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KAVC FLAG COMPANY 2019-2020 プロトテアトル 第九回本公演『Ⅹ Ⅹ』劇評|溝田幸弘

2020年2月14日(金)16日(日)

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溝田幸弘光のありか

クライマックス。物語が動いた、と思った瞬間、舞台が暗転した。「どうなるのだろう」と固唾をのんでいると、明転した舞台に役者たちが一列に並んでいた。「あ、終わりか…」。肩の力を抜きながら、今自分が何を体験したのか、とめどもなく考えてしまった。 「X X」。想像していた以上にユニークだった。

およそ物語は演劇に限らず、主人公の思惑によって動く―その思惑がうまくいくにせよ、そうでないにせよ、それが主人公の「主人公」たる所以だから。
そう思っていたのだけれど、「X Xは違った。主人公・外村の思惑とは無関係なところで重大な事態が起こる兆しが醸成され、事態が悪化し、そして悲劇的な結末を迎える。
もちろん主人公が予期せぬトラブルに巻き込まれるのは物語の基本だ。そのトラブルを主人公が乗り越えていくさまが、しばしば作品の見せ場になり、観客にある種のカタルシスを提供する。
けれども「X X」にそのような場面はない。本作はトラブルを乗り越える主人公の姿ではなく、トラブルが発生するプロセスそのものを描こうとしたのだろう。
そんな狙いを具現化するのに、大胆な舞台設計が効果を発揮していた。

KAVC FLAG COMPANY 2019-2020の参加7劇団はどこも、客席が可動式であるKAVCホールの特徴を生かし、工夫を凝らした舞台設計をしていた(というか、企画が進むにつれて過激になっていったような…)。
プロトテアトルも手が込んでいた。客席を取り払い、ホールはオールフラット。観客が座る椅子は四方の壁沿いにずらりと並べられ、役者たちは四方囲みの舞台で演技をする。そこは町に見立てられ、民家や雑貨店、公園、交番が点在し、登場人物がそれらの間を行き交う。
朝。警官が自転車で巡回し、学生が登校し、商店主が店を開け、会社員が出勤する。
夕刻。天井に吊されたスピーカーから町内放送が流れる。子どもたちは下校し、商店は店を閉め、会社員が帰宅する。そして夜が来て、朝が来て…。

人々は現実の私たちと同じように、日ごとに決まった行動を繰り返す。俳優たちのやり取りに説明的なせりふはなく、声量も内容もリアルな日常会話そのもの。私たちが毎日感じているような小さな町の暮らしが、ステージの上で再現されていた。
ただ、まったく同じ行動を繰り返しているわけではない。外村と幼なじみの恋人・明里の仲は一進一退し、同級生は「オヤジ狩り」の企みを深める。町で相次ぐカラスの変死について、警察が捜査の手を広げる…。
物事が一気にではなく、ゆっくりと進む。そのさまは現実世界そのものである。
プロトテアトルのプロフィールには「観客の過去の思い出や経験を呼び起こす」とある。現実を強く意識した作品の構成が、観客の記憶を刺激するのだろうか。

それにしても、外村が事件に巻き込まれる過程は、なかなかに救われない。
発生に至るまで、外村の意思が介在する余地はほぼなかった。強いて言えば父親との関係を改善しようともう少し努力していれば何か違ったのかもしれないが、高校生の外村にそこまで求めるのも酷である。
ある人の悲劇的な運命が、その人の手の届かないところで決まってしまう。観客はその過程を見ることしかできない。 これは、何ともやるせない。

チラシには「光と闇」が交錯する追憶の劇と書かれているが、そんなわけで観劇直後の印象は「闇」一色だった。
実際、演出を考えてもそれが狙いだったと思う。朝でも夜でも変わらぬ薄暗い照明。カラスをイメージさせる黒づくめの男たちが「カアカア」と啼き声を立て、ステージをうろつく。カラスの変死、オヤジ狩りなど複数の不審なエピソード。警官の明るい振る舞いは空元気に感じられて仕方がないし、暗闇が通奏低音のように作品全体を覆っていた。

では、「光」はどこにあったのだろうか。
大学に進学し、恋人と楽しく過ごしたいという外村の将来の夢のことか。
活力が失われ、滅びの兆しをはらむこの町と対照的な隣町のことなのか。
あるいは、悲劇的なラストシーンの後に光り輝く日々が訪れるのか。
それとも世界を覆う闇の下、かすかな光がいくつも瞬いていたのか。

答えは出ない。それでも、もう一度考えてしまう。不思議な力を持つ作品だった。

|プロフィール

溝田幸弘
神戸新聞社
1970年、大阪府堺市生まれ。神戸大大学院文学研究科修了、98年神戸新聞社入社。北播総局、社会部、文化生活部、整理部、北摂総局を経て2015年から文化部。演劇と囲碁将棋を担当する。