筒井潤コトリ会議 『セミの空の空』

とても面白く鑑賞した。私たちと関係があるような、それでいて必要なのかどうかはわからない幾つかのエピソードが散りばめられ、それらが接続したり離れたりして、最後に母胎回帰(※)という小劇場演劇の典型、そして劇作、演技、スタッフワークの確かな技術力により、ずっと楽しく観ていられるのだ。
言うまでもなく、大半の演劇における鑑賞者は、一定時間客席に黙って座っていなければならない。演劇を観るために劇場に足を運ぶということは、つまり喜んで拘束されに行くということである。いま日々の生活の中では、本当の自由を感じにくくなっている。自由を獲得するためには、誰かによって自由を強いてもらわなければならない。コトリ会議『セミの空の空』はまさにそういう場合に最適と思えた。劇場という制度のほか、様々な仕掛けによって鑑賞する側に自由を強いる。ゆえに、面白く鑑賞するしかないのである。

私個人は、死にまつわるいくつかのドラマらしきものを配置することで、鑑賞者の心にある生への希望を浮かび上がらせる上演として面白く観られた。抒情的な死生観が通奏低音としてあり、登場人物たちはユーモラスだが悲しくも見える様子で、自己と他者の死に接触していく。この作品で重要なのは、一人の女性が終始上演の中心らしきところに存在しているものの、作家は誰(の死)を軸に描いているのかというフォーカスが絞られそうになると、微妙にピントをずらすという作劇技術にある。それによって観客は、特定の登場人物に必要以上の感情移入をすることも、作家の考えに縛られることもなく、個人的な死に関する過去の経験や考え方について自由に思いをめぐらせながら鑑賞できる。

上演の度に構成や台詞に変更があり、決して定着しないのが売りかのようなアナウンスがあったが、これも作家性によって観客の思考を縛ってしまわないための仕掛けとなっている。問いがあれば人は正解を考える。芸術作品を観たときにも、正解はないとわかっていても正解を求めようとこころが動く。これが芸術鑑賞である。本来作家性とは鑑賞者に提供する問いをどのように定めるかにある。しかしコトリ会議はそれをしないというスタイルをとっている。問いが流動的であると知った観客は、作家の問いに対する答えを追求する力は弱まる。だからこそ自由に、積極的に自分なりの正解を探すことができる。それは自己肯定感の確認である。 以上のように、コトリ会議は観客に自由を強制し、忙しい生活の中で失った個人の豊かな思考行為を取り戻させる。そして今回は死にまつわる作品なので、必然的に死について考える。死を想ううちは人は生きている。だから観客は観終わったあとに自分の生を実感し、健やかな気分になれる。

私は鑑賞中ずっとどことなく懐かしい気持ちになっていた。古いと言いたいわけではない。90年代からゼロ年代までの間、私はたくさんの小劇場演劇の上演を観た。当然、観たけれども特に印象に残らなかったもののほうが多い。しかしだからこそ、それらを鑑賞しているときの体感のほうが生活の一部/人生の背景と化している。そしてそのような、観なくても良かったかもしれない数々の小劇場演劇の上演に共通して宿っていた雰囲気から、ノスタルジーだけでなく、気だるさや、現在の価値観からそれを眺めたときに感じるある種の軽さも、冷笑せず批評的に抽出して演出に巧みに織り交ぜている。とても高度な仕事だ。これも小劇場演劇を愛好する観客が個人を取り戻すのに役立っていると思われる。

私が観たのはたまたまアフタートークがある回だったので、客席に残って話を聞いた。そこで「わかりやすくしたいわけじゃないでしょ?」「そうですね」といったやりとりがあったと記憶する。このような発言は小劇場の劇作家からわりと頻繁に聞く。
萩原朔太郎の『研究 難解の詩について』という文章がある。その冒頭にこうある。

「解らない詩」といふものが世の中にあるだらうか。西洋でもマラルメやラムボオの詩の中には、ずゐぶん難解なものがあつて、新聞社が懸賞で答解を募集したりしたことがあるさうだが、原理としては、詩は必ず解るものなのである。解らない詩なんてものは世の中にはない。もし有るとすれば、それは作者が故意に悪戯気から、解らないやうにトリックして書いた詩である。いやしくも本気になつて作つた詩なら、屹度解らなければならない筈だ。何故なら人間の言葉といふものは、どんな支離滅裂な犯人のウハ言の中にさへ、何等かの表現しようとしてゐる、主観の本心が必然に現はれるから。

本来、作家というのは鑑賞者にとってわかりやすくしたくないなどと考えるべきではない。創りたいものを一生懸命創って、それを観てもらえば良い。たとえ結果として難解になり、鑑賞者の誰ひとりとして理解できないものになったとしても、作家にとって他の選択肢がない、そうするしかないという本気の表現だったのであればそれはもう仕方がない。一方、作家が観客にとってわかりにくいものにしたいと思って意図的にそうするのは、表現ではなくて悪戯である。

「活力失い閉館の連鎖 関西の小劇場、強まる危機感」(日経新聞 2019/11/29)
この記事の最後に「演劇がジャンルの内に閉じこもり、実社会に訴える力を失いかけている現状」とある。Twitterなどでは批判するコメントがいくつかあった。しかし、閉じていると書かれてしまう理由のひとつとして、小劇場演劇では作家の悪戯を作家性ととらえるところがあるからではないだろうかと私は考える。そうでなければ前述のアフタートークの発言を観客は許さないはずである。悪戯を求め、それを嗜む。閉じていると指摘されても仕方がない。

トークではこのような発言があったが、実際のコトリ会議の上演はさらに一歩先を行っていると思う。極めて繊細な手つきで作家性を消すという作家性によって、いつかどこかで観たことがあるかもしれないと勘違いさせる感覚を与えながら、いつか訪れるかもしれないと期待させつついつまでたっても訪れない幸福な未来のどこの劇場でも観られる平凡な小劇場演劇作品を想像させるという、Vaporwaveを聴いているときのような、なんとも言えない複雑な感情が湧いてくる上演だった。上演行為それ自体にSF感が帯びていた。それがとても興味深かったのだ。
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というのも、そう遠くない将来、作家性というものが疎まれる時代が来ると私は考えているからだ。

※ → 母胎回帰
最後に母の行動や存在によって物語をまとめる(=収拾不可能となった物語の解決を母に押しつける)。ギリシャ悲劇が男性の語りであることから古来物語は男性的であるとした上で、物語を終わらせて世界を無に戻すという行為であることから、いわゆる「伏線と回収」も母胎回帰と考えられる。

プロフィール

筒井潤

演出家、劇作家。
大阪を拠点とする公演芸術集団dracomのリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとしてTPAM2009、フェスティバル/トーキョー10、サウンド・ライブ・トーキョー2014、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(2017年、デュッセルドルフ)等に参加。個人としても桃園会やDANCE BOX主催『滲むライフ』で演出等、様々な活動を行っている。