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KAVC FLAG COMPANY 2021-2022 小骨座『知らんやつら』劇評|繁澤邦明

2021年12月17日(金)19日(日)

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繁澤邦明「誰もが飲み込んだ感傷、そのひっかかりをエンゲキする」

 最初はなかったものなのに、それがあったせいで、なくなるのが辛い。言ってしまえば、全てのものがそうである。人の一生や終わってしまった恋愛、完結を迎えた物語だって、突き詰めてしまえばそもそも存在しなかった(存在してしまった、あるいは認識してしまったがゆえに、失うのが辛い。ならばいっそのこと存在しなければ、その苦しみもない)ものだ。昨今話題となった「〇〇ロス」という言い回しも、そういった感傷が今風に、ポピュラーに、あるいは消費者的に言語化されたものであろう。そして言わずもがな、あらゆるものは諸行無常である。
 もし「あったがゆえにそれを失う」ことで誰かが辛い思いをするのだとしたら、「それがあったこと」はその人にとってただただ「悲しいこと」なのだろうか。そして、「誰かにとって確かにある、あったもの」の存在は当人や(それに興味が無い)他の人にとって、どのような意味を持つものだろうか。いや、そもそもこんな問いに向き合うことそれ自体が幼く非生産的なことで、また別のものに目を向けていくその繰り返しこそが、いっそ望ましい姿なのだろうか(だがそれは、ただの消費活動ともいえるだろう)。
 私は、小骨座『知らんやつら』の観劇を経て、そんなことを考えていた。
 
 小骨座『知らんやつら』は、サービス終了間際の仮想空間上の街「ナルシティ」がまさに終わりを迎えるその日、その瞬間に向けて集い、そこで過ごす利用者(のアバター)を描いた作品である。「ナルシティ」では人工知能「たま」がガイド役となり、利用者はバトルロイヤル形式のサバイバルゲームを行ったり、コミュニケーションをとったり、あるいは好きな建築物などを作ったりして過ごしてきたという。私自身、『MINECRAFT』や『Fortnite』あるいは『Second Life』といった実在するサービスを思い出しながらの観劇であった。
 なお、実際の上演にあたっては、この「バーチャル空間」は所謂ブラックボックスをベースとして表現されていた。舞台中央にあるモニュメント、随所に使用されている平台、舞台端のDJブースのような一角(それで記述が終わるぐらい、本公演は舞台美術としてはシンプルなものであったように記憶している)、また劇場の壁や床、天井に至るそれら全ては黒を基調に統一されており、電脳空間という世界設定にイメージされやすい広大かつ変幻自在、色鮮やかなフィールド(『サマーウォーズ』のような色彩、と言えばわかりやすいだろうか)の描写は直接的に描かれるというよりは、照明や音響という演劇的な装置(映像は無い)の効果、あるいは俳優の衣装やビジュアルによって観客に想像させることを意図していたように思う。そしてこれらの効果や俳優の雰囲気も、過剰なポップさやノイジーさというよりはむしろ意識的に抑制(あるいは、意図的に欠落)された、素朴さを優先した最小限のものであった。その設えは作品世界の無垢なチープさ(俳優の佇まいや役名、台詞回しも相まって、『MOTHER』シリーズを思い出したりもした)を表現すると共に、「バグ」や「終了間際」といった不穏な部分、さらにはこのサービスの外の領域、つまりは登場人物にとってはつまらなく冷静でシラケた「リアルな」世界が当然ながらすぐ地続きに存在していることもまた、予感させられるものであった。
 そしてより率直に言えば、舞台上の人物が物語上で見ている光景は、客席からの光景とは全く異なったものなのだと思わせられる瞬間が度々あった。これについては、後に述べたい。
 
 さて、そのバーチャル空間「ナルシティ」で過ごす人々である。当然ながら、サービスの中のアバターとしての存在である彼ら彼女らには現実世界での実名やリアルな生活があるはずだが、物語においては一部の登場人物が同じバイト先の同僚であることが会話から明らかにされるのみである。そして「ナルシティ」では現実世界での素性が特定されるようなやり取りは完全にNGとされており、他のサービスにデータを持ち出すこと自体も不可となっている。つまりはかなり「閉じた世界」であり、アカウント名、ハンドルネームでその世界に生きる人々にとっては、サービスの終了(作品上では、「運営」という言葉は使用されど、想定される乗り換え先としての代替や後継のサービスは示唆されない)はいわば予告された「世界の終わり」を意味している。だが、繰り返しにはなるが「ナルシティ」というサービスは終われども、彼らの「本体」の人生や世界は当然、終わらないはずである。
 私が今公演で興味深く感じたことの一つは、登場人物の身に降りかかる、この「喪失」の距離感であった。当然ながら実体とは別の存在である「アバター」として生きる世界、そしてその「アバター」自身も失われることが決まっている中で、本来確実に残るもの。それは、個々の利用者、その人生である。
 一方で、舞台上の登場人物を演じる俳優は、その「アバター」を演じている。ならば、彼らの発する言葉は「アバター」自身のものであろうか、それとも「本体」のものであろうか。いわゆる「現実世界」の様子を別幕で描くことの無い本作では、役者の演技領域が「アバター」のみであると決して限定していないこともまた、世界観に独特の奥行を生んでいたように思う。つまり、「ナルシティ」が失われることは、彼らの利用するサービスが失われることと、彼ら自身が失われることの双方を、ボンヤリと意味していたのである。この、登場人物が引き受ける複層にまたがる当事者性は、彼らが作中で語るそれぞれの「喪失」への向き合い方に多面性と説得力を持たせると共に、作品構造の特異性として十分に機能していたのではないだろうか。
 
 そう、本作は「喪失」にまつわる物語である。劇中で登場人物が語る、彼らの「失うもの」について観客は考えることになるわけだが、ここでもう一つ、私が今公演で興味深く感じたことについて述べたい。それは、「登場人物」と「観客」それぞれの「視界」の違いについてである。
 上述の通り、本作は仮想空間の街を舞台としている。そこでは様々な建築物をつくったり、絵を描いたり、さらにはバトルの際にはバリアや核兵器まで、様々な効果が使用可能となっている。
 これらが実際に眼前に存在し、行われている光景はまさに、CG等の特殊効果によってバーチャルリアリティとして表現されるべきものだろう。だがしかし、本作は演劇公演である。「2.5次元演劇」がもはや一般的な呼称となって久しいが、今公演はプロジェクションマッピングなどの先端的なデジタル技術を効果として使用するというよりは、いわゆる古きよき「演劇」手法、台詞やマイム(パントマイムあるいはパワーマイムと言えるだろうが、後者であっても、決して熱量で立ち上げる類のものではなかったことを指摘しておきたい)といったアナログな演出効果にこだわって創作されていたものであった。
 ここに、私が観劇の中で感じた不思議な感覚があった。繰り返しにはなるが、「バーチャル空間」を舞台とした本作は、黒を基調とした舞台美術と、決して過剰ではない(時には不足感すらある)音響照明効果、そしてアナログな演技演出によって描かれていた。そこには、明確に「登場人物の見ている光景」と「観客としての自分の見ている光景」の違いが存在していたように思われたのだ。
 勿論、演劇を上演するその舞台上の光景は必ずしも、作品上、登場人物の見ている風景や存在する世界の情景を全て写実的に描き切るものではないだろう。そこには多かれ少なかれ、時にはテコとしての「想像力」が必要とされ、その働きによって演劇は現実を超えた時空間と成り得るのである。
 だがしかし、今作における「作品上の光景(登場人物の見ている世界、つまりは自分が物語に接し、想像している世界)」と「舞台上の光景(観客、つまりは自分が今まさに見ている世界)」の落差とはいったい何なのだろうかと、私は考えながら観劇していたのである。「チープ」な世界の立ち上げ方、という言葉では終わらない何かがそこにあるように感じていたのだ。
 
 再び述べるが、本作は「喪失」の物語であった。「ナルシティ」という世界が終わることに対し、利用者個々が、あるいは人工知能「たま」も含め、「無くなる」ということについて語るのが、この『知らんやつら』である。
 ただの仮想空間コミュニケーションサービスとして「ナルシティ」を考えれば、結局のところ、乗り換え先を探せば良いのである。同種のサービス、代替物が存在しているかもしれない。あるいはもっと違う分野で、利用者個々にとってより満足できる物事が存在しているかもしれない。そもそも「ナルシティ」がサービスを終了することだって、自然淘汰の末の必然なのではないか。あるいは、そんな仮想空間はほどほどにして、リアル世界で楽しみなよ、頑張りなよ、という考え方もあるだろう。
 だけど、「ナルシティ」は彼らにとって、それでもやはり意味のある、大切なものであったのだ。では、「ナルシティ」の風景とはどのようなものか。それを想像することは、まさに「他者にとって確かにあった、意味のある、大切なもの」を想像する行為だったのではないだろうか。
 私たちはどこか誰かの喪失を、彼らの見ていた風景の想像を経て感じとり、寄り添うことができる。
 私は、『知らんやつら』という演劇作品を、このように考えるに至った。ならば、私が感じた光景の落差は、そのまま「想像することのハードルの高さ、ギャップ」とも言えるだろう。他の誰かの見ている視界を見るためには想像力が必要で、ブラックボックスを埋めるのもまた、私たちの想像力である(一方でそれは、理想論かもしれない)。
 まさしく「言うは易く行うは難し」なのだ。
 
 最初に述べたように、そもそもそんな想像に浸ることは非生産的ではないか、という問いは、現実世界にも溢れつつあるように感じる。誰だって、多かれ少なかれ大なり小なり「失いながら」「終えながら」「無くしながら」生きているのだ。確かにそんな感傷にいちいち付き合っていたら、キリが無いかもしれない。
 だが、小骨座はそんな「誰もがこれまで当然のごとく飲み込んできた」感情を今一度見つめる眼差しと決意を持って、『知らんやつら』を上演したのである。作品全体に漂うのは、まさに「小骨のひっかかり」を想像し捉える、他者への優しい目線であった。それこそが小骨座という団体のスタンスであり、魅力なのだろう。そして、現代という時代の中で彼らが、そんな自分たちの価値観における表現手段として「演劇」を選択していることに、ささやかな希望すら感じるのだ。
 私たちはこれからも、何かを失いながら生きていくしかない。
 そんな私たちに必要なチクリと刺さる優しいエンゲキを、これからも彼らに期待したいと思う。

執筆者プロフィール

繁澤邦明(はんざわ・くにあき/うんなま代表)
劇作家・演出家・俳優
1988年生まれ。兵庫県明石市出身。大阪在住。
 
大阪大学在学中にプロデュース団体として「劇団うんこなまず」を発足、後に劇団化(2017年に団体名を「うんなま」に改定)。2011年より劇作と演出に取り組む。自団体では殆どの作品で作・演出を務め、出演することも。
演劇の持つ諸要素を、遊び心と批評性の入り混じった現代的な視点で分解し、「時間・空間・人間」をテーマとした(時にシュールな)上演作品に再構築する。作品や団体は、独特な身体から繰り出す多彩なことば遊びと、独自性ゆえのマニアックな需要に定評がある。
2017年 ウイングカップ7最優秀賞 受賞。
2018年 平成30年度次世代応援企画break a leg選出。
2020年 KAVC FLAGCOMPANY2020-2021 選出。