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KAVC FLAG COMPANY 2020-2021 うんなまver.13 さいえんのえんき『ANCHOR』劇評|筒井 潤

2021年3月26日(金)28日(日)

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筒井 潤(dracom)「建てつけのゆるい語法」

 SNSの跡を感じない言説に出会えなくなって久しい。もう二度とそんなものには出会えないのかもしれない。うんなま『ANCHOR』について、「SNS的」とする感想を見聞きしたが、それ自体がSNSにもあったし、わたしが目にした理由もSNSで検索したからである。
 「SNS的」とはなになのか。最近の演劇作品は、SNSでトレンド入りした話題に影響を受けていないほうが稀だ。ほとんどがそれへの応答としての上演になっている。SNSは、より遠く広く社会を眺め、見知らぬ他者の存在とその声を確認できるツールとして多くの劇作家に利用されている。その意味でわたしは、最近の演劇作品の大半をSNS的だと感じている。ただ、以前はテレビや新聞、雑誌の記事を動機として劇作されていたことを思えば、これは単に情報収集の方法が変化したに過ぎず、なにも特別ではない。時代の必然である。しかし『ANCHOR』は異なる様相を呈している。
 『ANCHOR』は、登場人物のアイデンティティーが疑わしく、特定しがたい。冒頭にはひとりの登場人物(あるいは俳優本人)に「本日の主役」と書かれた襷が共演者によって掛けられる。次に、(おそらく)男性の俳優ふたりが、両想いであることが明らかになるシーンに続く。ただし、それが舞台上で観客を演じる他の俳優たちに向けた漫才の中での出来事ゆえ、本物の観客には、それが事実なのか、事実だとしてもどのレイヤーでの事実なのか、それとも単なる漫才のネタでしかないのかがよくわからない。開演して間なしにこのようなことが立て続けに起こるので、それ以降の上演内容も真偽が定かでなくなってしまう。舞台上の俳優たちがなんらかの役割を自ら選択しているのか、何者かに負わされて演じているのか、あるいは本人そのものとして振る舞っているのか、とにかくすべてが曖昧なのだ。また、彼らの議論はいとも簡単に同意したり決裂したり、あるいは一向に噛み合わなかったりする。なにを基準にして観ていたらいいのかさっぱりわからない。これはまさに、Twitterのようである。本人が特定できるアカウントもあれば、匿名、偽名のものもある。公式アカウントと裏垢を使い分ける人もいる。それぞれのつぶやきも連帯を示したり分断を煽ったりしているが、それらは心からの思いなのか自己顕示欲の表れなのか、事実かそれともフェイクなのか、確認しようがない。
 しかし、これをもっていかにもSNS的で、新しい表現だとするのは誤りだろう。いや、頻繁にテレビの砂嵐(スノーノイズ)が映像として使用されるのを「最近の若者は本物の砂嵐を見たことがないぞ」、とか、台詞の文体を指して「どことなく『Mr.BOO!』の日本語吹き替えで有名な広川太一郎の広川節((抜粋)吹替偉人伝 特別版 「広川太一郎 蔵出しインタビュー(日本語字幕)」 )に似ているぞ」、とか、そういう理由で古いと言いたいわけではない。
 演劇では、俳優がさまざまな人間を演じてきた。ときには神になって教えを説いたり、動物になって吠えたり、ロボットになって平和に貢献したりもした。そして表現されるのはストーリーや登場人物だけではない。舞台は、観客の想像力を借りながら、神話の世界や宮殿の一室、退廃的な都市の路地、茶の間、宇宙船、等々、本当にキリがないのだが、とにかくありとあらゆる場所に変貌する。そして『ANCHOR』は、建てつけのゆるい語法の縮図であるSNSの空間をそのまま舞台上に設える試みだった。これは決して気を衒ったものではなく、古典的な演劇の効果と舞台の機能を深く理解し信頼できていたからこそ成せる技なのである。
 さて、唐突のそもそも論だが、人間は、他の動物とは異なる特殊な知能をもっているがゆえに世界を誤解してしまっている。理論物理学者カルロ・ロヴェッリによれば、〈縦×横×奥行き〉の空間や、一定の速さで流れる時間というようなものは存在せず、現実にあるのは出来事と関係のみらしい。難解だが言わんとしていることには頷ける。この理論に従えば、人間は現実世界に対応していない特殊な語法(=ルール)で建てつけのゆるい仮想空間を創り上げ、それを信じて疑わずに社会を形成していることになる。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、人間が地球を支配できたのは他の動物にはない想像力をもっているからだと言うが、その「地球」も人間の語法でとらえているので、入れ子になってしまっている。ゲームを作った人は、作った本人しかわかっていないルールがあったり、自分の都合でルールの改定ができたりすれば、そのゲームでは絶対に勝つのだ。人間は、特殊な想像力によって空間(=土地、領域)を永遠に所有できるものとしてとらえ、その支配に熱中し、以降、新しい空間が生まれたらその度に覇権争いをおこなってきた。想像力で神の存在を思いつき、神の居場所としての空間も想像した。宗教間の争いは、神が座するたったひとつの場所をめぐる椅子取りゲームとも言えるのだが、椅子がひとつしかないというルールも人間が勝手につくったものでしかない。「国家」という枠組みも遡れば縄張り争いの結果だし、近代国家になってもそれはイデオロギー対立のフリをした利権争いとして引き継がれている。いまは宇宙空間もその延長線上にある。そしてネット空間である。民間企業のGAFAが強大な資本とテクノロジーで支配し、国家と台頭な存在になっている。…では、劇場という空間は?
 エンディング近くで、ひとりの俳優が新しい「ゲキジョウ」を探しに、いまいる劇場を出て行くくだりがある。

男1 新しいゲキジョウが見つかったら、何しましょうかね。そうですね。とりあえず、大きな声?出したいですね。大きな声出して手足じたばたさせて、誰かのことを思って、感情とか、いろいろ支離滅裂になってもいいんで、感情とか、爆発させたいですね。

男1 ああ、楽しみだなあ。新しいゲキジョウ、楽しみだなあ。

 当初はみんなが楽しい遊び場として期待していたが、本当と嘘の判別がつかなくなり、お互いに疑心暗鬼になる原因となってしまったSNSの空間と決別し、他者を信頼し無邪気に過ごせる空間に行きたいという願い、そしてそれはまぎれもなく劇場であるという想いが込められている。最後に主人公が期待と不安を胸に新天地に向かって旅立つ物語は数多くある。この点も『ANCHOR』が典型的な劇作を踏まえた作品であることを示している。
 人間は五感で得られる情報のすべてを名づけようとしてきたし、その営みは今後も続くだろう。しかし人間の語法は間違っているのである。この世は不条理だとよく言われるが、誤った定規を使って世界のサイズを測り、定義づけを続ける作業がもう正真正銘の不条理だ。時間は等間隔に刻まれるものではないのに、そう信じてしまったから、人間は時間に追われる羽目になった。モノにではなく、貨幣に揺るぎない価値が宿っていると盲信し、〈売れる/売れない〉でものごとを解釈し、貨幣価値を消費するのが社会生活の目的となった結果として、いまにも貨幣価値が人間存在の価値を凌駕しようとしているのが現状だ。このように、自ら創り出した不条理を真に受けるからいつまでたっても人間は問題を解決できないでいるのだ。そして、人間の語法から外れて、不条理のまるごとを俯瞰し、これこそが真実だと示してくれる空間が、劇場なのである。
『ANCHOR』の中で唯一、観客の様子が落ち着いていて安心しているように見えたのは、電動の可動式客席が時間をかけてゆっくりと仕舞われていく場面(?)だった。舞台上の俳優たちと一緒になって、観客は最後まで静かに、そして律儀に見届けていた。結末の予想できて、決して裏切られないと信じられたからであろう。今作における最大の皮肉である。わたしも例にもれずそれをおとなしくじっと見つめながら、「人間はつくづく馬鹿だなぁ」と笑った。
芸術とは、人間の語法の建てつけのゆるさを露わにし、その語法の外に飛び出し、新たな語法をいろいろと試してみる行為である。凝り固まった人間の頭はなかなか自身の間違った語法から解放されない。そこで必要になってくるのは遊び心である。有名なロジェ・カイヨワによる遊戯の定義を確認しておこう。①強制のない自由な活動 ②決められた空間と時間により制限を受ける活動 ③この先の展開や結果が分からない活動 ④財産や富を生まない非生産的な活動 ⑤約束事のある活動 ⑥日常と対比して、非現実的な活動 
遊戯には、人間の語法とその外の世界との往来のチャンスがある。前述の男1の台詞はこの定義を網羅していると思われるし、「新しいゲキジョウ」はそれが可能な場所であることを期待させる。うんなまは、『ANCHOR』という遊戯で、観客を人間の語法の外に誘ってくれた。そしてまた、新しいゲキジョウで、遊戯を発明してくれることだろう。

|プロフィール

筒井 潤(つつい じゅん)
大阪を拠点とする公演芸術集団dracomのリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとしてフェスティバル/トーキョー10、サウンド・ライブ・トーキョー2014、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(2017、19年、デュッセルドルフ)、東京芸術祭ワールドコンペティション2019等に参加。個人としても桃園会やDANCE BOX主催『滲むライフ』で演出等、様々な活動を行っている。