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KAVC FLAG COMPANY 2021 – 2022|StarMachineProject『定位』

はが みちこ「過剰な演劇と忙しない客」

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  • 2022.9.1
  • Text: はが みちこ

 赤星マサノリの主宰するStar Machine Projectは、演劇関係者だけでなく映像作家やエンジニア、ミュージシャン、ダンサーなど、さまざまな分野の表現者たちが協働する、トランスメディアな演劇プロジェクトだという。本作『定位』では、会場のいたるところにカメラが配置され、そのカメラからの配信によって、リアル空間だけではなくオンライン上のVR空間でも観劇ができるハイブリッド形式がとられていた。技術的側面に目が惹かれがちだが、そうした形式が際立つほどに、その状況を演劇として成立させる根本的な要素への考察があることに気付かされる。演劇のメディウム・スペシフィシティとは、まさに俳優の演技であり、さらにいえばその人を演じられたものとみなす観客のまなざしだろう。つまり、演者と観客の関係の取り結び方が、ここでは主題になっているのだ。
 
さまざまな仕掛けが、この両者の関係の成立をそこかしこから阻んでくる。まずは、舞台となる場所が動くこと。客席のないフラットな会場は、床面に枠線が引かれており、一部重なりながら4つのエリア(スペースA〜D)に分けられている。枠線は、角材によって箱型のように空間の中に延長されて上部で交差し、各エリアには、それぞれ椅子やスクリーン、水槽などが配されている。どのエリアで演劇がおこなわれるかは、アナウンスと上部から吊るされた電球の点灯によって示される。ミニマルな舞台装置は、さながら美術分野でいうところのインスタレーションのようだが、観客はその中で、こちらからあちらへとシークエンスごとに移り変わるメインステージを判別していくことになる。自分が立っていた場所がステージになれば枠外に出なければならないし、次の演者を見やすい位置を探さなければならない。
従来の固定された舞台と客席とは、演者と観客の関係を安定させ、演劇という虚構の成立を支える装置だった。その安定した受動的関係では、虚構のタイムラインの中で場面が転換したとしても、没入状態にある観客が想像上で移動するのは容易だろう。だが、物理的に舞台が移動するとなれば、観客も、意識だけではなく、自分の身体ごとついていかなければならない。移動しながら、かつ、舞台の中心がどこにあるか、カメラの追尾フォーカスのように追いかけるので、わりかし忙しい演劇作品なのである。客席のような定位置は与えてもらえないので、自分が見るポジションを自分で探っていくことになる。
 
どこがメインステージか焦点が定まっても、そこに演者以外の人物がいるのも厄介な点だ。彼らはオンライン配信のためにipadを手に持ち、そのカメラで演技の細部をとらえようと演者の周りを取り巻いている。だから、リアル空間での鑑賞においては、彼らの存在は不要――黒子のように存在しないものと、意識から消して演者に集中すべきなのだが、困ったことに、別のシークエンスで演者だった人が今度はipadを持っていたりするので、このシークエンスではいったい誰が“見るべき”演者なのか、迷ってしまうことになる。衣装も特段に凝ったものではなく、普段着のようで、統一された要素もないので、客と出演者の境界も曖昧だ。この雑踏めいた状況の中、いま演じているのは誰なのか。
ジャン=ポール・サルトルの著作には、演技についての言及が多くあるが、とりわけ有名なのはカフェの店員と客のたとえだ。テーブルから手を上げて合図を送れば、さっと駆けつけて客のオーダーを聞く店員は、実のところ演じられた虚構の存在で、両者は予定調和な社会的順応を成立させる共犯関係にある。だが勤務が終われば、その人は店員という仮面(ペルソナ)を脱いで普段の姿になることができるものだ(サルトルによれば、それは単に日常の役割のペルソナに付け替えるだけ、ということかもしれないが)。コンビニ店員の退勤時に出会した時など、さっきまで制服でレジのあちら側にいたはずの人が、私服でこちら側にいるのを見て、なんとなく気まずく感じたりしたことはないだろうか。固定化を外れた途端に虚構はいとも簡単に揺らいでしまい、他者が安定した役割にいるように期待する自分に気付かされるからだ。このような気まずさ、混乱が、演者という舞台の中心を識別しようとする意識の中にも芽生えてくる。
 
この混乱に拍車をかけさせるシーンが、いくつか用意されていた。一つは、演者が台本に書かれた自らの名前(存在)に自己言及する場面。「澤田が劇場に立つ」、この一行が書かれたことによって、ここに存在することができて嬉しいと、澤田本人が語る。だが、その独白もまた、台本に書かれたセリフであり、演じられたものであるというねじれた状況である。もう一つは、視覚障害のある演者とタップダンサーの、音によるかけ合いの場面だ。それは演技というよりは即興演奏で、タップと白杖で床を叩く音のみでお互いを真似し合うセッションが段々と盛り上がっていき、観客もまた聴覚的な現象に惹き込まれていく。しかし、ライブパフォーマンスではなく演劇であるというフレームに立ち返えれば、見る-見られるという関係がここでは無効化されていることに気づくだろう。
 
また、スピーカーから出力される音声も、全編にわたって聴覚的な仕掛けとして機能している。開演前は、楽屋のやりとりを思わせる会話(当てっこクイズをしているような?)がラジオのように流れているし、始まってからは会場のアナウンスが、観客に向かって、親しげな様子でこの演劇の形式を折に触れて解説してくれている。次のエリアへナビゲートしてくれるのも、このアナウンスだ。ふわふわした調子のスピーカー音声の存在にすっかり慣れきっているところで、舞台の演者たちがマイクを通してたわいもない会話をしていても違和感を感じることはない。しかし、直後に、演者の口が実際には動いていないのにスピーカー音声では会話をするシーンが挟まれることで、さっきまでの会話は録音の口パクであった可能性が示唆されてしまう。目の前の演者は、演じているのか/演じていないのか、現実なのか/虚構なのか。かき混ぜられた状況に、それまでのなごやかな雰囲気を破る緊張感がたちのぼった。
 
こうした、さまざまな細かい演出が積み重ねられることで、演劇的な虚構への惰性的な没入が徹底的に禁じられている(付け加えておけば、特にこれといった筋書きもない)。演者をまなざすことへの集中を阻止するような、流動的で過剰な情報/状況で演劇を成立させるためには、観客の方が能動的に、自分の身体と意識を動かしていかなければならない。
その要素は、オンライン観劇の方でも試みられており、VR空間の四つの壁面に投影されるエリアごとの映像を、アナウンスされる進行に合わせて追いかけながら、視点を動かして鑑賞する方式になっていた。各壁面には固定カメラとipadのカメラからの三つの配信映像があるので、どれに注目するかも選択の余地がある。しかしながら、VR空間ではやはり観客の可動性と微細な情報の伝達が限定されてしまっており、両形式での鑑賞体験では、全方位的で散漫な情報過剰性に抗いながらの、リアル空間での忙しない観劇の強度がかえって印象づけられた。

はが みちこ

アート・メディエーター。京都市立芸術大学芸術資源研究センター非常勤研究員。浄土複合ライティング・スクール講師。ウェブ版「美術手帖」、「paperC」、「AMeeT」、「+5」等のウェブメディアに寄稿。