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KAVC FLAG COMPANY 2019-2020 プロトテアトル 第九回本公演『Ⅹ Ⅹ』劇評|中村徳仁

2020年2月14日(金)16日(日)

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中村徳仁黄昏の喪失に抗する――プロトテアトル『X X』に寄せて

『X X』は、近畿大発の劇団「プロトテアトル」による第九回本公演で、チラシなどでも謳われているように、「プロトテアトル史上最大人数」の十四人で行われる架空の町を舞台にした群像劇である。まず印象的だったのは、客席の配置だった。席は四方囲みに配置されていて、その四方の中で登場人物たちがそれぞれの物語を同時並行で繰り広げる。舞台となる架空の町が、客席に囲まれた空間にまさに再現されるわけだが、町がさまざまな顔をもっているように、この物語には支配的なストーリーがあるわけでは必ずしもない。おそらく、座った席によっても感情移入する対象は違うであろうし、その意味でこの物語は、様々な解釈の余地を残す「隙間だらけ」の多義性に満ち溢れているといえる。そして何より、多義性と曖昧さを「X」のままにしておくことによって称賛するのが、本公演を貫く全体の姿勢であるように私には思われた。そのメッセージは、演出だけでなくて物語にも通底している。なぜならこの物語はまさに、曖昧な存在が町からきっぱりと排除されていく物語なのだから。

舞台は架空の町、神開町。山を隔てた「隣町」は、国際的な祭典が近々催されるほどに栄えているが、それに対し神開町は過疎化が進み、大学もないので若者はますます流出している。二か月前にこの町へ引っ越してきたばかりの佐藤家は、父母娘の三人家族である。小学校六年生の娘めぐみは、体調を崩しがちで気も弱く、学校では「よそ者」呼ばわりされて一向にその中に溶け込めずにいる。新生活が始まったばかりで、忙しそうにしている両親には本音がいえずにいるめぐみだが、学校に向かう途中の公園に常にいるホームレスの男性には胸の内を明かすことができる。とはいっても、その男性は最近この町で増えているカラスたち――周囲の町の美化政策と害鳥駆除によって、この町に逃げてきている――と言葉を交わすだけで、めぐみとまともな会話ができるわけではない。

この男性は、カラスと喋っていることを噂され、町の高校生たちからは「てんぐ」というあだ名で揶揄われている。しかし、実はその「てんぐ」は、そんな高校生たちの一人である外村秀一の実の父親なのである。秀一の父はアル中が原因で妻と離婚し、母も心身の負担が祟って病に臥せってしまった。秀一は高校生にして独り暮らしをしながら、学校から帰ってきてはアルバイトに出かけ、そのお金で公園にいる父親にこっそりと毎晩食事を与えているのだ。

そんな中、翼をもがれたカラスの死体が複数町で発見される。犯罪とは縁遠い平穏なこの町でそんなことが起こるのは稀であり、警察はさっそく捜査を始める。そこで「怪しい存在」として、公園にいる秀一の父が真っ先に身柄を拘束されることになった。その夜遅く、「てんぐ」をからかっていたやんちゃな二人の高校生たちが、家を抜け出して「てんぐ」にちゃちゃを入れようと、いわば「害虫駆除」にこっそりと乗りだす。鉄パイプをもって、いつも「てんぐ」が座っている公園のベンチに忍び寄り、ある人影にむかってそのパイプを振り下ろした。――倒れた音は、思いのほか軽かった。よく見てみると、それはあの「てんぐ」ではなく、小学生のめぐみだったのだ。全てに嫌気がさして、唯一の話し相手を求めて公園に向かっためぐみは、いつものベンチで「てんぐ」が来るのをずっと待っていたのだった。

高校生たちが逃げ去った後に、身柄を解放された「てんぐ」はその場に帰ってきた。「てんぐ」は倒れためぐみの身体をみて唖然とし、声にならない声で悲痛にくれた。そこに食事をもった秀一が、いつものようにやってきた。秀一は、少女の死体の前で悶絶する父をみて言葉を失う。父は一言、「死んじゃった」と言った。まともに言葉を話せない父は、事情を説明することもできず、「父がその少女を殺したのだと誤解した秀一は、捕まらないように彼を急いで町から逃がせた。

次の日の朝、父を逃がした秀一は、複雑な感情を抱えたままどうすることもできず、未だ誰にも発見されずに、めぐみが転がったままの犯行の現場へと戻ってきた。深くフードを被り、身をかがめたままベンチに座り続けるその姿は、「てんぐ」と揶揄されている普段の父の姿とそっくり重なる。しかし、「てんぐ」はいつもカラスに囲まれていたが、黒い害鳥たちはもうすっかり駆除され、秀一の周りにはただ静寂が広がっていた。朝の光は、残酷なほど明るい。朝は何かの始まりであるが、絶望に暮れる秀一は、何を始めたらよいのかさえも分からない。物語は、そんな秀一が警官に発見されるところで途絶えるように幕を閉じる――。

以上があらすじだが、この物語が大変興味深いのは、カラスが町から消えていくにつれて、全体の物語進行が観客にとってわかりやすくなっていく点である。比喩的に言えば、物語が進むにつれて、「闇」が「光」によって淘汰されていくのである。物語の前半では、多くの登場人物たちの人生がそれぞれの方向で進んでいるので、観客の側は様々な物語を追うことを強いられる。しかし、カラスが何者かによって「駆除」され、物語がある一点へと焦点化されていくにつれて、観客の側は、複雑な現実をそのまま理解しなければならない負担から解放される。これは、物語が単にシンプルになっているということを意味しない。むしろ逆説的ではあるが、そういった単純化の思考を批判するためにこそ、プロット上の単純化が行われているのだ。単純化とは、複雑な現実を理解するために私たちがもっている術であるが、同時に曖昧で多義的なものを排除していくことでもあるのだ。

この物語において「駆除」の対象となるのは、カラスたち、めぐみ、そして「てんぐ」である。いずれも共通しているのは、この共同体のなかに上手く溶け込むことのできない「よそ者」であるという点である。カラスたちは、各地で駆除にあって追われてきた存在であり、めぐみは――おそらく都会の雰囲気になじめず――引っ越してきたものの、こちらでも歓迎されず、「てんぐ」はこの町の古くからの住民ではあるが、皆から忘れ去られ、家族とも和解できず、カラス以外の誰とも上手くコミュニケーションを取ることができない。どんな共同体にも、そういった曖昧な存在を排除する機能がある。共同体が共同体たりえるためには、メンバーシップや同質性を高め、結束を促さなければならないからである。曖昧な「闇」が「光」によってかき消され、全てがシンプルで「明るく」なることでこそ、私たちは残酷にも他者と共存することができるのだ。

本作では「明るさ」のモチーフが何度も登場する。めぐみが「てんぐ」に話しかけるときに言った、「ねぇ、私って明るいかな?」。また、警察の言う「(カラスじゃなくて)どちらかというとハトです」も、ある意味ではそうである。そして極めつけは、おそらくカラス「駆除」を自発的にやってのけている高校生・佐伯が、友人たちの前で将来の夢を告白するシーンである。「俺は――光になりたいんだ。光になって、向こうからやって来る闇を照らしたいんだ。」佐伯のこの言葉ほど、本作においてゾッとさせられる台詞はなく、観た私にとっては、ここが本作のクライマックスのように思われた。

あまりにも率直なまでに吐露された「光になりたい」という願望こそが、本作における最も忌むべき「悪」であるというのは、一体どういうことだろうか。どうして、曇りなき「光」が、「悪」という全くの反対物へと転化してしまうのか。佐伯は、規範や道徳を後ろ盾に他者に過剰反応する、昨今のネット用語でいうならば「正義マン」とでもいえるのかもしれない。しかし、佐伯の依拠する「正義」や「規範」というのは、曖昧な存在や解釈の余地、多義性、影の部分を排除するか、あるいはそれらを許容しないからこそ成立する「閉じた私たち」にとってのルールに過ぎないのだ。

こうした洞察には、いちいち述べるまでもなく、昨今の社会を取り巻く数々の問題を考える上でのアクチュアリティがあることは言うまでもない。例えば、舞台の神開町は設定上、首都から遠く離れているとされてはいるが(販売されている公演台本を参照)、2020年現在に「隣町で開かれる国際的な祭典」と言われれば、やはりあの「平和の祭典」を彷彿した観客も多くいるはずだ。
最後に演出、特に照明と音響について少し述べたい。光と闇、正義と悪、昼と夜、内と外などといったきっぱりとした二分法と、それだけでは捉えられない曖昧な存在者たち。それらが棲み分けられることなく「X(クロス)」してしまうような瞬間が「黄昏」である。「黄昏時」とは特別な瞬間であり、まさにそんなときにこそ人びとは「魔がさして」、つい普段は言わない本音や秘密を交換してしまう。そうした特別な雰囲気が、今回の公演では、照明の微妙な加減によって絶妙に現出されていたように思う。そしてもちろん、夕方になると流れてくる『七つの子』の醸し出す哀愁も効果的な役割を果たしている。

こうした演出に案内されて私は、曖昧な境界を取りはらって、全てをきっぱりと整理しようとする「光への願望」に抗い、すべてが入り乱れる曖昧な「黄昏」を引きうけることを本作が目指しているのだと改めて思った。

|プロフィール

中村徳仁
1995年生まれ。京都市出身。現在、京都大学人間・環境学研究科博士前期課程在籍。専門はドイツの近現代思想、中でもロマン派の政治思想に関心がある。批評誌『夜航』編集長。