|文|「鑑賞日記~オパンポン入門~」
まもなく解除、という段階ではあるものの、2回目の新型コロナウィル感染拡大による緊急事態宣言下での上演。
ハスキーボイスの女性が歌うムーディーな曲で客入れ。
前説は、一人演劇ユニット・オパンポン創造社主宰の野村有志さん本人による影アナ。注意事項と共に、一席ずつ空いているから、遠慮なく笑ってもいいですよ!と笑いのススメ。ここから作品への導入は始まっている。
「サンセット」、「てんびんぼう」、そして今回初演の「Bikeshed」の短編3本のオムニバス公演である。
1本目は「サンセット」(2019年初演)。
舞台には、シンプルな白い箱が3つ。
明かりが付き、二人の男が白い箱に座って、大きな声で話している。左端の箱は空席。
半袖ポロシャツ、ズボンの男性。猫を飼い、3歳の子供がいるが別居中の落合。
赤いTシャツに短パン、ビーチサンダルの若い男性。彼女には頭が上がらない日野。
彼女にマラソンに誘われたけど行きたくない日野が、日野は、マラソンのしんどさを紛らわせるために、先輩の落合を誘う。落合は自分が行くことが日野のしんどさを紛らわす一助にもならないと言い、二人の出口のない、堂々巡りの会話が続く。通じないことを楽しみ、あえて会話を終わらせないかのようだ。
そこに、制服姿の月村が入ってくる。重苦しい面持ち。背の高い大きな体に緊張が漲っている。
以降、徐々に、その場の設定が解き明かされ、そこが「サンセット」という場所で、そこに入ると翌日は仕事が休みなる場所、出世する見込みのない人が指名される仕事。そして、今からこの3人で死刑台作動のボタンを押す瞬間を控えているということが見えてくる。ボタンを押すという仕事さえすれば、服装も自由で、何をしていてもよい。一人に責任感や罪悪感を押し付けないための3人セットだということも。
このあとに待つボタンを考えると、二人の軽さが耐えられない月村。
黙るよりは喋る方が楽になると勧められ、マラソンが好きで、ガチで早いこと、そしてマラソンと人生を重ねて一人で論じ始める。
「マラソンは人生の縮図」、「マラソンはゴールが決まっているところが人生と違う」、そして、「ゴールが決まってるのが人生と違うと言ったけれど、他人のゴールを今から自分たちが決めるんだな、、」と。気を紛らせつつも、引いては押し寄せる波のように、一刻一刻迫ってくるその瞬間を観客にも感じさせる。
慈しみ深き、、の賛美歌が流れる。その曲が終わってブザーが鳴り、赤いライトがつけばボタンを押すのだ。
短くも長い賛美歌が流れている間、初めての月村と、経験者の二人。ふたりは、その時間をハイテンションの笑いで、非日常に自分とこの空間を持っていきボタンへつなげようとする。ツン一丁になって阿波踊りをする芸。笑わせるために、全力でえらいやっちゃえらいこっちゃ、、、と。 気付けば、賛美歌は終わっている。ブザーが鳴る。
いよいよ。とその時、死刑囚のリクエスト曲「マック・ザ・ナイフ」が流れる。その人生を肯定し、明るく豪快にその瞬間を受け入れるかのような選曲。
ボタンを押す時間となり、3人がボタン前に並んだその時、合図を待たずに、「あ、押してしまいました。」と月村。続く、死刑執行の音。
意識より先にからだがやってしまったこと。言われた通りボタンを押しただけ。
自分たちに罪悪感は不要だと言いながらも、月村の口からは勝手に言葉が口から出つづける。ぬぐいきれない感情は、思考より流出が早い。
こう思うからこう動く、というようなことではなく、動いた後に行為を認識することもある。
言葉と感情と行為と意識がバラバラに噴出する目の前の身体の向こうに、そのすべてが絶たれた命を思わせるがごとく、再び「マック・ザ・ナイフ」が流れて終わる。
てんびんぼう
「セミ」の鳴き声。
長机におさげ髪のカジュアルな服を着た女性 法子が座り、サーファー風のTシャツを着た男性 田代が、契約書を書かせている。
他の会社からの取材は受けないように。「名前は載るんですか?」「もちろん偽名で。」
高圧的な態度の田代と、おどおどする法子。怪しげな契約のようだ。
2大会連続で無差別級柔道の金メダリスト小野田選手は、亡くなった彼女の夢をかなえるために陸上の短距離走でオリンピックに出ようとしている。国民はそれに沸く。
法子という女性は、その小野田選手の彼女で、選手の浮気を垂れ込むため、大手ではない出版社にSNSの彼と自分のやり取りのコピーを持ち込んでいた。大手ではない出版社なら、小野田を痛めすぎず、チクリと刺すだけですみ、自分に謝ってもらえるのではと考えて。
スポーツ記者の瀧は、小野田の特集記事を組んでおり、同社の芸能記者の報道で、それを潰すことはしたくない。田代と瀧の社内バランス。そして、目の前の法子と、ここにはいない小野田と世間というバランスが計られ物語は進行する。
浮気ごときで、名誉ある実績を積んできた選手を、「普通の人」に貶めたいのか?
自分を守りたいという個人的な欲求のために、その偉大な選手の人生をつぶすのか。
と、大柄の瀧は、小柄な法子に、圧をかける。
特別な世界に生きている人は何をしても許されるのか。
普通の人は、特別な人がその世界で生き続けるために、我慢しなければいけないのか。
しかし普通の人が集まって世間の目線として騒がれたとき、その功績のある特別な人はその目線に失速させられるのか。ギリギリのバランスを保ちながらの個人と活動。
オリンピックと経済と個人の恋愛の比重。昨今のハラスメント問題が脳裏で伴走する。
夏、爆音のセミ。騒音。
耳をふさいでも入ってくるもの。
世間の噂や報道、見えないけれど人の人生を左右する力の象徴なのか。
鑑賞直後、三作品の中では、この作品だけは捉えどころが持ちにくかったが、後でじわじわ効いてくる。
Bikeshed
この作品タイトル。意味が分からなかったので、調べてみた。
バイクシェッド(複数形の自転車小屋)
(比喩的に、技術的専門用語)実際の重要性に対する全ての割合から、議論の吐き気を引き付けているトピック。また、自転車で覆う、いくつかの小さく、比較的重要でない事の詳細に延々と議論のプロセス。
語尾にingをつけると、
1. 限界技術的な問題の議論における時間とエネルギーの無駄な投資。
2. 先 延ばし.
とある。
舞台上は、クロスのかかったディナーテーブルに老人と孫。
最後の出されたメインディッシュが、セミ。まだ生きていて、時にジジッと鳴く。
老人の食べたことのないご馳走というリクエストから出された一品だが、
セミの嫌いな孫との口喧嘩を生む。
第3者にはとるに足らない話だけれど、孫は不機嫌で常に老人は明るくハイテンション。
「楽しもうとする者にしか、楽しみは来ない」「知らないものを知ろうともせずに否定するなよ」「人生楽しめてるか?」と、セミを食べないでいてほしい孫に対して、人生訓のような台詞。「自分の人生を否定できるのは自分だけだ」とも。
シェフが入ってきて、セミの話を続けようとする老人に、孫は今この時間に話すのは自分とではないか、と、老人を責める。
自分勝手に生きてきた老人と、そのように生きることのできない孫。老人は、今日で店をたたむというシェフの今後について話している。
孫の焦り。今誰と話す時間なんだ。シェフと話す必要も話す意味もない。なぜこんな日に笑えるのかと老人に問う。
老人の意味がないことを意味のあるように騒いでいるのが人間だ。死ぬ間際に意味を求めるのは寂しすぎると笑う。今、この時間に焦点が当たったところで、「19番」と番号で老人を呼びに来る制服を着た男が入ってきて、賛美歌が流れる。
ここで最初に見た一本目の「サンセット」の、表と裏側だと気づく。ここはレストランではなく、死刑前の最後の晩餐だったのだ。日常と何ら変わりのないようにも思える会話が最期の特別な時間だと判明した途端、観手として同調する相手が老人から焦り続ける孫に一変する。
老人は、シェフに加え刑務官にも食卓へ着かせる。
子どもの頃、セミをよく食べたという刑務官。美味しいとは言えないが癖になる味という。老人、男、シェフが一堂にセミを食べる。
セミを食べる3人と、否定する孫。マイノリティとマジョリティの逆転。一歩外の世界に行けば、また逆転。どちらかに正解があるわけではない。 「一人殺せば人殺し、たくさん殺せば英雄という詐欺がまかり通るのだから、誰もが俺になるんじゃないかな。今のお前みたいに。」逆転は、いたるところで起こっているのかもしれない。
鼻歌で歌い踊りながら、出ていく老人に、「小野田さん、あなたのファンでした」とシェフ。
またここで、2本目の「てんびんぼう」で出てきた選手と同じ名前が。ファンがつくくらいの人知れた人物なのだから、同一人物かもしれないが、そこは観客の想像にゆだねられる。
最後の言葉を自分がかけてしまったと孫に詫びるシェフ。
ブザーが鳴り、「マック・ザ・ナイフ」が流れる。追って、<その時>が来ることは、「サンセット」で予習済み。<死>の当事者ではないが、その死に直面する者の極限状態。
セミを口に入れた孫とシェフ。残されたものが笑い合うところで、死刑執行の音。暗転の中、流れ続ける音楽に、老人の今は無き時間をおもいながら、1本目の終わりも笑い声とこの曲だったことに気づく。
エピローグは、サンセットの3人と、彼女がマラソンで走っている。
月村はツン一丁。先頭を走る月村はさらに加速し、ソロ走者となり、この日3作品を走り切った野村有志の顔で、カーテンコールに繋がる。
死への意識。でも、直接自分のものではないという距離間と、こうした時間にもすぐ隣で、何もないかのように笑っている人がいて、明日が来ることに疑いがない。
「~よりも」「~の方が」というワードを多用し、ここにいる人と世間の人というように、ここにいない人を立ち上がらせ、言葉の一部をつまみながら、相手にかぶせていくことで、理解・不理解を構築していく野村氏の手法は、時間を立体的に伸び縮みさせ、関係のバランスをスピーディーに変化させる手法は、秀逸だった。敢えてスマートにしすぎないところも計算済みだったのだろう。
野村有志の役者としての魅力についても触れておきたい。
今回のフライヤーのツン一丁の写真は強烈だったが、全くどんな作品が上演されるのか、イメージできなかった。のどかさと非日常。軽さと不可解さ、といったところか。
しかし、各作品、異なる身体で登場するその徹底ぶりは、その衣装を着て身体が演じるのではなく、身体がその役柄に「なる」という域のもの。素晴らしかった。
当日パンフレットには、全創造:オパンポン創造社というクレジット。野村氏の覚悟が伝わる。
思考と感情とがすごいスピードで揺さぶられる、オパンポン★ナイトを大いに楽しんだ。
|プロフィール
文(あや)
神戸・新長田を拠点とするNPO法人DANCE BOXの事務局長。1996年よりコンテンポラリーダンス事業を多数のアーティストと協働して実施し、ダンスと身体、表現と社会、人と地域と劇場が出会い拡張する現場を考え続けている。ダンスアーティストの広場「Dance Shares」、障がいをもつ人や多国籍の人と共に舞台・表現・生活を考えるプロジェクト「こんにちは、共生社会(ぐちゃぐちゃのゴチャゴチャ)」等を担当。