|筒井 潤 |「元年の終わりに」
2021年12月に上演された小骨座の『知らんやつら』はたいへん観応えがあった。浜間空洞による一筋縄ではいかない戯曲と、それに挑んだ出演者のみなさんに敬意を表したい。
仮想現実(インターネット上にある、あたかも現実かのような仮想の世界。バーチャル・リアリティー)を題材とした演劇作品はおそらくたくさんあると思われるのだが、私にでもすぐに思いつくのはふたつある。ひとつは唐十郎の『電子城』(1989年)。ゲームの世界における設定やルールが、現実世界に生きる人間の倫理の歪みにつながるという考えが根底にある。いまもまだ同じ意見はあるが、ゲームの中でどれだけ乱暴をはたらき強欲に振る舞っても、現実世界では健全な日常生活を送っている人が大半だ、という反論もされている視点だ。
仮想現実をテーマとした日本における演劇作品の金字塔は、『電子城』に先立つ1983年に書かれた鴻上尚史の『朝日のような夕日をつれて』だ。描かれている仮想現実の技術と現実世界の虚無感は現在でも有効で、ゆえに同じような設定の作品が上演されると、まさにこの劇評のように、比較対象としてよく取り上げられる。実際に『知らんやつら』と重なる印象も多々ある。ただし、使用される固有名詞、ならびに台詞や笑いのセンスが完全に古びてしまっていて、改訂された「21世紀版」(2014年)でも深く頷ける更新はあるものの、演劇としての息切れは否めず、いまの若い人が観たり上演したりするには堪えられない、微妙な金字塔だ。
『知らんやつら』は、“誰もが何でもできて何にでもなれる自由な街”ハイパーインターネット仮想コミュニケーションサービス「ナルシティ」のサービスが終了する最後の1日を描いている。そこにいる人々(ユーザーが操作しているアバター)は、カウントダウン・パーティーを開いたり、せっかくだから街を破壊したり、データをリアル(現実世界)に持ち出せないのに写真を撮り続けたり、どうせ消えるにもかかわらず何かモノを作ろうとしたり、と、思い思いに過ごす。生身の人間性の回復を訴える前述の2作品と異なるのは、〈たま〉という名前のAIが、一(いち)人物のように登場し、ナルシティの人たちと素朴な交流を重ねるところだ。ナルシティが終わったとしても人々にはリアルという別空間があるのだが、〈たま〉は仮想現実でしか存在できないので、ナルシティの終了とともに消えてしまう。だから他の人たちはその別れを惜しむ。観客が上演中に目で見ているのは終始仮想現実であり、しかも仮想現実の空間が丸ごと消えてなくなるというこの設定によって、『知らんやつら』は、上演、劇場、時代、国家、イデオロギー、生命、などなど、さまざまな“終わり”のメタファーになり得ている。
観ていて私がずっと気になっていたのは、どうしてナルシティのサービスは終了するのか、だ。開演の挨拶で浜間空洞が本人として、サービス終了の設定を紹介するのだが、終了の理由は明かされないまま上演は進み、終演する。だから観客が考えるしかない。
次のやりとりから、ユーザーが減っていっているのがわかる。
たま 次はなにして遊ぼうか
しまくま やることなくなっちゃったなぁ
たま うん
しまくま みんな抜けるの早いね、全然いない
たま うん
「廃村」と聞くと、思わず感傷的になる。しかし落ち着いて考えたいのは、その村がどのように形成され、そして廃れたかだ。炭鉱の村は、鉱山のある場所に人が集まり村となったが、産業として成り立たなくなって閉じる場合が多い。戦後に焼け野原となった都会には仕事がなかったから、集団で山を開拓し村をつくって農業に従事したものの、子や孫の世代がより良い収入を求めて復興した都会に出て行き、過疎化して維持できなくなるパターンもある。では、ナルシティにはなぜ人が集まったのか。そこに自由があったからだ。リアルにはない、やりたい放題の自由が用意されているナルシティに、ユーザーがアバターの姿で集まったのである。
対比して考えてみたいのは、ミヒャエル・エンデの『自由の牢獄』だ。閉じ込められた空間から外に出るための扉は無数にあるのに、選択の自由があり過ぎてかえってどれも選べなくなった主人公が、選択自体をあきらめ欲望もなくなったとき、神にその人の存在そのものを承認される、という物語である。『知らんやつら』と違うのは、選択の自由はあるが、選択を迫られてもいるところだ。ナルシティにはそのプレッシャーがない。躊躇なくあらゆる自由を選択できる。そしてもっとも重要なのは、ナルシティから「抜ける」自由だ。そう、劇中ではこの肝心なことが説明されていない。あらかじめ用意されている自由を散々消費して、気が済んだり退屈を感じるようになった人は、最後にひとつだけ残った自由、「抜ける」を欲望し、実行する。だから多くの人はナルシティからいなくなるのだ。
他方、そこから「抜ける」のを放棄し、ナルシティがなくなる瞬間まで残る人たちもいる。おそらく彼ら/彼女らは、リアルから「抜ける」先として仮想現実を選び、ナルシティに入って来たのだろう。では、どうして最後まで残るのか。『自由の牢獄』の主人公が神に承認されたように、他者によって承認されたからだ。誰に? AIの〈たま〉にである。
重要なことは、自らの存在を選択し、引き受ける主体となるためには、どうしても他者による承認を媒介にしなくてはならない、ということである。自分自身にとっては、自らがこのようなものとしてこの世界にあるということは絶対の必然であって、それを選択の対象とすること(偶有的なものとして扱うこと)はできないからである。他者のみが、それを「承認」という形式で、選択の対象であるかのように遇することができるのだ。(大澤真幸『自由という牢獄』より)
「私は君の友達、いつまでも一緒だよ」の決まり文句で声をかけてくれて、どこまでも従順、ナルシティにおけるルール違反を除けばすべてを肯定してくれる〈たま〉から、無条件に承認された(と感じた)人たちが、自己肯定を経て、真の自由の行使として、最後まで残ったのである。だから〈たま〉の姿が見えなくなったら探すのだ。また〈たま〉には、実は自由をよくわかっていなくて持て余す、あるいは人の想いを汲み取れず微妙にズレた行動をとる、といったある種の幼さがある。この作品にぬくもりや愛おしさを感じるとしたら、これらの描写に要因があるのかもしれない。その感じ方の良し悪しもまた問われるところではあるのだが。
さて、ナルシティ終了の理由がまだわからない。そもそもだが、このサービスの運営はどうなっているのだろうか。『朝日のような夕日をつれて』では、仮想現実ゲーム企画の売却に関するやりとりがある。仮想であろうと現実であろうと、ある空間とその営みについて考えると必然的に経済の問題にぶつかる。先の廃村の例からもわかるだろう。ただ、ナルシティにいるというだけでお金に関しては皆が暗黙裡にわかっているはずだから、それについて登場人物たちが会話するのもおかしい。やはり観客が想像するしかない。仮想通貨を使ってナルシティ内限定の商売ができるシステムがあれば終わらずに済んだのかもしれない。でもそれではほぼ現実世界と同じ環境となってしまい、無条件な承認をされないリアル(現代社会)から仮想現実に「抜け」て来た、最後まで残ったような人たちの受け皿としてはふさわしくなくなるだろう。また、ユーザーがサービスの継続や維持に関する具体的な発言をするのも、ナルシティにリアルのことを持ち込まず、ナルシティのことをリアルに持ち出さないという基本ルールに抵触する可能性がある。このように、自由のある空間のために良かれと思って設定された規則によって、ナルシティは最初から破綻する運命にあったのかもしれない。
これは『知らんやつら』の数ある見方のうちのひとつにすぎない。いろいろとよくわからないところもあるのだが、だからこそ射程範囲はもっと広いと思う。まだまだ掘り下げてみたくなる、とても魅力的な作品であり、上演だった。メタバース元年と言われる2021年の12月17日に大阪市北新地ビル火災があり、翌18日の神田沙也加の訃報をSNSで目にした直後の鑑賞だったことも含めて、しばらくは尾を引くと思う。
執筆者プロフィール
筒井潤(つつい・じゅん)
演出家、劇作家、公演芸術集団 dracomリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとしてウイングフィールド再演大博覧会のほか、東京芸術祭ワールドコンペティション2019、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(デュッセルドルフ)に参加。個人として山下残、マレビトの会、維新派、桃園会、akakilike等の公演に参加。様式やジャンルを問わず活動している。