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KAVC FLAG COMPANY 2020-2021 うんなまver.13 さいえんのえんき『ANCHOR』劇評|福谷圭祐

2021年3月26日(金)28日(日)

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福谷圭祐(匿名劇壇)「劇場に翻弄された不条理演劇」

 ANCHOR(錨)とは、船舶などの水上渡航を目的とした乗り物が、波風によって移動してしまうことを防ぐための道具である。鎖やロープをつけたANCHOR(錨)を、海底や湖底に刺すことで、船舶の移動を一定範囲にとどめることができる。
 さて、初めに述べておくが、『ANCHOR』と題されたこの作品を評するにあたって、私はその錨をどこに下ろすべきかを決めあぐねている。評するにあたって「錨を下ろす」という考え方は、なにもこの作品に限った話ではない。なにかと出会い、それについて語るとき、まずはその論の「拠点(錨=主題)」が必要だ。どこを経由し、どこへ向かうのかは論文執筆の醍醐味である。とはいえ、どこから始まるのか、そもそもどんな船であるかという錨=主題がなければ、この論評は漂流・遭難し、最後には転覆・沈没してしまうだろう。
 それでも、思い切って書き進めてみようと思う。この戯曲は、そんな覚悟を持って書かれた作品だったような気がするからだ。この論評がめざす結末は、せめてもの「座礁」である。

 劇場は通常と異なる「横づかい」だった。舞台下手には劇場常設のロールバック椅子が数列出ていて、上手まで20~25mほどの長い間口がある。客席によってずいぶん見え方が異なっていたことだろう。私は一番下手の後ろの席に座っていた。ここはロールバック椅子に座って演技をする役者の様子がよくうかがえる座席だった。
 開演。一人の男が、「本日の主役」と書かれたタスキを受け取る。また、男性漫才コンビのボケが、ツッコミに愛の告白をする。二人の女性が互いの視線を嫌がる。交番の警察官に、「何か悪いことをしちゃいそうだ」と女性が相談をする。同じ役者が異なる役を演じたり、同じ役を異なる役者が演じたりして、こうした短いシーンが続いていく。
 物語は一向に始まらない。「本日の主役」のタスキを受け取った男性は、実際は特段主役でもない。上記ほかのシーンが何か大きな物語のハイライト・ダイジェストだったり、のちに回収される伏線だったりするわけでもない。なんらかの組織のボスらしき人間が映像を通じて語りかけてきたり、「男が女役を演じることについて議論する」するシーンなどがあったりするが、やはりどれも脈絡がない(ように見えた)。
 正直私には何が行われているのかサッパリ理解できなかった。あえて脱線していく、ひたすらに漂流していくというコンセプトがあるのかとも想像したが、そう明言できるほど脈絡がないわけでもない。「セールスマン」「営業」「交番」「何か悪いことしちゃいそう」「盲目の妹とその姉」「間に合っているかどうか」など、作品を構成するエレメントはある程度限られていたからだ。なにかしら一定の物語的な世界観はあったようにも思える。

 さて、これは不条理演劇だ。サッパリ理解できないのは、私が条理で捉えようと観劇していたからである。とはいえ、条理で捉えきることもおそらくは可能だと思う。作品を構成するエレメントは、すべてがなにかのメタファーで、あらゆるシーンは世界のなにかを例えたものだと考えることはできるだろう。
 それについて観客が思いめぐらし、それぞれが自発的に何かを獲得することを期待する作品だと結論づけることもできる。あるいは、創作ノートや上演台本などを読むことで初めて理解できることも多くあるのかもしれない。いや、間違いなく「ある」タイプの作品だ。

 劇がはじまって後半(後半?)。盲目の妹がセールスしていた望遠鏡を、男が手にし、覗き込む。すると、舞台上のスクリーンにこれまでの流れ(流れ?)とは全く無関係の役者たちによるZOOMミーティング映像が流れる。それが終わると、舞台上の役者が一人、劇場の外に出る。「次の劇場を探している」とビデオ通話で話しながら、KAVCの外を歩く映像が流れる。その映像が終わると、合図があって、照明を吊るすトラスが上昇。また、舞台下手のロールバック椅子が収納されていく。
 観客は、この時間に劇的ななにかを見出すこともできたかもしれない。しかしながら私は、この作品において「何が起こっても変ではない。通常がないため、異常を判定しようがない」という性質の時間を過ごしてきたため、あまり驚くことができなかった。むしろ、職業柄見慣れた舞台機構が稼働する様子を見続けるのは、やや退屈ですらあった。「劇場のシャッターを開く」「紙吹雪を散らす」などの派手な演出は、内圧の高まった劇空間(物語)にカタルシスを与える効果がある。『ANCHOR』はどうだったか。
 振り返って、おそらく退屈なのは当たり前だったのだと思う。私が舞台機構に見慣れていたからではない。あの舞台機構の稼働は、観客にカタルシスを与える目的ではなかったはずだ。では何が目的だったのか。……目的?
 違う。『ANCHOR』に作為を見出そうとすると、論の転覆・沈没の危険性が高まる。そこに目的はないと考えるべきだ。「舞台機構が稼働した」という事実だけを見るべきなのだ。

 この作品をストーリーで語るのはおそらく不可能だろう。ストーリーはなく、存在するのはストーリーの「予感」や「不安」だけだったように思う。構成されるシーンに共通点を見出すとすれば、「お話が始まりそうな予感」があったことか。あるいはそれは、「すでにお話が始まっていそうな不安」だったのかもしれない。役者の準備体操から始まった幕開けに、そのテーマを見るのはいささか安直だろうか。

 ストーリー(=物語・時間)で語れないのなら、オブジェクト(=物体・空間)ならどうか。この作品には、舞台上に9名、映像上に7名の役者が登場する。大小のスクリーンが二つと、上手にレンガを積んだようなパネル。ところどころに斜めになった台や柱のようなものがある、抽象的な廃墟のようなイメージ。
 役者が出てきて、なにかを話す。衣装はそれぞれが勝手気ままに用意した稽古着のような。ときに映像が流れ、別の空間が描かれる。照明・音響は役者の演技をおもねるように寄り添いつつも、ときに夢から覚めて意志を持ったかのように自発する。シーンをぶった切るようにノイズが流れ、明かりは点滅する。トラスは上昇し、ロールバック椅子はしまわれていく。それぞれが勝手に。ストーリーとは無関係に。

 私はここに『ANCHOR』を見た。つまりこの作品は、それぞれが「それぞれ」なのかもしれない。セリフはセリフで、俳優は俳優で、衣装は衣装。美術は美術で、映像は映像で、照明は照明で、音響は音響。そしてなにより、劇場は劇場だ。それぞれが何か「ひとつの物語」に寄り添い、それを組み立てるために存在しているのではなく、それぞれがそれぞれの「物語」で勝手に動く。いや、それぞれの物語という見方は甘すぎる。それぞれの反射、それぞれの不随意だ。よって一貫性などないし、我々が目撃する光景は不条理でしかない。
 「キャラクターが意志を持って勝手に動き出す」と語る作家はよくいる。しかし「映像が勝手に流れる」とか「照明が勝手に消える」、ましてや「劇場が勝手に動き出す」なんて語る作家は見たことがない。(さすがにコントロールすべきだと思う。)
 しかし、作者・繁澤さんにとって、劇場とはそういうモノだったのだろう。メタ的な読みになるが、ウイングフィールドで初演した本作は、コロナ禍のあおりで同劇場での上演が延期となった。そして、アクセスもサイズもまったく異なるKAVCで本作は再演された。上演場所があって、作品が生まれたのではない。作品があって、上演場所が生まれたのだ。
 固有名詞つきの劇場ではなく、一般名詞として劇場があって、その時間と空間が勝手気ままに変化した。そんな実感が、本作には表れていたのではないだろうか。

 さて、そろそろこの論評を締めくくらねばならない。
 私の『ANCHOR』評は、やや遭難しつつも、なんとか「劇場」に座礁できたように思う。しかし残念ながら、この劇場は島ではなかった。どうやら大きいクジラのようだ。

 本来はこのクジラをしつけし、飼いならすのが演出家だ。個人的にはそういった作品のほうが優れていると感じるし、自身もそれをめざしている。
 しかし『ANCHOR』では、まずはクジラと共に過ごすことだけを選んだ。劇場は劇場で生きてくれ、僕たちは僕たちで生きる。……共倒れするくらいなら。
 これは、そんな切実な劇だったのかもしれない。

|プロフィール

福谷圭祐(ふくたに けいすけ)
匿名劇壇。劇作家・演出家・役者。リコモーション所属。匿名劇壇のすべての作・演出を手がける。
【受賞歴】
「悪い癖」2016年 OMS戯曲賞 大賞受賞
CoRich舞台芸術まつり!2017春 演技賞
【主な外部脚本提供】
〈TV〉関西テレビ「環状線ひと駅ごとの恋物語-Part2-」station1鶴橋「優しい追跡者」、ABC テレビ「僕らは恋がヘタすぎる」
〈舞台〉劇団Patch「森ノ宮演出家連続殺害事件」
〈ラジオ〉KISS FM STORY FOR TWO 月1脚本を担当中