|福谷圭祐(匿名劇壇)|「救いかつ殺し」を選ばない誠実さ
上演前。「救うか殺すかしてくれ」というタイトルを見て、バンクシー展の「天才か反逆者か」というタイトルを思い出した。この二つは、本来は対義語ではない言葉をまるで対義語であるかのように配置しているというところで共通している。天才の対義語は凡才だし、反逆者の対義語は服従者とか従順な人になるだろう。 ここで重要なのは、対義語ではない以上、「天才かつ反逆者」という結論に帰着できるということだ。二者択一ではなく、どちらの意味も孕むことができる。本タイトルの「救うか殺すかしてくれ」についても同じだった。救うの対義語は見捨てるで、殺すの対義語は生かすになる。つまり、この命題に対しては「救いかつ殺し」が成立してしまうのである。だからきっと、この作品は「救いかつ殺し」に向かう、ややもすれば恐ろしい内容になるかもしれないと予想していた。
開演。その予想は「楽に死ねる薬」というフレーズで見事に言い表されることとなる。「このままだとオナニーしかしていない人生になる」と嘆く中年の西マサトには、「楽に死ねる薬がある」という幻聴が聞こえる。劇の冒頭で鮮烈に響き渡るこの幻聴は、劇の終盤まで彼にまとわりつくことになる。楽に死ねる薬とは、まさに「救いかつ殺し」のかなり直接的な比喩表現だ。作家は「救うか殺すか」という命題に対し、「救いかつ殺しがあるよ」という結論を早々に提示することを選んだのだろう。
幻聴に苦しむ西マサトがこの物語の主人公だ。演じる役者と同名のキャラクターであり、おそらくその造形も彼本人を大いに参考にしていると見られる。工場勤務の西マサトは、人生に夢や希望がなく、女性にモテない「オッサン」である。いや、正確にいえばモテないかどうかさえわからないほど、絶望的に女性と関わりがない。そのため彼は夢を見る。「夢ちゃん」という彼の理想を反映した女性と、夢の中で戯れる。それが彼にとっての唯一の喜びだった。そしてある日、この「夢ちゃん」と瓜二つの女性と現実に出会い、夢とは違って「つまらない男だ」と罵られ、ショックを受ける。ここまでが序論と言えるだろう。
彼が失意のどん底で、人目も憚らず泣き叫ぶところに、一人の女性が声をかける。ここからが本論だ。これをきっかけに彼と関わりを持つことになった女性は「自分が相手をしなければ彼は死ぬ」という大義を持って、たびたび彼とデートをすることになった。しかし、それはその女性にとって徐々にストレスになる。そこで彼女は、笑顔でデートする彼に対し、「私がいなくてももう大丈夫じゃないか」と告げる。しかし西マサトは「君がいるから今は大丈夫なだけで、いなくなったらまた死にたくなる」と反論する。「救ってくれ」「救えないなら殺してくれ」「助けてくれ」と連呼し、彼女にすがる。しかし、彼女は西のもとを去ってしまう。彼の「好きだ」という言葉に、「それは話が違う」と返答して。
そしてこの物語は思いも寄らぬ結論に至る。その彼女と交際していた彼氏が、殺し屋に西の殺害を依頼する。そしてその殺害は、特に障壁もなくスムーズに実行され、劇は幕を閉じた。省略した要素や前後関係の違いはあるが、物語は概ねこういった構成だった。
私はこの物語を、作者合田団地が役者西マサト(のような男)を「救うか殺すかしようとした」ものだと感じた。冒頭で述べた「救いかつ殺し」と両方を含有した結論を意識しつつも、最後までそれを選ばない。「救う」か「殺す」か、そのどちらかしか選ばないという作者の確固たる決意があったのだろう。楽に死ねる薬はついに登場せず、殺し屋にメッタ刺しにされ、死にたくないと言いながら苦しんで死んだ西マサト。彼は殺されたのだった。
「救うか殺すか」について、二つの観点から考えられる。一つは可能性の視点。救えるのか、殺せるのか。そしてもう一つは「べき論」の視点。救うべきなのか、殺すべきなのか。
まずは可能性から考えてみる。彼を救えるのかどうか。作者はまず、彼に「夢ちゃん」をあてがってみた。夢のなかで出会える女性。その存在によって、彼は救われるだろうか。答えは否だった。相変わらず彼の耳には「楽に死ねる薬がある」という幻聴が聞こえ、夢の中で女性と戯れる姿は、客観的に見ても救われているとは言い難い。作者は次に、現実の女性をあてがってみた。夢ちゃんと同じ見た目で、夢ちゃんと同じ声。しかし、夢ちゃんのようにすべてを受け入れる聖母ではない。作者のこのあたりの手つきは実にドライだ。この虚構の物語世界の“現実”に、彼を見事救い出す聖女を出したところで、それは西マサトの見る夢となんら変わりないということをわかっている。
女性との関わりが絶望的になかった彼は、魅力的なデートも軽快なトークもできず、「つまらない男」だと縁を切られる。これも、彼を救う手立てにはならなかった。むしろ彼はさらに追い詰められる。作者は急いで次の女性を用意する。彼を死なせるわけにはいかない。その気持ちひとつで行動する女性が、今度は彼のそばに置かれた。
このあたりで、「べき論」が顔をのぞかせてくる。そもそも、彼を救うべきなのか。彼は、救うに値する男なのだろうか。この「べき論」が、観客の居心地を非常に悪くさせた。
自らの不幸を訴え、救ってくれと叫ぶ西マサト。彼の想いは「女友達が欲しい」という願望に集約されていく。彼は安易に女性を情欲の対象としない。そのあたりのデリカシーは持ち合わせているようだ。しかし、しかし。「女友達が欲しい」という彼の願望は一体どういうものであるか。「友達」ではなく、「“女”友達」。「彼の求めているのは母性だ」と言い換えるとわかりやすいかもしれないが、わかりやすい分、西マサトの本質的な歪みを見えにくくしてしまう。正確に言うと、彼が求めているのは母性ではない。「母性を持った“女”」だ。「友達になってくれる“女”」だし、「すべてを許し、受け入れてくれる“女”」なのだ。
彼の肯定しがたい欲望がついに舞台上に露わになる。「女」であるということそのものに価値を置き、「女」であることを最も重要視する。彼が求めていたはずの存在は、「恋人」や「セックスの相手」ではないにも関わらずだ。大してフェミニズムに対して造詣の深くない私でさえ、「こいつ、気持ち悪いな」と感じてしまった。まるで、「エントランスにいるべきは受付嬢だ!」と豪語されているような気持ちになった。
「単にモテない男」から、このグロテスクで純粋な願望の塊を抽出した手腕は見事だといえる。モテない男の髄液のようなものが露わになった気がして、とてもゾッとした。
作者はこの「べき論」を観客に投げかけた後、自分にできることを選ぶ。彼を救うべきか、殺すべきかはわからない。また、救おうとしたがどうにも救えない。しかし、唯一、殺すことはできる。そして、この劇における異質な存在として「殺し屋」が登場したのだ。
作者は西マサトを殺すことを選んだ。救いではなく、救いかつ殺しでもなく、ただ純粋な殺し。これはもしかすると、役者西マサトへのエールだったのかもしれない。なぜならばこれは、先述した「虚構の物語世界の“現実”に、彼を見事救い出す聖女を出したところで、それは西マサトの見る夢となんら変わりない」という内容とほぼ同義だからだ。現実には、あのような思考回路の西マサトのすべてを許し、受け入れ、救い出す“女”など存在しないだろう。そして、西マサトをスムーズに殺害し、罪悪感もなく去っていく“殺し屋”だって、同じくらい存在しないだろう。どうせ同じファンタジーなら……。
登場人物の西マサトは、決して孤独ではなかったし、特別に恵まれていないわけでもなかった。工場に行けば、自分の話を聞いてくれる友人がいる。いい夢だって見られる。ちょっと運が向けば、女性を紹介してもらえる機会だって得られる。たまにはセクキャバで気晴らしするくらいの収入だってある。彼を救えるとしたら、それは彼自身だ。自分自身の歪みと向かい合い、その是正を他者に求めないことだ。そして、他者が西を殺すことだって、簡単じゃないのだ。彼を殺せるとしたら、それもやっぱり、彼自身なのだろう。
救われもしない、殺されもしない西マサトのそばには、合田団地がいる。彼らの関係に光を当てて切り取れば、「女」の存在など、大した問題じゃないはずだ。その姿こそきっと、“正しいオッサン”なのではないだろうかと思う。
|プロフィール
匿名劇壇。劇作家・演出家・役者。リコモーション所属。匿名劇壇のすべての作・演出を手がける。
福谷圭祐(ふくたに けいすけ)
匿名劇壇。劇作家・演出家・役者。リコモーション所属。匿名劇壇のすべての作・演出を手がける。
【受賞歴】
「悪い癖」2016年 OMS戯曲賞 大賞受賞
CoRich舞台芸術まつり!2017春 演技賞
【主な外部脚本提供】
〈TV〉関西テレビ「環状線ひと駅ごとの恋物語-Part2-」station1鶴橋「優しい追跡者」、ABC テレビ「僕らは恋がヘタすぎる」
〈舞台〉劇団Patch「森ノ宮演出家連続殺害事件」
〈ラジオ〉KISS FM STORY FOR TWO 月1脚本を担当中