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KAVC FLAG COMPANY 2021 – 2022|かのうとおっさん『恐怖!ときめきの館』

岩淵拓郎「40代のときめき、言ってみりゃ人生のマクガフィン」

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  • 2022.7.8
  • Text: 岩淵拓郎

公式コメントによると、かのうとおっさん「恐怖!ときめきの館」のテーマは“40代のときめき”だそうです。しかしこの作品には、誰かを想って胸が高鳴るような、いわゆる“ときめき”はまったく描かれません。本作で描かれる“40代のときめき”とは、つまらない大人になってしまった自分を受け入れ、それでもなお残りの人生をそこそこ刺激的にやり過ごしていくために見出された実態のない黄金――つまり40代こそが掴むことができる人生のマクガフィンです。
 
“ときめき”、じゃなくて“40代のときめき”。ここを踏み外すと、この作品はただただ雑なコメディにしか見えない作りになっています。もちろんそれでも問題ないし、全体に散りばめられた回収されるでもない大ネタ小ネタの応酬で、それなりに楽しめます。かのうとおっさんの贔屓筋にはむしろそれこそが醍醐味だったりするのかもしれません。ただ私自身は一見だったので、実際ここで躓きました。正確には、“ときめき”という失われた唯一無二の感情を取り戻すとか、取り戻したいけど取り戻せないとか、そういうことで物語が進んでいくと思い込んでいました。でも、そもそもそういう話じゃなくて、全くときめいてないし求めてすらいないんだけど、大上段から「太陽をもう一回、のぼらんすんじゃあ!!」などとのたまい、あの美しかったはずの“ときめき”をも弄ぶ、その無神経さ、そのド厚かましさ、その見苦しさなこそが、この作品の描く40代の本質なんだと思います。
 
進平「なんだか、俺はあの屋敷で一度死んだような気がした。本当に死んでしまうまでの間、何回か死ぬような目に合うのかな。……ときめくう!」
 
物語を締めくくるシーン、主人公の進平が3日間におよぶ青春のやり直しから開放され、一人電車(たぶん能勢電)に揺られながら口にする最後の台詞です。“ときめき”は期待や不安、恥じらいといった本来のニュアンスをすっかり失い、単に強烈な、しかし死ぬほどではない、ちょうどいい人生の刺激へと置き換えられています。そしてこのとき進平は初めてすでに自分の手の中にあった “40代のときめき”に気づき、そのヌルい喜びを世界に向けて高らかに表明します。
冒頭で “40代のときめき”を人生のマクガフィンと書きましたが、一般的にマクガフィンは物語を展開するための作劇上の装置で、具体的にそれが何かさして重要ではないとされます。“40代のときめき”も、まさにその内容は重要ではなく、火遊びの不倫であろうが刀剣乱舞の推し活であろうが、加齢で重くなった腰を上げさせる程度の魅力さえあれば、何だって構わないわけです。つまり失われた必然性。もしくは諦めにも似た希望。私自身も立派な40代なのでよくわかります。実際にそんな感じですよ。しかしよりにもよって、そんな代替可能なマクガフィンを、必然性しかない“ときめき”と表現するあたり、なかなかに最悪で、本当に秀逸だと思います。
 
付け加えるなら、 “40代のときめき”は、1979年生まれの嘉納みなこ本人と重なって、2022年現在のかのうとおっさんの演劇観/コメディ観として受け取ることもできます。これが分かりやすく示唆されるのは青春のやり直し初日の「体育」の時間、かつて部活でライバルだった菅野とよしえのバレーボール対決が、金城のスポコン通過儀礼へと展開していく印象的なシーンです。決戦のBGMが爆音で流れる中、ブルマと体操着姿の中年男女が見えないボールを追って、走り、転がり、絶叫し、熱戦を繰り広げるのですが、これがとにもかくにも長い。脚本上も実に11ページが割かれていて、そのくせボールが行ったり来たりするだけで物語としての展開はほぼありません。これは明らかに意図的な演出で、ここで浮かび上がるのは、物語を演じる生きた役者たちの過剰なまでのテンションであり、舞台上で結実する彼ら自身の芝居に対する“ときめき”そのものです。「そもそもこんなアホな舞台なんてときめいてなきゃやってらんないし!」  そんな台詞こそありませんでしたが……。つまるところ“40代のときめき”とは、かのうとおっさんの終わらない青春讃歌(恥)的メタ構造も併せ持っている。もちろんそれはそれで十分見苦しいのですが、これも含め彼らのリアルな演劇/コメディのかたちなのだと理解しました。
 
このような視座に立つと、終盤の進平が残った最後の一人よしえにもフラれ、正気を失って高笑いしながら語る一連の台詞も、また違って聞こえてきます。
 
進平「あははははは! おもしろい。人間って、面白い。」
渚「大丈夫でしょうか」
金城「頭がおかしくなったかな?」
進平「全然理解できないし、」
紺野「ベッドに運ぶ?」
進平「わけわかんない行動はとるし、」
みわ・しおり「だいじょうぶ?」
進平「いつの間にか、すごく変わってる。」
 
ちなみに私が観た回は7月8日19時30分の初演で、安倍さんが撃たれて亡くなった数時間後でした。正直始まるまではとても舞台を観るような気分じゃなかったんですよ。でも客電がついて会場を後にするころには、プログラムをみながら一杯やって帰るくらいにはなってました。ほらね、すごく変わってる。
 
というのが、私の本作のテーマ “40代のときめき”に関する大まかな捉え方です。ただ繰り返しになりますが、テーマなんて気にせずとも、思いつきをかたっぱしからぶっこんだような無数のネタによって、本作はコメディとしてそれなりの強度を持っているようにも思えます。でも一方で、それらのネタによって、実は意図的に隠されているメッセージのようなものがあるのではないか、そういう捻れた精巧さの上に成り立っている作品でないかという気もしてきます。このレビューでディテールではなく、テーマの“40代のときめき”にこだわって読み解こうとしたのは、そういう理由です。
 
隠されたメッセージは、二次創作的な視点でもあるので掘れば無数に出てきそうですが、最後にもうひとつ、物語に関して気になっている点を。金城が「青春のやりなおし」を通じて取り戻したかったものって実際何だったんでしょうね。それも、わざわざ自分を記憶すらしていない同級生、それもどちらかと言えばリア充だった5人を呼び出して。本人は「三日間、僕に青春の夢を見せろ」と言うんですが、だったらあえてモテモテ君とその元カノ3人なんか絶対呼ばないでしょ。さらに高校生活のある意味集大成的な最後の文化祭前でであることを考えると、普通は地獄の文化祭にして復讐の流れです。でももちろんそうはならず、むしろ金城はなんてことはない高校生活ごっこを、影の薄いクラスメートの一人として無邪気に楽しんでいるように見えます。一方、招かれた5人は青春のやりなおしを通して、それぞれに停滞していた人生をほんの少しだけ突き動かされ、とりわけ進平は “40代のときめき”という大きな収穫によって救われ、しかしまた何食わぬ顔で日常に帰っていきます。ってことは、もしかして「青春のやりなおし」は、かつてときめいていた同級生のいまを救済することで金城自身も過去の自分を救済するという、いわば相互救済プログラムだったんだじゃないですか。だってそうじゃなきゃ、あんなに都合よくギターでてこないですよ。

岩淵拓郎(いわぶち・たくろう)

編集者、一般批評学会。 1973年兵庫県宝塚市生まれ。美術家として活動した後、編集者へ。現在は主に文化芸術に関する書籍・冊子の編集、地域の文化プロジェクトのプロデュースなど。神戸の好きな餃子屋はさんプラザ地下の紅葉園。