|夜航 吉村雄太|「パンデミック社会における「対面」の倫理と演劇」
オパンポン創造社『オパンポン★ナイト~ほほえむうれひ』は2021年2月26日~28日にかけて、神戸アートビレッジセンターのKAVCホールにて上演された。その時期に「劇場で対面で上演された」ということが、とにかく本作の全てを表し尽くしているような作品だった。
言わずもがなであるが、2020年は新型コロナウイルスが蔓延し劇場が閉鎖された年である。「ソーシャルディスタンス」や「三密」という言葉のもとで「対面」を避けることが推奨され、飲み会に行くのはもちろんライブイベントに参加したり、劇場で観劇するなんてもってのほかという空気が流れていた。そうした空気に逆らえば自粛警察なる市民によってクレームを入れられたり、SNSで炎上したりと、演劇のみならずどの業界でも抑圧的な雰囲気が漂っていたのは間違いない。2020年は「対面」で人とコミュニケーションをすることがまるで悪であるかのように扱われるような年だった。そうした中で、多くの劇団や劇場が演劇の公演をオンラインで行ったり、過去の公演のアーカイブを動画サイトに投稿したりと様々な試行錯誤を重ねてきた。そしてやっと演劇の公演が行われるようになってきた矢先、2021年1月8日に二度目の緊急事態宣言が出された。『オパンポン★ナイト~ほほえむうれひ』はそうした背景の中で、「劇場で対面で上演された」公演である。
とはいえ本作の内容はパンデミック下の日本社会の状況とは直接的には何も関係がない。本作で扱われている社会的な題材は「死刑制度」である。「死刑制度」と聞くと堅苦しくシリアスな劇を想像するかもしれないが、そうではない。とにかく登場人物が舞台上で馬鹿げた会話を繰り広げ、挙句の果てにはなぜか全裸で舞台上を踊り狂い疾走するという荒唐無稽なコメディ作品だ。本作は「サンセット」、「てんびんぼう」、「bikeshed」という三つの短編作品から成っている。それぞれの作品は独立した作品として鑑賞することもできるが、オノダと呼ばれる一人の男の出来事を巡った物語として実質上一つの作品として鑑賞することができる。各作品について簡単にあらすじを見たい。
まず一作目の「サンセット」では、中年おやじの上司と部下の若者の会話から始まる。部下は明日あるマラソン大会に参加するのだが、走るのが辛いので、付き添いとして上司も大会に参加してほしいというのだ。上司は当然断るのだが、二人はマラソン大会に参加するかしないかを巡って押し問答をする。するとなにやら警察官のような姿をした男性がやってきて真面目に職務をこなすよう諫める。男性の言動からどうやら彼らの仕事はボタンを押すことのようだとわかる。そしてそのボタンとは死刑執行のボタンであり、「サンセット」とは死刑執行のことを指すのだということが次第に判明してくる。舞台上で繰り広げられる会話は死刑執行官たちが死刑を執行する前のやりとりなのだ。彼らは死刑執行までの間を持たせるために、ひたすら馬鹿げた話を繰り広げ、最終的には全裸になってよさこい踊りを始めるという極端な行動に出る。しかし死刑執行の時間が訪れ、無慈悲にも刑は執行される。
二作目の「てんびんぼう」は一人の女性が新聞社にゴシップのタレコミを持ち込むところから始まる。女性は柔道の金メダリストであるオノダのファンであり、SNSのDMを使ってオノダと知り合ったという。女性はその後オノダと交際を始めるがオノダに浮気されていたことを知り、謝ってほしいとタレコミをしたという。若手記者は大スクープだとして大喜びするが、年配の記者はその記事を揉み消そうとする。もし浮気が公表されればオノダはオリンピック出場を辞退せざるを得なくなり、オリンピックや世間の空気を台無しにしてしまうからだ。浮気という個人の小さな被害とオノダの社会的評価を天秤にかけた時、記事を掲載するべきではないと年配の記者は女性と若手記者を説得する。もちろんそれは新聞社の利益のための詭弁なのだが、女性と記者たちの間で記事を掲載するかしないかで応酬が始まる。そのうちにオノダ本人から電話がかかってきたりと、てんやわんやの騒ぎが舞台上で繰り広げられる。
最後の「bikeshed」は老人と孫がセミの料理を食べるか食べないかで激論を交わすという内容だ。「今までの人生で食べたことが無いものを食べてみたい」という老人は面会に来た孫と一緒に、シェフが作ったセミ料理を嬉々として食べようとする。一方、孫は重要な日にそのようなゲテ物を食べさせられることに対して怒りをぶちまけ、自分は一体何のために老人に会いに来たのかわからないとやるせなさを感じる。セミを食べるか食べないかのやり取りが繰り広げられる中、劇の終盤で死刑執行官が入室することで、老人が死刑囚でありセミ料理が最後の晩餐であったことが明らかになる。そしてこの老人は二作品目で名前が出てきたオノダという選手の晩年の姿であり、一作品目で刑に処せられた死刑囚だったのだということが判明する。死刑囚オノダが刑に処せられると、後日譚として一作品目の死刑執行官達が全裸でマラソン大会に出場している姿が舞台上で繰り広げられ、物語は終わる。
全編を通して見た時、『オパンポン★ナイト~ほほえむうれひ』はオノダという一人の男の人生と彼を巡る人々を描写することによって、死刑囚と死刑執行官の両方の側から「死刑制度」というものを見つめた作品だということができるだろう。
しかし本作は題材として「死刑制度」を取り扱っているだけで、必ずしも「死刑制度」そのものの是非について論じる作品ではない。むしろ本作の本当のテーマは人間の「対面の倫理」を提示するところにあると言える。
例えば「サンセット」では死刑執行官たちの葛藤が提示される。死刑執行官達が刑執行前に無意味な雑談をしたり、裸でよさこいを踊ったりするのは、刑を執行する不安を紛らわせるためだ。若手死刑執行官は「結局人間は鈍感に生きたい存在なのだ」と語る。日々世界のどこかで貧困や飢えに苦しみ死んでいく人がいることを知っていても、普通の人々は平気で暮らしている。現代文明に生きている以上、生きるということは常に誰かを搾取しながら生きるということだ。しかしそのようなことには気にも留めず、人々は日々「鈍感」に幸せに生きている。死刑執行官がボタンを押して死刑囚が死ぬということも、実はそのような「鈍感さ」の延長で「やってることは同じ」なのだと若手死刑執行官は言う。自分たちは単に「ボタンを押して帰るだけ」で何も罪悪感を覚える必要はないのだ。しかし、理屈ではそう考えることができても実際に死刑囚を見ると割り切れない思いを感じる。自分達がこれから目の前の人間を殺すのだという感覚を無くすことはできない。だからこそ、死刑執行官達はバカ騒ぎを止めることができない。バカ騒ぎを止めると現実を直視せざるを得ないからだ。目の前にいない人間の悲惨な死には鈍感でいられるのに、目の前にいる人間の悲惨な死には耐えきることができない人間の有様が「サンセット」では描かれる。
一方で「てんびんぼう」では、目の前にいない人間に対してはどこまでも残酷になれる人間の有様が述べられる。年配記者はオノダの浮気を告発した場合、SNSで炎上するだろうと主張する。SNS上の人々は「面と向かってないから好き勝手騒げるんだ」と彼は言う。「サンセット」で死刑執行官達が死刑囚を前にしたとき罪悪感を覚えざるをえなかったように、人間は「対面」では他者に対して滅多に攻撃的になれない。しかし一方で直接「対面」していない状況ならば、人間はどこまでも残酷になれる。SNSで激しい誹謗中傷に晒され自殺してしまうアイドルやスポーツ選手が世界的に後を絶たないのを見てもそれは明らかだろう。
「bikeshed」ではそうした人間の在り方に対してある種の批判がなされる。セミを食べようとするオノダに対して孫は嫌悪感と怒りを隠さない。しかしオノダはそのような孫はいざ知らずといった様子で「どうして関わりを持たないものに対して怒るのだ?」と問いかける。「セミを食べることが嫌ならば食べなければいい。そもそも孫はまだセミを食べていないし、何も問題はないではないか。それなのに自分がまだ関わりを持っていないものに対して怒ることは変だ。しかし自分はセミを食べるし、食べるということを通してセミと関わりを持つ。そして孫にはそれを止める権利はない」。それが、老人が孫に語ったことだった。
これは現実に関わることなくSNS上でのみ騒いでいる人々に対する痛烈な批判だろう。SNS上で「世間に対する謝罪」を求めて有名芸能人の浮気を糾弾する人々は実際にその浮気の被害者でもなければ加害者でもない。単なる部外者だ。単に空理空論を振りかざすネット右翼やネット左翼も同じだ。現実の政治の問題は、現実の場所に生きる現実の人間がいかに困っていてどのようにすればそうした人々が救われるのか、というところにしかない。現実の人間と物事に関わって初めて政治問題は解決される。言葉だけでは被災地は復興しないし、パンデミックを止めることはできない。しかしそのことを忘れてしまった人々は言葉だけで何か現実に関わったような気になって激しい糾弾をしたり、自分が正義だと思い込んだりする。 オノダは孫に対して実際にセミを食べてみることを勧める。それは一歩踏み出して現実と関わってみろということだろう。セミ料理がおいしいかまずいかは、実際に自分で食べてみるまで分からない。祖父オノダが刑に処せられた後、孫は意を決したようにセミを口にする。セミを口にするという形で孫が彼なりの現実との向き合い方を示すとき、観客も同時に自分自身の現実との関わり方を再考することが求められているのだ。
『オパンポン★ナイト~ほほえむうれひ』で提示されたものは「対面の倫理」とでもいうべき人間の在り方だ。人間は目の前に存在しないものに対してはどこまでも「鈍感」になりえる。しかし目の前で「対面」しているものに対しては勝手に心が動いてしまう。「対面」という状況は人間の「鈍感さ」に対するある種の「倫理」となりうる。
かつてフランスの哲学者ルソーは「憐れみの情」が社会を生み出すのだと言った。ルソー以前、人間は自身の生存を守る「自己保存」のために「万人の万人に対する闘争」を避け、契約を結び社会を形成するのだと考えられていた。しかしルソーは「自己保存」だけでなく「憐みの情」が社会の根源だと考えた。例えば川で溺れている子供を発見した時、人間は自分の身を投げうって子供を助けようとすることがある。それは「自己保存」ということでは説明できない。人間には単に利己的に自分を守ろうとするだけでなく、他者に「対面」したとき、論理や理性を超えて他者を救おうとしてしまう。それがルソーが言う所の「憐みの情」だ。「自己保存」だけでなくそうした「憐みの情」によって社会は構成されたのだとルソーは考える。「サンセット」で目の前の死刑囚に対して死刑執行官達が覚える感情はまさに「憐みの情」だろう。人間は目の前にいる悲惨な境遇を持った人間に対して心動いてしまい、どうしていいのかわからなくなる。普段他者の死に対して「鈍感」であった人間が「鈍感」でいられなくなる。「対面」において生じる「憐みの情」は目の前の人間もまた自分と同じ人間なのだという素朴な実感を生み出し、人間を倫理的思考へと導く。 しかし一方でそれはあまりに脆く暴力的な事実でもある。人間は「対面」しなければ平気で人を攻撃するし、他者の不幸に対してどこまでも無関心であり続けられるということでもあるからだ。人間は世界の裏側で苦しんでいる他者には無関心であるのに、目の前で苦しんでいる他者に対しては手を差し伸べてしまう。それはあまりに理不尽であるし非合理的だ。しかし死刑執行の際に心迷ってしまうのが人間であるし、逆に話したこともない芸能人の浮気が許せなくなるのも人間である。「対面」においてはうまく他者への想像力を働かせることができるが、そうでなければ働かせることは難しい。あまりにも素朴な人間観であるが、昨今のSNSを見るに人間は元々素朴な動物なのかもしれない。
だからこそ私たちは人間に「対面」し続けることを忘れてはならない。人間は簡単に他者に対して「鈍感」になりえるし、どこまでも無関心で暴力的になりえる。しかし人間に「対面」した時、その「鈍感さ」を改める契機となりうる。「対面」という形でどうしようもなく他者の存在を突き付けられた時、自己と他者との関係を取り結ぶ「倫理」の在り方が現れてくる。『オパンポン★ナイト~ほほえむうれひ』ではそうした「対面の倫理」でもいうべき人間のある種の在り方が提示された。
二度目の緊急事態宣言で多くの劇団が公演をオンラインに変更したり、公演自体を取りやめる事態になった。万が一感染者を出してしまった時のリスクと責任を考慮した上でそのような決断をすることは正しい判断だと言えるだろう。そうした劇団を責めることはお門違いだ。しかしそうした状況の中で、オパンポン創造社はオンラインに変えることもなかったし、公演を取り止めることもなかった。万全の感染対策が講じられたとは言え、そこには万が一の際のリスクと責任を引き受ける覚悟があっただろう。
それは明らかに「対面」の力を信じているからだ。もちろん単にオンライン演劇より「対面」での演劇がよいという簡単な話ではない。オンライン演劇にはオンライン演劇の魅力があり新たな可能性がある。しかし「対面」での人間の心理や感情の揺らぎを表現する本作をオンラインで上演しても、何らの説得力も持たないだろう。本作は「劇場で対面で上演する」というスタイルと、劇中で表現されているテーマが一致している。そして緊急事態宣言下において「劇場で対面で上演する」ことそれ自体に社会に対する強いコミットメントを見出している。オンライン公演でも成立する演劇はもちろん存在するが、本作はオンライン公演では決して成立しない種類の演劇だ。
『オパンポン★ナイト~ほほえむうれひ』は題材としては「死刑制度」を描きながら、そのテーマとしてはパンデミック下の日本の状況に対する批判しつつ、「対面」状況における人間そのものの在り方を笑いを通じて提示した優れたコメディ作品だったということができるだろう。
|プロフィール
吉村雄太
批評誌『夜航』/京都大学大学院文学研究科日本哲学史専修修士課程。
批評誌「夜航」編集員として年に1〜2回思想と神戸・関西の文化にフォーカスした批評誌を刊行。「夜航」第4号では「関西から考える演劇」というテーマで特集を組み、関西で活躍する演劇人と座談会を開き、劇作家の平田オリザ氏にインタビューを行い、2018年にKAVCで行われたダンスのショーケース「ダンスの天地vol.01」では批評文を寄稿するなど、広く文化と舞台芸術に関する批評を行なっている。