コロナ禍で、劇場上演のオンライン配信は、劇場に足を運べない観客のための代替手段として、あるいは遠隔地からの集客を広げるツールとして浸透しつつある。本作の賭け金は、「劇場からのライブ配信」をあらかじめ上演の機構にメタ的に組み込み、徹底してそれと戯れた形式性にある。本作は、劇場での上演と同時に仮想空間でもライブ配信され、筆者は劇場での観劇の翌日、自宅でオンライン配信を観劇した。
開演前は、上演空間が「展示」として解放され、渡されたミニラジオを聴きながら、映像やオブジェなどを「鑑賞」することができる。上演空間に足を踏み入れると、様々な知覚への刺激に多方向から取り囲まれ、すぐには焦点が合わない。「上演会場」の複数のライブ映像が、3Dの仮想空間とともに正面の壁に大きく映し出されている。同じく会場の様子を中継し続ける、床置きのモニター。泡がポコポコ出ているだけの、魚のいない水槽。あちこちに置かれたスタンドマイク。空間を水平と垂直に区切る角材。その間をうろうろしている観客たち。開演前のざわめき。そしてラジオのイヤホンからは、ダラダラとした誰かのおしゃべりが流れてくる。中継、複製、増幅、転送と多チャンネル。
上演空間は床のカラーテープで4つのスペースに区切られ、頭上のライトが点いたスペースでパフォーマンスが行なわれる。観客は、そう告げるラジオのナビ音声を聴きながら、スタンディングで鑑賞する回遊展示形式だ。ラジオのスイッチは自由にオンオフしながら見てよい。4つのスペースにはそれぞれ、水槽、映像が投影される壁、小さなステージ台、壁に掛けられた無地のトートバッグとスライドの映写装置が置かれ、5~10分ほどの短いパフォーマンスが展開していく。ストーリー性はなく一見脈絡なく思えるが、異様なのは、常に別のパフォーマー2名がタブレットを構えてその周囲を歩き回り、観客の視線を遮ることなどおかまいなしの「真剣さ」で、「撮影」のタスクをこなしている姿だ。そして中盤、パフォーマーが「仮想空間の観客」に呼びかけ、「映像が転送されるまでのディレイ」をカウントするシーンを契機に、「パフォーマー2名は何のために“撮影”に従事しているのか」「現実の複製が転送される宛先はどこか」という疑問が浮かび、「“パフォーマンス”の一環として撮影中の映像が、実際にライブ配信されている」可能性が浮上してくる。
仮想空間におけるライブ配信は、リアルの場での上演をどこまで代替しうるのか。この「代替(不)可能性」をめぐる問いは、様々な仕掛けを通して、存在と不在、名前と存在証明、集うこと(劇場へ/劇場空間の中で/仮想空間上に)、同期とズレ、複製と同一性、転送と遅延といったキーワードを通過し、最終的には「今見ているものの存在の不確かさ」へと帰着していく。断片的な会話やモノローグは、一見たわいもない雑談に聞こえるが、テーマとのメタ的な連関性が埋め込まれている。例えば、「今見ている星の光は、もう爆発して無くなった星から届いたものかもしれない」「マリアナ海溝くらい深い海底でおならをしたら、泡が水面に届くころには匂いは消えている。泡だけになったおならは、それでも“おなら”?」といった発話は、「37秒後にこの映像が仮想空間に届きます」という、「現実の複製」「転送と遅延」がはらむ同一性への問いをゆるく補強している。オンライン配信版を見る観客は、まさに「遅れて届いた星の光」である映像を見ているのだ。それは、「匂いが抜けて泡だけになったおなら」のように、常に欠落や変質を抱えている。また、パフォーマーたちはスタンドマイク越しに発話し、その音声はラジオを通して二重に伝達されるが、あるシーンでは口を閉じたパフォーマーの「声」だけがラジオから流れ、その時たまたまラジオのスイッチを切っていたり、周波数のつまみがズレてしまっていた観客の耳にはその声は届かず、「無音」「不在」のままだ。
「オンライン配信のため」「ラジオ中継のため」と称して様々に仕掛けられたカメラやマイクといったデバイスにより、「今ここ」の出来事は、中継され、複製され、増幅され、多重化され、転送され、変質し、「見逃し」のリスクをはらみながら、常に曖昧に揺らぎ続ける。この揺らぎの中を観客は歩き回る(仮想空間での鑑賞でも視点や位置を自由に動かすことができる)。ひとつのスペースから次のスペースへと「移動」し続けるうちに「観客の集団性」が形成されてくるが、片耳につっこんだイヤホンは「個人のテリトリー」を作り出す装置でもある。空間にも時間の中にも、個人/集団のどちらにも「定位」できない、あてどなさと自由さ。
パフォーマーどうしの関係も、代替(不)可能性、同期と非同期、虚実のあわいを不安定に行き来する。男性パフォーマーのタップダンスに合わせて、サングラスの女性が白杖で床を叩くリズムの同期とズレ。ひとりは日本語で、もうひとりはドイツ語で話すパフォーマーは、「自然な会話」をしているように見えるが、そもそも互いの顔すら見ておらず、「会話」は実際に成り立っているのか?一方、「豊岡の路上で街ブラ風に実況しながら歩く男の自撮り映像」を背後に、その前に立つ別の生身のパフォーマーが、あたかも「彼」であるかのように発話する2つのシーンがある。彼のおしゃべりは、それぞれ女性パフォーマーと「3人の男性パフォーマー」によって「声」をあてられるが、映像の男性はマスクで「口の動き」が見えず、台本通りに声をあてているのかまったくのアドリブなのか、虚実は曖昧だ。実況風に告げられる「現在時刻」も、上演の実時間と「時差」のようにズレている。また、基本的に出演者は(役名ではなく)自身の名前(俳優名)を名乗るのだが、本人の実存レベルでも揺らぎが起こり続ける。「澤田誠です」と俳優名を名乗りつつ、「“澤田が劇場に立つ”と演出家が台本に書いたからここに存在している」と話す彼は、現実とフィクションが不確定に重なり合った領域に立っている。
「舞台」を見る固定化された視線―客席に固定された身体からの一方向の視線、起承転結のある「物語」、俳優と「役柄」の関係―こうした「演劇」が無条件に前提とする「定位」を解体しようとする実験性がここにある。
一方で、特にオチも意味もない雑談や会話が断片的に連なる作品全体の体験としては、充実感よりも散漫さや退屈さが残る。いったい、本作が「上演」していたのは何だったのだろう。入れ子状に会場を映すスクリーンやモニターが視界の端に入りつつ、「今パフォーマンスが起こっているスペース」に(主に)視線を向け、ラジオからの音声にも耳を傾け、周波数のつまみや音量をいじり、うろうろと歩き回りつつ、他の観客の身体とぶつからないように気を配る。ひとつのパフォーマンスが唐突に終わると、次のパフォーマンススペースへ注意と身体を切り替えなければならない。だが、「聴き流し」できる「ダラダラしたおしゃべりの中身の希薄さ」のおかげで、知覚と集中力は多方向に拡散可能だ。本作の「観劇」体験はあまりにマルチチャンネルで、観客の身体にはマルチタスクな負荷が課されている。テレビをBGM替わりにつけっぱなし、スマホのイヤホンで生配信を聴きながら、片手でSNSのタイムラインをダラダラ流し見しつつ、同じ空間にいる家族や同居人から投げかけられた会話にも応える―そうしたマルチチャンネル・マルチタスクに対応可能な観客の身体こそが、ここでは「上演」されていた。
高嶋慈(たかしま・めぐみ)
京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。「京都新聞」やwebマガジン「artscape」にて美術・舞台芸術評を連載。共著に『不確かな変化の中で 村川拓也 2005-2020』(林立騎編、KANKARA Inc.、2020)、『身体感覚の旅──舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(富田大介編、大阪大学出版会、2017)。