人生は無条件に美しい。どこでどのような生き方をしている人の人生も芸術作品に成り得る。聖人の人生も、極悪人の人生も、市井の人の人生も、芸術作品のモチーフになる美しさがある。ひとりの人生に焦点を当てている『ハルカのすべて』は、良い作品になることが約束されている(この点はコトリ会議『セミの空の空』における“死”の扱い方と同様である)。トランス男性を描くのには作者にとってそれなりの覚悟と困難さはあるだろうが、困難である要因は社会にあるのであって、人生にあるのではない。人生はとにかく美しいのである。それゆえ、人生を扱う作品は必然的に作家/演出家の技術や形式が問われることになる。それらが極めてうまくいった典型的な例がままごとの『わが星』だ、といえば理解しやすいだろう。人生を描いた作品がつまらないときは技術がない、ということだ。 少し嫌な予感がしたのは、主人公が映画監督である点だ。私は過去に映画監督、作家、探偵など、一般鑑賞者にとって生活の詳細が想像し難い人物を主人公にした作品で面白いと思えたことは多くない。一般的なイメージに拘束されることがなく、劇作家の都合で動かしやすいからだ。しかもその人生となればやりたい放題である。しかし本当にやりたい放題だと、劇作家は選り取り見取りのようで実は砂漠の真ん中にひとり立ち尽くしている状況にはたと気づき、呆然としてしまう。今回は主人公がトランス男性であることと、評価する声が多かった〈SE(サウンドエフェクト)=声〉という形式を使った映画的場面展開のアイデアがモチベーションとなっていたように思う。それらによってテキストに劇作家としての姿勢を、上演に娯楽性と緊張感を配置できていた。〈SE=声〉とは、主人公以外の大勢の俳優がSE担当として口から擬音を発し、それをマイクで拾うという演出を補うパフォーマンスである。映画のように細切れに次から次へと展開していく設定を瞬時に観客に理解してもらうための効果として絶大であり、複数名の声によって表現される音の構成は大変よく吟味されていてとても感心した。環境音から登場人物の行為によって生じる音まで、実に丁寧に再現されていた。出演者、つまり人間の声によるものなので、時折登場人物の台詞と混ざり合い、台詞が聞き取りづらいときもあったが、それも織り込み済みの演出効果なのだろう。 この演出は、前述のままごとやマームとジプシー、範宙遊泳といった、日本の現代演劇におけるフォーマリズムの系譜にあると考えられる。演出の形式があってそこにモチーフをはめ込んでいる演劇のことである。今となってはどこまでがフォーマリズムでどこからがそうではないのかがわからない。その始まりはチェルフィッチュと言われるが、戯曲に秒単位の指示があることなどから起源は平田オリザだという説もある。その詳細は私はわからないし解釈も人それぞれなので深追いはしないが、ここで「フォーマリズム」と言っていることがどういうことなのかはなんとなくわかっていただけるだろう。特徴的な人物が登場する物語が描かれている戯曲があって、それを俳優が、西洋近代演劇的な「役を生きる」演技、あるいは大量消費社会の中で求められるようになったスピードとエネルギーの過剰な小劇場演劇の演技に対する批評としてのスタイルである。 〈SE=声〉は、ピンク地底人3号が「ももちの世界」として活動する前に「ピンク地底人」の上演ですでに試されていた手法である。私はその公演を観ている。当時私は、フォーマリズムが関西の若い世代においても実践されるようになったか、と思ったのを覚えている。しかし彼はその路線を止めて、ストレートプレイの戯曲を書き、現在高い評価を得ている。そんな彼が再びフォーマリズムの上演をする理由は、映画のように人生を描きたかったからだろうし、人生を描くには映画的手法が必要だったからだろう。 SNSで多くの鑑賞者が、この上演が映画的である、映画的演劇である、と指摘していた。確かに私もそう思った。ここで「映画的」とされるのはやはり場面展開の速さだ。そこで私は疑問に思った。どうして多くの人は映画を映画的とする理由を場面展開の速さとするのだろうか。確かにそうだが、果たしてそれだけなのかどうかは検証しなければならない。逆からも考えてみよう。カメラの長回し、あるいはワンシチュエーションで貫く映画を指して演劇的と呼ばれることがある。しかしこの文章をわざわざ読むような熱心な演劇鑑賞者のみなさんには落ち着いて考えてみてほしい。最近の若い世代の演劇は、ワンシーンが長かったりワンシチュエーションで貫かれていたりする方が稀で、多くは場面がたくさんあって展開が速い。そしてそれを演劇的手法で落とし込んでいる。 演劇と映画の違いでもっともよく言及されるのは、ライヴ(生)=同じ上演がない1回性についてだ。だからこそ人は劇場に足を運ぶ、と。間違いではないが、同じくらいに大事な要素が見落とされている。「再現性」だ。 演劇は多くの場合において何度も上演しなければならないので、パフォーマンスにはあらかじめ再現性が求められている。いつも同じ上演ができないのがわかっているからこそ、いつも同質の上演を目指す稽古をする。さらに、舞台俳優はエンディングに向かって演技をする。頭の片隅で終わりを準備し、自らの演技で幕を降ろしにかかる。その際に有効なのがフォーマリズムだ。形式によって再現性は高くなるし、必然として幕を降ろせる。能や狂言もフォーマリズムと考えることができる。演目や技術を将来に受け継いでいくために形が必要だったのだろう。それに対し、映画における俳優の演技はベストな瞬間を撮影することが目的となっていて、再現性は求められていない。フィルムによって「再生性」が保証されているからだ。そう、実は映画の演技こそが1回性のものなのだ。また、スクリーンに映し出される俳優の演技は終わりを準備していない。撮影時は「カット!」と声をかけられるまで演技は続くし、編集によって「カット!」と声をかけられる前の、演技の途中で強制的に切られる。 『こわれゆく女』(監督:ジョン・カサヴェテス)より https://www.youtube.com/watch?v=Dob7CiyAK2g カサヴェテスの映画は、ただ物語を伝えるだけではない。俳優による、終わりを準備していない、再現性が求められていない1回だけの「演技の記録」である。この「演技の記録」を介して物語や人間の普遍性に触れるのも映画の特徴である。スタニスラフスキー・システム(「役を生きる」)を最大に活かせるのは、映画なのである。人間は、いつかやってくる死を意識することはあっても、数分後に幕が降りることを意識して行動したりはしない。幕が降りる/降ろすことを意識している演劇の演技は形式からは逃れられないのである。ちなみに、多少ややこしくなるが、カサヴェテスは演劇の上演中に俳優が自らの演技では幕を降ろせなくなり、形式が崩壊した様子を映画にしている。 『オープニング・ナイト』(監督:ジョン・カサヴェテス)より https://www.youtube.com/watch?v=zqHvb8fZmX4 それでも演劇を観ていて形式を超えた「役を生きる」演技を目撃するときがある。それは俳優が自身で演技を終わらせる意識を失くしている瞬間だ。長尺の場面で起こりやすい。映画における長回しが演劇的とされる所以はここにあるのだろう。 『ハルカのすべて』は、頻繁に場面が展開する。その度に俳優の演技が切れる。正確に言えば俳優が演技を切る。演技をしながら自ら編集しているのだ。それはそれでひとつの芸当と成り得るが、「役を生きる」演技と形式の間で、特にSEも担う俳優の演技は不本意なことになってはいなかっただろうか。フォーマリズムの作風で成功している劇団の演技は、「役を生きる」演技は求められていない。形式に寄せた不自然さを貫くことで独自の世界観におけるリアリティを創作している。『ハルカのすべて』を観ていると、映画への溢れんばかりのリスペクトや舞台芸術に対する信念、人間への優しい眼差しなど様々な愛情に触れられるのだが、それゆえに作品の幾分焦点がボヤけてしまった印象がある。 次回からはまたストレートプレイに戻るというような内容のピンク地底人3号のコメントをSNSで目にした。フォーマリズムの追求はとりあえず放棄する宣言である。すでにフォーマリズムが限界に達し次の展開が模索されている(主に東京の)現代演劇の潮流があるときに、また(※)関西は演劇における現代性を消化しないでやり過ごすのだろうか。今回の作品の形式に驚き歓迎した若い観客層も存在する。彼らの感動の余韻はどこに向かうのだろうか。他の劇団に求めるのか、実作者として追求するのか、それとも1回限りの物珍しさで済ませて捨てるのか。捨てるとしたらどのような仕草で捨てるのか。 地芝居。地歌舞伎とも村芝居とも呼ばれる。地方で行われているアマチュアによる歌舞伎のことを指す。基本的には地域の人たちが寄り集まって(保存会)、上演を実施するのだが、さすがにゼロから全てを素人がやれるものでもないので、プロとして活動されている振付師匠に保存会が指導をお願いする。そして地元住民の前で上演される。活動の将来を支える若い世代の育成も地域ぐるみで行う。国や自治体によって文化財に指定される場合がある。面白いのは、あくまでも主導権は地域の保存会にあるところだ。指導技術や人間性が気に入らなければ振付師匠を更迭する。これを繰り返すことで地域の特色が色濃くなっていき、地元住民の価値観も定まっていく。伝承されるのは藝態ではなく、その地域の人々の「美意識」なのだ。 …小劇場演劇はもうすでに終わっているが、関西ではそれが村芝居のように引き継がれている。村芝居が悪いとは思っていない。その逆で、独自の美意識を持った村芝居である自覚を強め、それに誇りを持つことが重要である。漠然と関西でやっているだけの小劇場演劇でも、あわよくば東京で売れたい小劇場演劇でもない、関西という土地が持つ美意識に根ざした創作こそが存在意義を認められ、他地域からも注目される。「村芝居なんかじゃない!」と言うのは経済的なコンプレックスの表れでしかない。このコンプレックスが、中途半端なサイズの経済圏と空元気による優しさの同調性を作り出し、そして創り手も観客も身動きが取れなくなっているのだ。忌むべきは自覚の無さである。 ※ → 「また」 関西小劇場演劇は現代口語演劇を消化し切れなかった。現在関西で使われている話し言葉の丁寧な検証や実践による追求が行なわれていない。「私らが日頃喋ってる感じで台詞言うたら現代口語なんやろ?」という浅薄な了解で済まされてしまっている。声の質や発話時の身体に関する思索の積み重ねもない。そもそも関西弁はいわゆる標準語よりも歴史的に古いので現代口語にはなりえないのかもしれないのだが、そういったことも含めて議論されていない。関西弁の現代口語演劇が必要だったと考えているわけではない。それを消化していないという事実が日々関西で生まれている演劇作品になんらかの影響を与え、それもまた関西の美意識を色濃くしているという自覚が必要なのである。
筒井潤
演出家、劇作家。 大阪を拠点とする公演芸術集団dracomのリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとしてTPAM2009、フェスティバル/トーキョー10、サウンド・ライブ・トーキョー2014、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(2017年、デュッセルドルフ)等に参加。個人としても桃園会やDANCE BOX主催『滲むライフ』で演出等、様々な活動を行っている。
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筒井潤ももちの世界 #5『ハルカのすべて』
人生は無条件に美しい。どこでどのような生き方をしている人の人生も芸術作品に成り得る。聖人の人生も、極悪人の人生も、市井の人の人生も、芸術作品のモチーフになる美しさがある。ひとりの人生に焦点を当てている『ハルカのすべて』は、良い作品になることが約束されている(この点はコトリ会議『セミの空の空』における“死”の扱い方と同様である)。トランス男性を描くのには作者にとってそれなりの覚悟と困難さはあるだろうが、困難である要因は社会にあるのであって、人生にあるのではない。人生はとにかく美しいのである。それゆえ、人生を扱う作品は必然的に作家/演出家の技術や形式が問われることになる。それらが極めてうまくいった典型的な例がままごとの『わが星』だ、といえば理解しやすいだろう。人生を描いた作品がつまらないときは技術がない、ということだ。
少し嫌な予感がしたのは、主人公が映画監督である点だ。私は過去に映画監督、作家、探偵など、一般鑑賞者にとって生活の詳細が想像し難い人物を主人公にした作品で面白いと思えたことは多くない。一般的なイメージに拘束されることがなく、劇作家の都合で動かしやすいからだ。しかもその人生となればやりたい放題である。しかし本当にやりたい放題だと、劇作家は選り取り見取りのようで実は砂漠の真ん中にひとり立ち尽くしている状況にはたと気づき、呆然としてしまう。今回は主人公がトランス男性であることと、評価する声が多かった〈SE(サウンドエフェクト)=声〉という形式を使った映画的場面展開のアイデアがモチベーションとなっていたように思う。それらによってテキストに劇作家としての姿勢を、上演に娯楽性と緊張感を配置できていた。〈SE=声〉とは、主人公以外の大勢の俳優がSE担当として口から擬音を発し、それをマイクで拾うという演出を補うパフォーマンスである。映画のように細切れに次から次へと展開していく設定を瞬時に観客に理解してもらうための効果として絶大であり、複数名の声によって表現される音の構成は大変よく吟味されていてとても感心した。環境音から登場人物の行為によって生じる音まで、実に丁寧に再現されていた。出演者、つまり人間の声によるものなので、時折登場人物の台詞と混ざり合い、台詞が聞き取りづらいときもあったが、それも織り込み済みの演出効果なのだろう。
この演出は、前述のままごとやマームとジプシー、範宙遊泳といった、日本の現代演劇におけるフォーマリズムの系譜にあると考えられる。演出の形式があってそこにモチーフをはめ込んでいる演劇のことである。今となってはどこまでがフォーマリズムでどこからがそうではないのかがわからない。その始まりはチェルフィッチュと言われるが、戯曲に秒単位の指示があることなどから起源は平田オリザだという説もある。その詳細は私はわからないし解釈も人それぞれなので深追いはしないが、ここで「フォーマリズム」と言っていることがどういうことなのかはなんとなくわかっていただけるだろう。特徴的な人物が登場する物語が描かれている戯曲があって、それを俳優が、西洋近代演劇的な「役を生きる」演技、あるいは大量消費社会の中で求められるようになったスピードとエネルギーの過剰な小劇場演劇の演技に対する批評としてのスタイルである。
〈SE=声〉は、ピンク地底人3号が「ももちの世界」として活動する前に「ピンク地底人」の上演ですでに試されていた手法である。私はその公演を観ている。当時私は、フォーマリズムが関西の若い世代においても実践されるようになったか、と思ったのを覚えている。しかし彼はその路線を止めて、ストレートプレイの戯曲を書き、現在高い評価を得ている。そんな彼が再びフォーマリズムの上演をする理由は、映画のように人生を描きたかったからだろうし、人生を描くには映画的手法が必要だったからだろう。
SNSで多くの鑑賞者が、この上演が映画的である、映画的演劇である、と指摘していた。確かに私もそう思った。ここで「映画的」とされるのはやはり場面展開の速さだ。そこで私は疑問に思った。どうして多くの人は映画を映画的とする理由を場面展開の速さとするのだろうか。確かにそうだが、果たしてそれだけなのかどうかは検証しなければならない。逆からも考えてみよう。カメラの長回し、あるいはワンシチュエーションで貫く映画を指して演劇的と呼ばれることがある。しかしこの文章をわざわざ読むような熱心な演劇鑑賞者のみなさんには落ち着いて考えてみてほしい。最近の若い世代の演劇は、ワンシーンが長かったりワンシチュエーションで貫かれていたりする方が稀で、多くは場面がたくさんあって展開が速い。そしてそれを演劇的手法で落とし込んでいる。
演劇と映画の違いでもっともよく言及されるのは、ライヴ(生)=同じ上演がない1回性についてだ。だからこそ人は劇場に足を運ぶ、と。間違いではないが、同じくらいに大事な要素が見落とされている。「再現性」だ。
演劇は多くの場合において何度も上演しなければならないので、パフォーマンスにはあらかじめ再現性が求められている。いつも同じ上演ができないのがわかっているからこそ、いつも同質の上演を目指す稽古をする。さらに、舞台俳優はエンディングに向かって演技をする。頭の片隅で終わりを準備し、自らの演技で幕を降ろしにかかる。その際に有効なのがフォーマリズムだ。形式によって再現性は高くなるし、必然として幕を降ろせる。能や狂言もフォーマリズムと考えることができる。演目や技術を将来に受け継いでいくために形が必要だったのだろう。それに対し、映画における俳優の演技はベストな瞬間を撮影することが目的となっていて、再現性は求められていない。フィルムによって「再生性」が保証されているからだ。そう、実は映画の演技こそが1回性のものなのだ。また、スクリーンに映し出される俳優の演技は終わりを準備していない。撮影時は「カット!」と声をかけられるまで演技は続くし、編集によって「カット!」と声をかけられる前の、演技の途中で強制的に切られる。
『こわれゆく女』(監督:ジョン・カサヴェテス)より
https://www.youtube.com/watch?v=Dob7CiyAK2g
カサヴェテスの映画は、ただ物語を伝えるだけではない。俳優による、終わりを準備していない、再現性が求められていない1回だけの「演技の記録」である。この「演技の記録」を介して物語や人間の普遍性に触れるのも映画の特徴である。スタニスラフスキー・システム(「役を生きる」)を最大に活かせるのは、映画なのである。人間は、いつかやってくる死を意識することはあっても、数分後に幕が降りることを意識して行動したりはしない。幕が降りる/降ろすことを意識している演劇の演技は形式からは逃れられないのである。ちなみに、多少ややこしくなるが、カサヴェテスは演劇の上演中に俳優が自らの演技では幕を降ろせなくなり、形式が崩壊した様子を映画にしている。
『オープニング・ナイト』(監督:ジョン・カサヴェテス)より
https://www.youtube.com/watch?v=zqHvb8fZmX4
それでも演劇を観ていて形式を超えた「役を生きる」演技を目撃するときがある。それは俳優が自身で演技を終わらせる意識を失くしている瞬間だ。長尺の場面で起こりやすい。映画における長回しが演劇的とされる所以はここにあるのだろう。
『ハルカのすべて』は、頻繁に場面が展開する。その度に俳優の演技が切れる。正確に言えば俳優が演技を切る。演技をしながら自ら編集しているのだ。それはそれでひとつの芸当と成り得るが、「役を生きる」演技と形式の間で、特にSEも担う俳優の演技は不本意なことになってはいなかっただろうか。フォーマリズムの作風で成功している劇団の演技は、「役を生きる」演技は求められていない。形式に寄せた不自然さを貫くことで独自の世界観におけるリアリティを創作している。『ハルカのすべて』を観ていると、映画への溢れんばかりのリスペクトや舞台芸術に対する信念、人間への優しい眼差しなど様々な愛情に触れられるのだが、それゆえに作品の幾分焦点がボヤけてしまった印象がある。
次回からはまたストレートプレイに戻るというような内容のピンク地底人3号のコメントをSNSで目にした。フォーマリズムの追求はとりあえず放棄する宣言である。すでにフォーマリズムが限界に達し次の展開が模索されている(主に東京の)現代演劇の潮流があるときに、また(※)関西は演劇における現代性を消化しないでやり過ごすのだろうか。今回の作品の形式に驚き歓迎した若い観客層も存在する。彼らの感動の余韻はどこに向かうのだろうか。他の劇団に求めるのか、実作者として追求するのか、それとも1回限りの物珍しさで済ませて捨てるのか。捨てるとしたらどのような仕草で捨てるのか。
地芝居。地歌舞伎とも村芝居とも呼ばれる。地方で行われているアマチュアによる歌舞伎のことを指す。基本的には地域の人たちが寄り集まって(保存会)、上演を実施するのだが、さすがにゼロから全てを素人がやれるものでもないので、プロとして活動されている振付師匠に保存会が指導をお願いする。そして地元住民の前で上演される。活動の将来を支える若い世代の育成も地域ぐるみで行う。国や自治体によって文化財に指定される場合がある。面白いのは、あくまでも主導権は地域の保存会にあるところだ。指導技術や人間性が気に入らなければ振付師匠を更迭する。これを繰り返すことで地域の特色が色濃くなっていき、地元住民の価値観も定まっていく。伝承されるのは藝態ではなく、その地域の人々の「美意識」なのだ。
…小劇場演劇はもうすでに終わっているが、関西ではそれが村芝居のように引き継がれている。村芝居が悪いとは思っていない。その逆で、独自の美意識を持った村芝居である自覚を強め、それに誇りを持つことが重要である。漠然と関西でやっているだけの小劇場演劇でも、あわよくば東京で売れたい小劇場演劇でもない、関西という土地が持つ美意識に根ざした創作こそが存在意義を認められ、他地域からも注目される。「村芝居なんかじゃない!」と言うのは経済的なコンプレックスの表れでしかない。このコンプレックスが、中途半端なサイズの経済圏と空元気による優しさの同調性を作り出し、そして創り手も観客も身動きが取れなくなっているのだ。忌むべきは自覚の無さである。
※ → 「また」
関西小劇場演劇は現代口語演劇を消化し切れなかった。現在関西で使われている話し言葉の丁寧な検証や実践による追求が行なわれていない。「私らが日頃喋ってる感じで台詞言うたら現代口語なんやろ?」という浅薄な了解で済まされてしまっている。声の質や発話時の身体に関する思索の積み重ねもない。そもそも関西弁はいわゆる標準語よりも歴史的に古いので現代口語にはなりえないのかもしれないのだが、そういったことも含めて議論されていない。関西弁の現代口語演劇が必要だったと考えているわけではない。それを消化していないという事実が日々関西で生まれている演劇作品になんらかの影響を与え、それもまた関西の美意識を色濃くしているという自覚が必要なのである。
筒井潤
演出家、劇作家。
大阪を拠点とする公演芸術集団dracomのリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとしてTPAM2009、フェスティバル/トーキョー10、サウンド・ライブ・トーキョー2014、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(2017年、デュッセルドルフ)等に参加。個人としても桃園会やDANCE BOX主催『滲むライフ』で演出等、様々な活動を行っている。
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