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KAVC FLAG COMPANY 2020-2021 オパンポン創造社『オパンポン★ナイト〜ほほえむうれひ〜』劇評|大熊隆太郎

2021年2月26日(金)28日(日)

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大熊隆太郎(壱劇屋)「ドラマとトリックの絶妙なバランス」

短編集という劇構造の使い方が鮮やかで、楽しいだけじゃない上質なコメディでした。
内容は決して他人事では無い笑えぬ内容ながら、巧みな会話で笑いながら楽しく観れてしまい、しかし笑いながら同時に虚しさや現実の厳しさを見せつけられて、後味はほろ苦かったです。演技態もリアルとデフォルメの間を自在に行き来しながら要所を抑えて見やすい進行。背後に隠れている事実関係のばらし方もとても巧みで、徐々に明かされる真実で観客を飽きさせず、ドラマとトリックのバランス感覚が素晴らしかったです。
個人的なことを書く場所では無いですが、私は脚本に関してコンプレックスと開き直りが交互にやってくるような、脚本に苦手意識の強い作演出家で、矛盾や展開のボリューム調整に無神経で、何よりドラマを書くことが心底苦手です。
なので野村さんのキャラクターを描くセンス、ドラマを組み立てるセンス、本当に羨ましいなと思います。

今回の作品は三本立てのオムニバス形式で、30分の一幕ものを順番に上演します。
基本コメディテイストで笑いを交えて進行され、演出はシンプルなストレートプレイです。
順番にさらっていこうと思います。

一話目の「サンセット」は二人の男性が取り留めのない議題を延々と話しているところから始まりました。冒頭からテンション全開で「マラソンに行くか行かないか」についてこねくります。正直言って私は「早く次の展開行ってくれないかな、いつまでこの積み上げの無い会話が続くんだろう」とちょっとうんざりするぐらいでした。でもこの「積み上げの無い会話にうんざりする」というのが仕掛けだった時は驚きました。中盤から後半にかけて、彼らが死刑執行人であることが明かされていくのですが、積み上げの無いうんざりするような会話は、目の前の重圧から逃れるためにわざと積み上げ切ら無いようにして、会話が途切れないように努力していたことが分かります。オチはボヤかさず死刑執行して終わらせ、笑えるようなシーンとして作ってはいるものの、現実の社会を突きつけて終わらせてくれたのは気持ち悪いけど気持ちよかったです。

二話目の「てんびんぼう」は、セミが五月蝿く泣き喚く夏に、小さな出版社編集者たちと有名人のスキャンダルを売り込みに来た女性の話でした。有名人というのはオリンピックに出場を控えた国民的な人気を有する小野田というスポーツ選手で、スキャンダルは浮気です。弱小出版社を使って小野田に浮気を謝ってほしい女性と、このネタを使って一山あてたい編集者。序盤、編集者は女性蔑視気味で選民思想な発言をバンバンするのですが、これまた内容はエグいのに面白いから笑っちゃうという素晴らしいコメディになっていました。でもこの編集者の言い分を、どこがおかしいの?と思ってしまう人は世の中にゴロゴロいて、だからこそこの作品が生まれて、こうやって会場で笑いが起きてるのだろうなと思うと、楽しみながらチクチクと内臓を刺されてるようでした。しかしその編集者たちもオリンピックや小野田という大きな存在からすれば弱者で、その中で上手く立ち回ろうと必死な姿が滑稽であり、物悲しくもありました。

三話目の「bikeshed」は前二話と打って変わってやや高貴な雰囲気の中、レストランと思しき場所で老人と孫が会食をしているところから始まります。老人は持論を展開し、それを理解できない孫がイライラしています。不勉強ながら私はbikeshedなる言葉を知らなかったので調べましたところ「パーキンソンの凡俗法則」というものだそうです。これは「組織は些細な物事に対して、不釣り合いなほど重点を置く」という法則で、平易なことには皆知見があるので口を挟むため議論が長くなり、重大な物事の方が見逃されたり個人の裁量になってしまうということらしいです。老人と孫では些細の基準が違い、セミを通してそれが表現されます。セミ料理を出されても喜んで食べようとする老人に対し、セミは見るのも不快で、ましてや食べるものではないと主張する孫。老人は異常なまでに明るく狂気的に映ります。しかし後半、その老人は小野田であることが明かされ、処刑直前の最後の晩餐であることが分かります。つまり第二話のオリンピック選手であり、第一話の処刑された人間です。小野田がなぜ処刑されるに至ったかは描かれませんが、発言から殺人を犯したと察せられます。恐らく小野田は世間一般に当てはめると破天荒で狂った人間になるのだと思います。それは第二話のエピソードからも伺えます。また「おもちゃにされるのは慣れてる」「意外と俺、まともだと思うけどな」「この世はあまりにも冷たすぎた」という発言からも、本人的にはただ自由に生きていただけというのが伺えます。処刑を前に楽しんでいる様子は、セミどころかこの世のほとんどは些細なことであるように見えました。マイノリティの生き辛さを提示しつつ、殿村さんの狂気的な演技によって、その思想が理解されにくいことがメタ的にも上手く表現されていました。孫以外の登場人物がセミを食べ、立場が逆転したシーンは上手かったですし、最後に孫がセミを食べることで、社会が少し変わり始めている様子を描いているように読み取れました。しかしこの話は小野田の生き方を賞賛してるように捉えそうになりますが、話としては殺人を犯しており、第二話を思い出すと小野田の奔放さによって苦しんでいる人が描かれているので、一面を切り取るだけでは人は測れないというのが後から効いてくる仕掛けになっていました。

上記のように、一つ一つが独立した作品でありながら世界は繋がっており、三本目まで見るとそことそこが繋がっていたのか!という驚きがあり、「それぞれ独立した短編」という公演の構造を上手く利用したトリックになっていました。一本目と二本目でその外側の世界を掘っておき、最後に内側を見せ、小野田という人物を通して人間の多面性と生きることの大変さを見せつけられます。この構造のお陰でただの30分×3ではなく、それ以上の年月が登場人物に感じられる仕組みになっていました。

さらに三つとも共通しているのは大きなものに対する弱者の姿を描いてる点だと思います。
「サンセット」では実力主義の会社と、落ちこぼれの烙印を押されて誰もやりたくない仕事をさせられる三人。「てんびんぼう」では国民的スポーツ選手である小野田、並びにオリンピックそのものと、弱小出版社と女性。(女性は弱小という言葉をつけなくても弱い立場になることが多い現状は本当に問題だと思います。)「bikeshed」では窮屈な社会と、枠にハマらなかったことで落ちぶれて死刑になった小野田。

そして全ての物語は大きいものに対して為す術なしで終わるバッドエンドばかりです。「サンセット」では状況は変わらぬまま死刑を遂行しますし、「てんびんぼう」では女性は浮気されたこと以上の精神的ショックを与えられ、「bikeshed」では小野田は処刑され、マイノリティな料理人の店は潰れます。なんとも苦い後味のままエピローグが始まります。エピローグは「サンセット」の登場人物たちが股間のみ隠したほぼ全裸の出で立ちでマラソンをするシーンです。「サンセット」では人生をマラソンに例えて語られる場面があるのですが、その中でもマラソンガチ勢で、一際コミュニケーションが不得手で、小野田の処刑をしてしまった張本人である月村が素っ裸でグングン突っ走ります。その姿は痛々しく、守る術なく傷つきながら人生を走る姿に見えてきます。それでも表情は清々しく、生きるということに必死になって走るという、なぜか希望に溢れる走りに見えました。私はこのエピローグで本当に感動しまして涙しそうになりました。この演劇に助けられる人が沢山いるのだろうなと思いました。

最後に野村さんについて感じたことですが、良くも悪くも野村さんが舞台上で一番輝いていました。以前野村さんとお話しした時に「自分を売るために自分で舞台を作り売ろうとオパンポン創造社を始めた」というような事を仰っていたように記憶しています。その目論見通り舞台上で誰より自由でいたのも、輝いていたのも野村さんに見えました。他の俳優陣も魅力的でしたが、やはり野村さんが出ていると場の面白さが一段上になっていたように見えました。これは「作演出が一番おもろい」現象としてよくある事だと思っていて、作品の方向性や抑えるべきポイントを知り尽くしている人が舞台上にいると、その人が一番目立ってしまうという現象として認識しています。ましてや野村さんは俳優としても様々な現場で第一線で活躍しているので、一層起こりうる現象だと思います。野村さんがガチガチの主役であればむしろ利点なので、今後はそういうオオパンポン創造社も見たいなと思いました。

|プロフィール

大熊隆太郎(壱劇屋)
劇団壱劇屋の主宰。京都にてロングラン公演中のノンバーバルシアター「ギア-Gear-」のマイムパート。高校演劇コンクールで全国大会へ出場した当時のメンバーで壱劇屋を結成し、作演出を務める。パントマイムを得意とし、不思議な身体表現と物語を絡み合わせ、トリッキーだが大衆性を失わないバランス感覚に優れた作品をつくりだす。イマーシヴシアターやオールスタンディング上演、屋外での上演やパレードなど、様々な形態での作品を発表している。