思えば、舞台設計から手が込んでいた。 長方形のKAVCホールから通常の座席を取っ払い、全スペースの4分の1~3分の1くらいを観客席に、その残り、つまりホールの半分以上を上演に使っていた。普段よりも縦に圧縮された客席は急勾配のひな壇状にしつらえられ、一段、二段と登って席に着くと舞台全体を見下ろせる。 照明は最小限。暗い。そして広い。暗さがステージの境目をぼやかして、どこまでも奥に広がって見える。 客入れが終わり、前説が終わる。闇の中に、多喜男と雪子が寄り添って座る姿が浮かび上がる。 静けさを破って雪子がつぶやく。「二酸化炭素」 多喜男がうなずく。「お帰り」 「二酸化炭素」「お帰り」「二酸化炭素」「お帰り」… ――冒頭の流れを書き起こしてみた。 活字でたどってもよく分からない。 けれどもそこにあるのは言葉だけではない。こぢんまりとした2人のたたずまい。雪子役・中村彩乃の感情を抑えた小さなつぶやき。多喜男役・浜本克弥の、やはり無機質なのに、どこか暖かさを感じる返事。すべてを包む静寂と暗闇。言葉のやり取りとは別の、客席に届く数々の要素が、2人のつながりを強く物語る。 人が目の前に存在しているからこそ可能な表現だと感じる。人という存在が、存在するだけでどれほど多くのことを語っているのだろうと思う。「耳を澄まして観る作品」という評にも得心がいく。 作品の鍵となる概念が「二つめの月」だ。 人類が開発したその新たな月が完成すると夜がなくなり、人間は眠る必要がなくなる。さらに死者が見えるようになり、結果、死者と生者が世界に入り交じることになる…。聞いただけで妄想が膨らむ。ユニークな設定である。何より「二つめの月」という響きが美しい。 今作は、その「二つめの月」が本格稼働する直前の物語。冒頭のシーンの直後、雪子は多喜男の前から姿を消す。 雪子を探す多喜男と、彼につきまとう自称死者の淳(まえかつと)。一方、雪子は死者として登場し、たまたま知り合った武(野村有志)と自らの葬式を行おうとする。そして雪子の妹万智(三村るな)に、その父(若旦那家康)と母(牛嶋千佳)…。3組の生者と死者たちはそれぞれ、蝋燭の炎のような照明に照らし出され、雪子の不在、あるいは存在に心を揺らしながら物語を紡ぐ。 人物造形はメリハリが利いていた。ハイテンションの武と淳、ごく一般的なテンションの万智と対照的に、雪子、父と母、多喜男は極力感情を出さない、つぶやくような演技。生と死の対比を体現していた。せりふは一つ一つエッジが立っており、会話のかみ合わなさも、この世界線では楽しく感じた。 ストーリー上の謎は数多い。雪子はなぜ失踪して死んだのか。父と母はなぜあのように変容したのか。セミとは一体何か…。その場では突き詰めて考える気にはならなかった。不条理な会話を筋道立てて追いかけても、作家の意図に追いつける気はしない。 ただ、シュールなやり取りが生み出す暗くて静かなあの空間は、ひたすら心地がよかった。なぜだろうか、と考える。現実世界と違って、死がそれほど重くない、ということだろうか。なにせ、死んだ人とも話ができるのだから。あの人の言葉を聞くことはもう二度とできないという現実を、突然突きつけられるわけではないのだから。…いや、悲しむ多喜男の姿からは愛する人を失った痛みが強く伝わってきた。会話ができても、自分のいる世界から伴侶が立ち去るのが耐えがたいことには変わりがないのだ。 そもそも、「二つめの月」が明るく照らすであろう世界が、どうしてこんなに暗いのか。人類が進んで開発したというのに。でも、こちらは何となく想像できる。人間が寝ずに生きていけるようになれば、きっと休むことなく働き続けられるようになる。というか、働き続けさせられるようになる。そんな世界、考えただけで気が滅入る。 仕事をしたら休まないといけない。公の場や職場に顔を出した後は、私的な世界で緊張をほぐさないといけない。光に影は必要なのだ…。 そんなメッセージを勝手に読み取って、舞台を思い返す。あの暗闇が、ぬくもりに満ちていたことに気づく。生者も死者も、人々の恐れも悲しみも、およそ人という存在の営みすべてを等しく包み込んでいたことに。 言葉にしなくても、雄弁で。真っ暗なのに、温かくて。 実に演劇的な作品だったと思う。
溝田幸弘
神戸新聞社。1970年、大阪府堺市生まれ。神戸大大学院文学研究科修了、98年神戸新聞社入社。北播総局、社会部、文化生活部、整理部、北摂総局を経て2015年から文化部。演劇と囲碁将棋を担当する。
劇団ページに戻る
溝田幸弘『あたたかな暗闇』
思えば、舞台設計から手が込んでいた。
長方形のKAVCホールから通常の座席を取っ払い、全スペースの4分の1~3分の1くらいを観客席に、その残り、つまりホールの半分以上を上演に使っていた。普段よりも縦に圧縮された客席は急勾配のひな壇状にしつらえられ、一段、二段と登って席に着くと舞台全体を見下ろせる。
照明は最小限。暗い。そして広い。暗さがステージの境目をぼやかして、どこまでも奥に広がって見える。
客入れが終わり、前説が終わる。闇の中に、多喜男と雪子が寄り添って座る姿が浮かび上がる。
静けさを破って雪子がつぶやく。「二酸化炭素」
多喜男がうなずく。「お帰り」
「二酸化炭素」「お帰り」「二酸化炭素」「お帰り」…
――冒頭の流れを書き起こしてみた。
活字でたどってもよく分からない。
けれどもそこにあるのは言葉だけではない。こぢんまりとした2人のたたずまい。雪子役・中村彩乃の感情を抑えた小さなつぶやき。多喜男役・浜本克弥の、やはり無機質なのに、どこか暖かさを感じる返事。すべてを包む静寂と暗闇。言葉のやり取りとは別の、客席に届く数々の要素が、2人のつながりを強く物語る。
人が目の前に存在しているからこそ可能な表現だと感じる。人という存在が、存在するだけでどれほど多くのことを語っているのだろうと思う。「耳を澄まして観る作品」という評にも得心がいく。
作品の鍵となる概念が「二つめの月」だ。
人類が開発したその新たな月が完成すると夜がなくなり、人間は眠る必要がなくなる。さらに死者が見えるようになり、結果、死者と生者が世界に入り交じることになる…。聞いただけで妄想が膨らむ。ユニークな設定である。何より「二つめの月」という響きが美しい。
今作は、その「二つめの月」が本格稼働する直前の物語。冒頭のシーンの直後、雪子は多喜男の前から姿を消す。
雪子を探す多喜男と、彼につきまとう自称死者の淳(まえかつと)。一方、雪子は死者として登場し、たまたま知り合った武(野村有志)と自らの葬式を行おうとする。そして雪子の妹万智(三村るな)に、その父(若旦那家康)と母(牛嶋千佳)…。3組の生者と死者たちはそれぞれ、蝋燭の炎のような照明に照らし出され、雪子の不在、あるいは存在に心を揺らしながら物語を紡ぐ。
人物造形はメリハリが利いていた。ハイテンションの武と淳、ごく一般的なテンションの万智と対照的に、雪子、父と母、多喜男は極力感情を出さない、つぶやくような演技。生と死の対比を体現していた。せりふは一つ一つエッジが立っており、会話のかみ合わなさも、この世界線では楽しく感じた。
ストーリー上の謎は数多い。雪子はなぜ失踪して死んだのか。父と母はなぜあのように変容したのか。セミとは一体何か…。その場では突き詰めて考える気にはならなかった。不条理な会話を筋道立てて追いかけても、作家の意図に追いつける気はしない。
ただ、シュールなやり取りが生み出す暗くて静かなあの空間は、ひたすら心地がよかった。なぜだろうか、と考える。現実世界と違って、死がそれほど重くない、ということだろうか。なにせ、死んだ人とも話ができるのだから。あの人の言葉を聞くことはもう二度とできないという現実を、突然突きつけられるわけではないのだから。…いや、悲しむ多喜男の姿からは愛する人を失った痛みが強く伝わってきた。会話ができても、自分のいる世界から伴侶が立ち去るのが耐えがたいことには変わりがないのだ。
そもそも、「二つめの月」が明るく照らすであろう世界が、どうしてこんなに暗いのか。人類が進んで開発したというのに。でも、こちらは何となく想像できる。人間が寝ずに生きていけるようになれば、きっと休むことなく働き続けられるようになる。というか、働き続けさせられるようになる。そんな世界、考えただけで気が滅入る。 仕事をしたら休まないといけない。公の場や職場に顔を出した後は、私的な世界で緊張をほぐさないといけない。光に影は必要なのだ…。
そんなメッセージを勝手に読み取って、舞台を思い返す。あの暗闇が、ぬくもりに満ちていたことに気づく。生者も死者も、人々の恐れも悲しみも、およそ人という存在の営みすべてを等しく包み込んでいたことに。
言葉にしなくても、雄弁で。真っ暗なのに、温かくて。
実に演劇的な作品だったと思う。
溝田幸弘
神戸新聞社。
1970年、大阪府堺市生まれ。神戸大大学院文学研究科修了、98年神戸新聞社入社。北播総局、社会部、文化生活部、整理部、北摂総局を経て2015年から文化部。演劇と囲碁将棋を担当する。
劇団ページに戻る