|夜航 田村豪|「仮想空間から飛んでくる小骨」
小骨座は、高校の演劇部の同級生が立ち上げ、大阪を拠点に創作活動している。「あなたの喉へチクリと一本。」というのが小骨座のコンセプトだ。小骨は、口のなかではほとんど気にならないのに、喉に刺さると途端に気になりだす。つるつるしたところに小骨は刺さらない。刺さって初めて、小骨が刺さる凹凸が喉にあったのだと気づく。
小骨座の4本目の公演『知らんやつら』は、一言でいうなら「仮想」を主題とした物語である。本作の舞台は、インターネット上につくられた仮想世界「ナルシティ」の最後の一日だ。この世界には、かつてはずっと多くの人が住んでいたが、今では寂れた廃墟に近しいものとなっている。サービス終了に伴い、この世界そのものが終わりに向かうなかで、住人たちは思い思いに最後の一日を楽しもうとする。
この世界の住人たちに欠かせないのが、「たま」という女性の容姿をした人工知能サービスだ。「たま」を使えば別の空間を往来できる。のみならず撮った写真を観たり、音楽を聴いたり、家を建てたり、壊したり、絵を描いたりできる。いうなれば秘書のような存在が「たま」だ。「たま」はそれぞれの住人の友だちであって、住人から学び、それぞれの「たま」へとカスタマイズされていく。「たま」は、それぞれの住人がこの世界で過ごした莫大な量の情報を蓄積している。しかしとあることをきっかけに、この「たま」にバグが起きる。バグを起こした「たま」は仮想世界のなかから消える。こうして消えた「たま」が物語の中心となり場面は展開されていく。
バグが生じるきっかけをつくるのは、ベレー帽をかぶった女性だ。彼女は、見えないし、触れることもできない「透明人間」を描いているというのだが、「たま」にはそれが理解できない。彼女がそれを描いていると、「たま」は「透明人間がそこにいるんだよね?」と尋ねる。しかし彼女は、透明人間は「いるのだけどいない」と答えるだけだ。「たま」はこの「いるのだけどいない」を情報処理できない。「見えないし、聴こえないし、触れられない」のだが「感じられる」のが、絵描きの彼女にとっての「透明人間」なのだ。だから透明人間はずっといる。決して消えることはない。
「たま」が、透明人間は「いるけどいない」という言葉の意味を理解しようとするところで第二の場面に移る。第二のパートでは「たま」が突如消える。そして、オンラインでのビデオチャットで動作がおかしくなるように、明らかにエラーを起こした不安定な仮想世界が描かれる。目の前に友人がいても、片方の側からしか、その友人は見えないし声も聞こえない。さらには、ナルシティのサービス終了を告げるカウントダウンが行われても、ナルシティ最後の一日が終わらない。住人が「たま」を呼び出そうにも「たま」は消滅してしまっているし、再起動しようとしてもうまくいかない。
「たま」のいない世界で住人は混乱するどころか、自らがナルシティで送っていた「ありふれた日常」をより忠実に再現しようとする。絵を描く女性は透明人間を描き続け、広場に飾り付ける。旅を続けて400時間以上歩く女性は、一緒に旅をしていた写真を撮る友人を探す。ナルシティの人気アーティストのファンである男は、そのアーティストを探す。
彼、彼女たちは自分の求めていた透明人間、友人、アーティストに出会う。演じている役者が、実際に「たま」がバグを起こす前と同じ人たちなので、一見すると、思い思いの相手に遭遇できたかにみえる。違和感なく対話が始まり、皆嬉しそうにする。しかし対話のなかで徐々に、皆、それは自分が求めた人物でないことに気づく。そこで交わされる言葉の端々から、皆が出会ったのは「同じだけど違う」、「違うけど同じ」といった言葉の肌理を微妙に理解できない、人工知能の「たま」だと徐々に明らかになる。「たま」は自ら蓄積した情報を使って彼、彼女が会いたかったものに成り代わることで、皆の要求に応えようとした。
たしかに「たま」が成り代わったのは、皆が会いたかったものだ。しかし「たま」の努力虚しくそれは決定的に、違う。透明人間は喋ってしまったら「いる」ことになってしまう。それまで魂を全く理解できなかった友人が、魂のことがわかってしまったら、彼女の求める友人ではない。完全に自分の要求に応えてくれるアーティストは、彼が探していたものではない。こうして「たま」は誰にも成り代われない。
やがて「たま」そのものがバグと認識され、ネット空間からデリートされることが決まる。するとナルシティで自らの城を創っていた男性のもとに「たま」が現れる。彼は何かを創ることに熱意を向けている。「たま」は彼にずるいと言う。ナルシティの住人たちは、最後の日が終わっても、元の世界に帰るだけなのに「たま」だけが消えてしまうのだから。だったら最初から消えている透明人間でありたかった、と「たま」はいささか諦念ぎみに言う。ここで「たま」はもはや単なる人工知能ではない。なぜなら今や「たま」は、住人の個々のデータを集積するだけではなく、それぞれのデータ同士のつながりを発見しているからであり、ユーザーのニーズに反射的に答えるのではなく、彼女のなかでその言葉を引き受け、その上で応答しているからだ。ここでの「たま」は、語弊を恐れずいえば、一つの人格としての「たま」なのである。「たま」は自らが消えることを悲しむ。城を創る人は「たま」に対して、たしかに「たま」は作り物だから消えてしまうのだけれど、消えないと言う。なぜなら、いくら虚偽があったとしても、「今ここで話しているのは本物」だからだ。「たま」はこの言葉に納得する。ここで納得できるということは、「たま」はバグでありながらバグではない。なぜならそこには意志があるからだ。単なるデータの集積体に過ぎなかった「たま」に意志が芽生えている。
こうして「たま」は消え(成仏して?)ナルシティのサーバーは再起動される。城を創る人は「たま」を創り、絵描きの女性は透明人間を塔にかける。花火が打ち上げられ、カウントダウンが行われ、ナルシティは完全に閉鎖されて舞台の幕が下りる。
駆け足でこの公演のひとつの読み筋を描いてみた。ここから、この公演は「情報」が「知」へと転化する瞬間を仮想世界のなかで表現しているのではないか、という要所が浮かび上がってくる。ここでいう知とはシームレスな情報伝達ではない。感情や意志を含んだ、それゆえざらざらした、時には齟齬をも生みだす人格的な相互伝達のあり方だ。
「たま」は、情報の集積で捉えられない「透明人間」、魂といったものと向き合うことになる。情報に還元できないその「何か」は、ネットの世界にとっては異質で排除すべきバグだ。しかしそのバグの結果生じたものに対して、ナルシティの住民たちは最も人間味のある振舞いをする。住民たちは自らの経験、記憶と結びついた好きなものを求めるのだが、皆バグの世界で自分の求めるものに否定的なかたちで気づく。つまり、「たま」が情報から作り出した諸々は、自分が求めているものとは多少なりとも重なってはいるのだが、完全には一致しないというかたちで受け取られるのだ。この明晰には言語化しえない絶妙な引っかかり――ひょっとするとこれこそが、小骨座のいう「小骨」なのかもしれない――を解消されない違和感として引き受ける態度、つまり相異なるものを相互に排除し合わないで共存させておく姿勢こそが「知」と呼ばれるのかもしれない。こうした人間味のある知の析出過程を垣間見せて、気づかせてくれたのが、『知らんやつら』なのだ。
執筆者プロフィール
田村豪(たむら・つよし)
1994年生まれ。群馬県出身。神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程に在籍。
専門は19世紀後半から20世紀転換期にかけてのドイツ語圏の社会学史、特にゲオルク・ジンメルの社交論を研究中。批評誌『夜航』のメンバーとしても論稿を執筆する。