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KAVC FLAG COMPANY 2021 – 2022|かのうとおっさん『恐怖!ときめきの館』

田中真治「ときめきよ さようなら~40代なんか怖くない」

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  • 2022.7.8
  • Text: 田中真治

 「KAVC FLAG COMPANY 2021-2022」の出演5組が顔をそろえた記者発表。プログラム・ディレクターのウォーリー木下は参加団体への期待を問われ、「とりあえず、かのうとおっさん、頑張れ」と述べた。その言葉通り、嘉納みなこは頑張った。結成23年にして初めて、相方不在での作・演出。その上、何しろ役柄同様、実年齢40代にしてブルマー姿や、レディース番長に扮することも厭わぬ熱演である。いや、熱演と言われては赤面だろう。そこに「必然性」はあるのであり、見る者をうつむかせないのは、長年の芸である。「あたい、頑張ったかんね!」とスケバンコントの松本人志の口調で、内心叫んでいてもおかしくないと、こちらに勝手に思い描かせてくれるのも、ベテランの味である。そして、こんなことが地下で行われているとは知る由もなく、1階では善良な市民が参院選の投票(投票日の10日が公演最終日だった)をしている図がまた、えも言われない。コロナ禍による延期を経て、公演がこのタイミングというのは、やはり只者ではなく、もはや何者かのいたずらである。
 
 そう、われわれが乗り合わせる宇宙船地球号も、板子一枚めくった下には、まぬけさやくだらなさやいたたまれなさが渦を巻いている。ついうっかり表に漏れ出してきたそれらを、ブラックライトもかくやとばかりに見つけだすのが、かのうとおっさんだ。とはいえ、訳知り顔ではやし立てるような、品のないことはしない。すいませんがと恐縮しながら、ちくちくと脾臓あたりを突いてくる。その切っ先を今回、40歳を超えた自身にも向けて、出てきたキーワードが「ときめき」。四十にして惑わず、いやホントは枠にとらわれずの意だとかいうが、なんにせよテンションはだだ下がる。それは、ときめきが失われたせいなのか。過去にときめきはあったのか。ときめきは取り戻すことはできるのか-。喪失と退行は、誰しも思い当たる感覚だろう。そこに、「ときめき」なる、日常で口にするにはちょっとためらうワードをチョイスし、白川まり奈のカルト漫画「怪奇!ニャンシーの街」的なタイトルを付けるのが、荒唐無稽ででたらめな世界を期待させ、とても「らしい」。もしかしてこれは、裏「ちむどんどん」なのか!? まさかやー、と思う人はいないかもしれないが、視線はいつもながらのB級センスだ。
 
 40代の登場人物たちは高校時代に戻る。といっても、SFではないので時をかけたりはしない。それではどうするか。ただ、みんなで学生服を着て高校生のふりをするのである。館(豊能にあるらしい)のあるじは、高校時代は地味男。青春をやり直すため、同級生を招き寄せる。リストラ独身彼女なしの主人公や女子たちは、ジュラルミンケースに入った札束の力にあらがえず、3日間の学園生活がスタートする-。この一種の枠物語のような形式が効果的だ。授業や行事のシチュエーションを、いかようにもつなぎ、展開することができる。英会話で読み上げるボブとナンシーの会話(難易度低し)がセクシャルに脱線したり、更衣室でのおしゃべりに加齢の悩みが漏れ出したりと、思い付いたギャグを放り込みつつ、場面場面で高校生活の記憶がよみがえり、登場人物の過去と人間関係を次第に明らかにしていく。「ネタ」と「ストーリー」のかみ合わせが、長編コメディーをうまく駆動させていることは、客席の好反応からもうかがえる。
 
 しょっぱなから、主人公の貧窮ぶりをアナクロな「瓶づき精米」(「はだしのゲン」か!)でビジュアライズし、ギギギ…と開いた館の扉が実はもう1枚…いやさらにあるんかい!という素舞台ゆえの音響ギャグ、バツ3女子経営の美容サロンが「八尾南を中心に10店舗」というローカルジョークなど、小ネタを繰り出す手数は多い。嘉納演じる美魔女キャラが、頭に紙袋をかぶって登場(「ゴングショー」のアンノウン・コミックか!)する理由が、「ただの過呼吸」というナンセンスさ。その紙袋のロゴが「無印良品」という、そこはかとない階級意識(夫は高収入だが愛されてないらしい)。119に電話をすると真っ先に「au」が圏外なのは、時事ネタ(公演は大規模通信障害の約1週間後)なのか偶然なのか。体育の時間のバレーボールで、腕が限界なのを確かめるため、放り投げられるのがなぜちくわなのか(リリパット・アーミー?)。舟木一夫ライクな40歳の学ラン男が、プロポリスを飲んだ後でみせる身軽な動きは、コンドルズなのか。もう何を見ても、そこにネタはあるのか、と気になるのは、術中にはまってしまっているのだろう。
 
 その一方で、登場人物の記憶の扉をこじ開け、思いを巡らす「ときめき」観はまっとうだ。高校時代の主人公はギターを弾けるようになるのが楽しく、「ときめいた。だが、女にもてて、その気持ちをなくした」。就職先は「何もときめいて決めなかったから、何も見つけられなかった」。ときめきは色恋の領域から解放され、より純粋な、高次の欲求を満たすためのものと捉え直される。「モテ」は、ときめいている磁場で生じる現象であり、ときめきとイコールではなく、時に高次の欲求を阻害しうると、考えているかにみえる。だから、元カノを口説いていい感じになっても、ときめきはない。ときめくためにモテようとする登場人物の狂乱が終盤の見どころだが、主人公は叫ぶ。「おもしろい。人間って、おもしろい」。自身のときめきとは別のところで、他者の「いさぎ悪さ」にいとおしさを感じるというのは、思えば、かのうとおっさんそのものではあるまいか。ときめきとは、思い出ならずや-。ときめきは、肌のハリや軟骨成分のように、年齢とともに失われていくものかもしれないが、恐怖の館での3日間は、「悲しみよこんにちは」よりも向日的に、「ときめきよさようなら」と40代を迎えるためのレッスンにも思えるのである。
 
 公演が延期のため、本来の会場であるホールで行われなかったことは惜しまれる。舞台や客席を自由につくれるホールをどのように使うかが、企画の一つの狙いだっただけに、違う見せ方があり得たのかもしれない。再演というか、例えば10年後に、50歳ver.があったっていい。そのときは、もちろん有北雅彦も一緒だ。おっさんのいないかのうとおっさんなんて、クリープを入れないコーヒーのようなもの。恋の呪文はスキトキメキトキスで、逆さに読んでもスキトキメキトキスだ。続きが思い出せないが、40代よ、これが老化だ。40代から50代は速いぞ。加速がついてるぞ。なんて、言ったところで、ドント・トラスト・オーヴァー50。ときめきに死すには、まだ早い。

田中真治(たなか・しんじ)

1971年生まれ。2000年から神戸新聞記者。2021年から文化部で演劇担当。