この公演は、2022年3月に行われる予定だった。しかし残念ながらコロナの影響で延期。公演関係者の心身のご苦労は相当なものだったと思う。そして念願の実施日程が決定し、私は5月の時点で、初日の7月8日19:30の回を予約した。
「つまらない大人になった」と嘆く主人公、進平を軸に、40代の人たちがときめきを取り戻そうと奮闘したり、ときめきとは何なのかと思案したりする様子を描くコメディーである。部活動もしなければ彼女もできず、青春を孤独に過ごした40歳の金城が、同級生だった他の登場人物たちに脅しや金銭を使って強引に協力をお願いし、高校3年生の学園生活という設定で彼の“青春のやり直し”を試みる。しかし金城のイメージ通りにはいかない。〈現在40代の価値観〉〈1990年代の高3の価値観〉〈登場人物たちの過去の事実〉〈登場人物たちのいまの現実〉といった要素が複雑に交差するので、設定が形になるどころか、終盤に向けてどんどん崩壊していく。しかしだからこそ奥行きのあるおかしみが生まれ、それを幅広い世代の観客が楽しんだ。
1990年代には、HIV感染予防を主な理由として、かつてないほどにコンドームが普及し購入への抵抗感も一気に薄らいだ。コンドームの使用は、人としての権利の行使であり、責任を果たす行為である。ところがその頃に性に目覚めたストレート男子は、それを正しく理解できない。例えばこの作品の登場人物である金城は、近代的で保守的なロマンティック・ラブに囚われていて、学園生活の設定内でも、コンドームの使用/不使用どころか、性的な話題も否定する。
菅野 昨日、彼氏と避妊しないでやっちゃってー。
ミヤ それはダメだよ。
しおり 性病の観点からしても、ダメ。
金城 違う!
菅野 どうして?女子高生らしい会話じゃない!!
金城 そんなにただれるな!!もっとさわやかなのをお願いしたい!
しおり さわやか?
一方で進平は、金城とは異なる誤解をする。バンド活動に精を出し、複数の女性と同時に交際し、やんちゃにやんちゃを重ねた彼は青春のときめきを存分に味わう。そしてその青春の引き伸ばしを図る(≒コンドームを利己的に使う)。これが彼の失敗の原因だ。モテるために手っ取り早く営業職に就職したものの、職場が彼の体質に合わず、時代の変化にもついて行けず、さらにリーマンショックが追い討ちをかけてきて無職となる。周りを見渡せば友人たちは青春を卒業し、状況はさまざまだが真面目に現実と向き合っている。金城も遅ればせながら次第に大人びていく。ひとり青春の延長線上に楽しい未来があると信じてきた進平は、劇の最後にやはり青春のときめきを諦めきれず再びギターを握る。それは彼が同じ過ちを繰り返すことを暗示している。
以下、乱暴にまとめてみる。1990年より前(の価値観)に青春を過ごした人たちは、性と生殖の線引きがまだ曖昧だったのと同じように、本気とも冗談ともつかない表情で「生涯青春」と言ってのける。2000年以降(の価値観)に青春を迎えた人の多くは、性教育の発展によって性と生殖の線引きを現実的に理解できているので、権利と責任のもとにメリハリのある人生を設計し、実行する。そしてこれらの間に位置する1990年代(の価値観)に青春を送った人たちのうちで、コンドームを青春延長装置と誤解し、グズグズと引き伸ばしたやんちゃな青春と現実のグラデーションの中で彷徨っている人は決して少なくないと思う。(以上は現代日本経済の変遷とも密接な関係があるが、ここでは省略する。)
今作の冒頭でこのような件がある。(のちに豊能とわかる)人里離れた場所に向かう進平が、道中でクマに襲われそうになる。そこに女の子と男が現れ、毒矢でクマを殺し、背負って去っていく。それを見ていた進平は「何なんだ!怖い!」と言って走っていく…。私はちゃんと見たことはないのだが、アイヌ民族やその文化を丁寧に描いて高い評価を得た『ゴールデンカムイ』のパロディであることくらいはわかった。女の子と男は進平と交流せず、再び現れることもない。この場面についてのメタ的な説明もない。つまり、主人公がいかに不安な環境にいるかを表現するためだけに、アイヌを描いた『ゴールデンカムイ』のパロディである女の子と男とクマが舞台上に呼ばれたのだ。その後しばらくして、このような進平の台詞がある。「俺は見事に時代に取り残された」「なにで怒られるかまるでわからない」「俺は、どうしたらいいんだ!!」。私はクマの場面ですでに「時代に取り残された」演劇の上演を目の当たりにした思いをしていた。これらから、進平の台詞は舞台活動を通してやんちゃな青春の延長を望むかのうとおっさんの嘆きとも捉えることができてしまう。金城の“青春のやり直し”に水を差すのは、権利と責任を自覚した女性の登場人物たちによる現実的な言動だ。この要素を緊張感を持って貫けたら、小劇場演劇のやんちゃなボーイズクラブ気質を批判する作品として成立し得たかもしれない。しかし不用意なパロディがあることによって、かのうとおっさんも同類になってしまった。残念だ。
(このような指摘をするのは、私が聖人君子だからではない。演出家で劇作家の私が、偏見や無理解による態度を取り、作品も創った過去を反省しているからだ。他の人の創作に対しても、私に見過しがあれば、それは私の無反省の証となってしまう。これは決して楽しい仕事ではない。しかし私にとっての権利の行使であり、責任を果たす行為でもあるのだ。)
さて唐突だが、7月8日、午前から鑑賞し終えたあとまでの、私の出来事を記したい。
昼前に外出の準備をし始めたとき、テレビで速報が流れた。安倍元首相が参院選の選挙演説中に銃撃されたらしい。容体の詳細はまだ不明。時間が来たので外出。スマホで情報を気にしながら移動。その日が最終上映だったパゾリーニの『テオレマ』を観るために元町映画館に入り、スマホの電源を切る。終映後劇場を出て電源を入れ直し、KAVCに行くまでの間、ゆっくり歩いたりして時間を潰している最中に、死去が報じられた。
午前の速報を目にしたときからずっと素朴に思うことがあった。その政治信条への評価はともかくとして、憲政史上もっとも長く首相を務めたという要人が、そんな簡単に殺されるなんて、警備はいったいどうなっていたのだろうか、と。モヤモヤしながらぼっかけうどんをすすったあと、KAVCの客席に腰を下ろし、再びスマホの電源を切る。上演が始まった。大小の笑いが劇場内で途切れない。しかし金城が、同級生であることをなかなか思い出してくれない他の登場人物たちに対して、なんとかして思い出させようと銃を構えて脅迫し始めたとき、客席全体にリアクションへの躊躇が漂った気がした。そして、銃で脅してくる金城に抗う台詞がこれだった。
菅野 通報するわよ、アンタ!
よしえ そうよ!!日本の警察なめてんじゃないわよ!
私が唯一笑ったのはここだ。笑ったというより笑ってしまったという感覚が近い。ただし、他の観客はほぼ無反応だったと思う。
本番当日の公演関係者はやらなければならないことに追われるので、まさに進行中の時事に関する情報収集に労力を費やすのは難しい。しかし今回のような重大事件の場合はどうか。もし事件について少しでも情報が入っていれば、菅野とよしえの台詞を含む、銃による脅迫の場面をどうするかについての議論はあってもおかしくない。終演後、この劇評執筆のために、プリントアウトされた戯曲をKAVCのスタッフからいただいた。後日気になったので、いつ戯曲のデータはかのうとおっさんからKAVC側に提出されたのか訊いた。7月8日の17時48分とのこと。ちなみに死去の第一報はNHKで、17時46分らしい。
銃撃事件の真相はまだ不明で、社会が不安と緊張のピークに達していたときに、いつ用意されたか定かでない台詞と俳優による演技が、ここしかないというタイミングで現実の不意を鋭く衝き、その余韻が変容しながら残る。演劇のおもしろさとは究極的にはこういうことなのかもしれない。しかし、今作のこの台詞に関しては、演劇の権利の行使で責任を果たす行為だったのか、それとも引き伸ばされたやんちゃな青春だからこそのものだったのか。少なくとも私は知る由もない。
筒井潤(つつい・じゅん)
演出家、劇作家、公演芸術集団 dracomリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとしてウイングフィールド再演大博覧会のほか、東京芸術祭ワールドコンペティション2019、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(デュッセルドルフ)に参加。個人として山下残、マレビトの会、維新派、桃園会、akakilike等の公演に参加。様式やジャンルを問わず活動している。