StarMachineProject「定位」を観劇。
【定位⇨ある事物の位置を定めること】
本作品への定位は、自身の中でいまだ定まっていない。しかし自身の観劇体験にはない時間を過ごせたことは確か。
会場へ到着すると、受付の方より小型のラジオを手渡される。
本作が上演される劇場空間は開演までの1時間が展示会場として一般開放されていた。
会場内は四ヶ所のエリアが設けられ、水槽や巨大モニター、壁に貼り付けられた白い鞄、エリアの境界線を示すかのような木枠等々、まるで現代アート展の装い。
展示会場である意味がこれから上演される作品にどう繋がるのだろうかと思いながらイヤホンから流れるラジオ内での会話に耳を傾ける。
開演時間になると、それまでラジオから聞こえていたたわいもない会話が四ヶ所に分かれたエリアの説明に切り替わり、上演エリアに干渉しなければ観客は動き回りながら観劇できるスタイルであることを知る。オールスタンディング。
作品は実空間・仮想空間を行き来しながらその境界線を曖昧にしていくのだが、僕はそこに意味を見出そうとしすぎたのだろう。もっと言えばこの作品鑑賞に対する正解を探そうとしすぎた。その結果、本作を掴み損ねたまま終演を迎えてしまったのが素直な感想。そしてそれは今もそうである。
なのだけど、掴みそこなったまま劇評を書いているには一つ理由がある。
それは作中にあった「海底深くでオナラした場合、そのオナラは海中を上がりながら匂いの粒子がとれていき、気泡が海面で弾けた時には匂いが一切しないものになっている」的なセリフが心に残っておるから。※劇評を書く上で見せていただいた構成台本には記載されていないセリフなので他の回ではなくなってる可能性有
そのセリフを聞いた瞬間、目の前に起きる事象全てが海面ではじけたオナラだったかの様に思えた。
そして、その匂いの元を嗅ぎに目の前に起きる事象の奥に深く潜ろうと観方を変えたのだが、自身の想像力のなさがそれを拒み、彼らも存在ごと曖昧にするかのように消していった。
娯楽が溢れるこの時代において、分かりやすさが重視されている。そして重視されればされるほど「これは、こういうもの」という常識が確固たるものとなり、匂いは嗅ぐ必要すらなくなっていく。いや必要か否かというより、不勉強で怠け者である僕のような人間は嗅いだ”つもり”で止まっている。
そうするのは、あらゆるモノをそのつもりで定位させなくては不安でしょうがないからだろう。この作品を観劇した自身そのものの様に。
それを証拠に、観劇中、僕は判った気がした断片をかき集め「これは、こういうもの」で”つもり”を作ろうと躍起になっていた。嗅げない匂いすら「こういうもの」だと決めつけて。
その行為に躍起になっていると、プロジェクターの様なものから、「存在と不在」「バランス」「境界線を行き来する」「音」「風景」「匂い」「おいしさ」「感覚」「反応する身体と心」という文言が映し出され始める。
すると出演者である盲目の女性がそれらを欲し捕まえようと手を何度も伸ばしだした。その姿は「こういうもの」に当て嵌めようと観劇し続けた自身の様にも映る。
映ったのだが、その観方はおそらく正解ではない。
そしてあの空間には正解なんてものも存在していなかったのだとすら思う。
匂い。
この劇評を書きながら、ふと顔を上げて映る景色のほとんどは「こういうもの」で溢れている。そして本作を観劇するまで自由であると信じて疑わなかった「演劇」ですら、そうであったのかも知れないとすら。
コロナ禍をはじめ、日本だけでなく世界中で崩れゆく「こういうもの」を目撃しながらも、いまだ「こういうもの」に縋る自身にとって、この定位という掴みきれない作品の存在は非常に豊かなモノとなりました。
野村有志(のむら・ゆうじ)
2004年、1人演劇ユニット・オパンポン創造社を旗揚げ。
全作品の脚本・演出を野村が務め、ペーソスと笑いを融合させ泥臭い人間模様を描くのを得意としている。「CoRich舞台芸術まつり!2018春」にてグランプリ受賞。2021年より映画制作を開始し、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2022にてフィルミネーション賞受賞。