラクター達がはちゃめちゃに動きまわり、ボーイミーツガールしたり、ハッピーエンドを迎えたりするものが多い。個性ある登場人物が事件を中心に動き回りながら起承転結の分かりやすいストーリーにのせられており、観客は登場人物たちと共に事件の行方を追いかける事ができる。そういった構成の作品に慣れていたので、『ハルカのすべて』の構成の美しさはかなり強烈な体験だった。

上演中に(今のシーンは現実か?それとも映画のワンシーンだろうか?)という瞬間が何度かあった。脳の記憶領域である海馬のメタファーとして出てくる馬は、実生活の中で遥に語りかけたり、遥の作った映画作品の中にも登場し、現実との境界を曖昧にしていた。娘と向き合う時間、映画監督として撮影している時間。すべて一つの遥という主人公の歩む人生の線の中ですべて繋がっている。アイデアを考えている時間、制作している時間、ワンルーム8畳の自分の家を掃除している時間、この文章をサイゼリヤで考えている時間。区切りはあるようで無い。すべて私の人生を構成しているもので、地続きに繋がっている。遥の人生を追っていく中でそんな事を考えた。

終演後、資料として戯曲のテキストを購入した。テキストを買うのは初めてであったが、読んで再発見もあった。劇場でテキストを買って帰る観客は多くは無いだろうが、お客が持ち帰れるものとして販売できることは劇団の強みであるし、終演後買って読み解くのも演劇のひとつの楽しみとしてもっと広まればいい。
神戸のフィールドワークを重ね収集した音を役者たちがマイクで吹き込む技法も、度を超えないユーモアも、相乗効果でいくつものシリアスなシーンを美しく乗り越えている。数時間の中で、ひとつの出来事を中心に表現するのではなく、遥という映画監督の一生を軸に人間の芯や愛しさに迫っていくのがこの作品の魅力である。

プロフィール

やまもとかれん

nidone.works 美術・小道具・パペット担当。1996年生まれ大阪府出身。
京都造形芸術大学舞台芸術学科で舞台美術を中心に学ぶ。
在学中に同期の渡辺たくみとnidone.worksに出会い、仲間とおもしろおかしく作品を作る楽しさに目覚める。
nidone.works卒業制作公演『おにぎりパン!』の舞台美術は学内の優秀賞を受賞。
2018年に同大学を卒業後も、大人も子どももクスッと笑えて温かくなれるようなデザインを心掛けている。