|吉村雄太|ハルカのすべて―ある一つの人生を見届ける演劇
ももちの世界『ハルカのすべて』はある一人の人間がどのように生きてどのように死んでいったのかを描写したドキュメンタリー演劇だ。観客である私たちは『ハルカのすべて』の登場人物である緑川遥(りょう)の身体に密着し、遥の見る世界を、そして遥の人生を見届けることになる。
主人公の緑川遥は七十五歳の男性である。彼は老人ホームで暮らしている。しかしある日彼は、その日が娘ハルカの誕生日であることを思い出す。誕生日にはいつも娘が家に帰ってくること思い出した彼は、老人ホームを出て自らの住んでいたマンションへと向かう。しかし、家に帰るとそこで時間が巻き戻り、五十五歳の遥が取材を受けているシーンに移る。そして遥はかつて映画監督として名をあげた人物だったということが明らかになる。遥はすでに映画監督としては一歩退いた立場に居て、娘のハルカはどうやら宇宙飛行士で月に滞在しているようだ。取材を終えると五十五歳の遥は病院へと向かう。そこで、遥はアルツハイマー病であることを告げられる。
本作における視点人物である七十五歳の緑川遥はすでに、五十五歳の時点でアルツハイマー病を患っているのであり記憶にハンディキャップを持った人物として描かれる。そして観客が目の当たりにする舞台上で繰り広げられる光景は、実は七十五歳の遥の記憶の中の世界なのだ。物語は、五十五歳の遥がアルツハイマー病を患い、記憶に障害を抱えた人物であることが明かされた後、次は四十五歳の遥、三十五歳の遥、二十歳の遥、という形で遥が生きてきた時間を遡るよう進んでいく。つまり七十五歳の遥による自身の人生全体の回想、走馬灯に観客は寄り添っていくことになるのが本作の語りの特徴だ。
ただ注意しなければならないのは、舞台上で繰り広げられる光景はあくまでも、老年の遥の脳内で繰り広げられる光景であって、必ずしも全てが遥の人生の中で起こった出来事ではないということだ。だから記憶の中で、本来物理的にそこに存在することができないはずの人物が現れたり、後述するように遥の人生を変えた映画『シェーン』の登場人物である馬が、なぜか遥の人生の転機にしばしば現れたりするということが起こる。本作において興味深い点は、単に緑川遥という登場人物の過去の出来事を辿るのではなく、アルツハイマー病を患った緑川遥が、「いま、ここ」で記憶を辿っていく中で見ている光景が舞台上で提示されるという点だ。
それは音響的な演出においても現れている。本作は全ての効果音を俳優が演じるという独特な演出方法が取られている。例えば、遥が扉を開ける演出があると、「ギイィ」という扉の音を他の俳優が直接口で言う、といった様な次第だ。この演出方法自体はももちの世界の他作品ですでに使われていた演出方法なのだそうだが、本作においては非常に功を奏していると言えるだろう。まず、そこにおいて表現される効果音は七十五歳の遥が生きている現実の世界の音もあれば、遥の回想の世界の中の音もある。ただ舞台上で表現される音としては、現実の世界と回想の世界の音との間にことさらの区別はない。つまり遥が「いま、ここ」で感じている音が表現されているのだ。また、俳優が直接口で効果音を言うことによって、まるで音が擬人化したかのように観客には思われる。例えば回想のシーンで、遥と喋っていた映画スタッフが、次のシーンでは効果音を発しているという演出があると、まるでそのスタッフの「声」が効果音という「音」に変化していったかのように観客には感じられる。本作は過去を回想していく過程で遥の頭の中に現れている現象の移り変わりを描写していく演劇であるが、上記の演出を取ることで、「人の声」が遥の頭の中で風の音や扉の軋む音といった「音」に変化していったといった印象を観客に与える。つまりこのような演出方法をとることで、遥が「いまここ」で認識している現象の聴覚的移り変わりをうまく表現することができているのだ。
演出の話に逸れたが、物語の内容に戻りたい。四十五歳の遥、三十五歳の遥、二十歳の遥、と遥が生きてきた時間を遡るよう進んでいく過程で、次第に遥という人物のバックグラウンドが明かされていく。回想が進むにつれて、映画監督として活躍していた遥は実はトランスジェンダーの男性であり、生まれ持った身体は女性の身体であるが自己認識は男性であるトランス男性であることが明かされる。若い時から性別違和に苦しんでいた遥は同様に性別違和に苦しんでいる人達を救うための映画を作ってきたのだ。また娘のハルカも実は遥と血のつながった娘ではないことが明かされる。ハルカは遥の配偶者であるシングルマザーの武田月子の娘なのだ。 本作の物語の内容においてとりわけ重要なのは、遥自身が撮った映画と遥自身の人生とのリンクだろう。 四十五歳の遥は神崎亮太という若手俳優を起用して映画を撮っていた。この神崎亮太という俳優も実は遥と同様に、女性の身体を持っているが自己認識が男性であるトランス男性なのだ。遥は神崎亮太との会話の中で、自分には憧れの映画スターというものはいなかったと語る。なぜなら「俺たちみたいな存在はいつだって無視されてきた」からだという。だからこそ遥は、自分が若かった頃に神崎亮太のような俳優に出会っていたら自分の人生は変わっていたかもしれないと思う。遥は神崎亮太と共に映画を撮ることで、それまで歴史的に無視され続け、言葉を持つことのできなかったトランスジェンダーの人達の言葉を拾い上げようとするだけでなく、俳優である亮太の少年時代、ひいては若き日の遥自身をも救おうとする。
本作において重要な役割を持つのは「子供」という存在だ。トランスジェンダーである遥は子供を産むことはできない。もちろん身体は女性であるのだから、生物学的には妊娠、出産をすることは可能であるが、自己認識が男性である遥は、心理的に子供を産むことはできない。そうした遥の葛藤は、遥が亮太と共に撮った映画の中において現れてくる。映画の主人公はとある国の兵士で、毎日人を銃殺することを仕事としている。この兵士も男性の格好をしているが、遥や亮太と同じトランス男性だ。ある日、一人の妊婦が兵士の前に現れる。妊婦を見ているうちになぜかその妊婦を撃つことができなくなった兵士は、上官を撃ち殺して、妊婦と共に戦場の中を駆け抜けていく。「妊婦も子供もクソくらえ」だと兵士は思う。なぜなら妊婦も子供も、自分が男ではなく本当は女であるのだ、ということを兵士に思い出させるからだ。それゆえ、兵士は「何度言えばわかるんだ。俺は男だって」と悪態をつく。それは遥自身の心を反映した台詞でもあるだろう。妊婦がお腹を抱えて苦しみだすと兵士は自分が助けたはずの妊婦に銃を向けてしまう。しかし撃つことはできない。赤ん坊が生まれ、母親が政府の人間に連れていかれると、兵士は今度は赤ん坊を撃とうとする。しかし、やはり撃つことはできない。兵士はそのまま自分の頭に銃口を向ける。しかしその時赤ん坊は寝返りを打ち、立ちあがる。そんな赤ん坊を兵士は知らぬ間に抱きしめてしまう。
四十五歳の遥は亮太とともにこのような映画を撮った。兵士は、自分がトランス男性であることを否定してくるようで妊婦も子供も受け入れることができなかった。しかし最後には赤ん坊を抱きしめ受け入れる。そのことによって兵士はトランス男性である自分自身をも受け入れることができたのだろう。これは遥が撮った映画の内容でありながら、同時に若き日の遥自身の経験でもある。物語が進み終盤になると、性別違和を理解されなかった二十歳の遥の日々が明かされる。 二十歳の遥は自らの性別違和をうまく肯定することができず、また自分のことを男だと認めてくれない周囲にも絶望して、毎日死のうとしていた。ただ死ぬ前に映画を見てから死のうと思った遥は映画館へと向かう。そこで上演されていた映画は西部劇の『シェーン』だった。『シェーン』を見ているうちに遥は次第に死にたいという気持ちも忘れて、映画の世界へと没頭していく。『シェーン』を見終わった後、劇場で一人遥が泣いていると、一人の女性がやってくる。女性の名前は武田月子。月子は遥の昔の知り合いで、二人は映画館を出て食事に行くことになる。
話をしているうちに、月子は妊娠して三ヶ月であること、夫が忙しくていつも暇にしていることを告げられる。そして月子に、子供が生まれるまで週末は二人で映画を見よう、と誘われる。死のう死のうと思っていた遥は、月子と週末に映画館に行くたびに、死ぬのはあと一週間先、一週間先、と自殺することを先送りにしていく。そしてある日、月子は「本当のことを言うゲーム」と称して、自身がシングルマザーであることを遥に明かし、自身の出産に立ち会ってほしいと告げる。月子は自身の秘密を明かした代わりに、遥に秘密を言うように促すが、遥は自分がトランスジェンダーであることを月子に告白できない。ただ遥がトランスジェンダーであることを察している月子は、遥を連れて紳士服店へ向かう。そこでのシーンが本作におけるクライマックスであるだろう。
月子は試着室でライダースジャケットとサラシを遥に手渡し、「あなたは誰ですか?」と問う。少し迷った後、遥は「君が決めて」という。月子は「君は遥(りょう)です。緑川遥です」と告げる。その日から遥は、女性としての緑川遥(はるか)ではなく、男性としての緑川遥(りょう)として生きていくことを決意する。やがて月子は女の子を出産し、その子の名前をハルカと名付ける。遥は女性として生きてた自分自身の名前を娘に託したのだ。映画の中の兵士が赤ん坊を受け入れることで自分自身を受け入れたように、遥も娘のハルカを抱きしめ、月子からもらった遥(りょう)という名前とともに娘と生きていくことで自分自身を受け入れたのだ。二十歳の遥の回想を終えた七十五歳の遥は、自らの天寿を全うする。
本作の魅力は、遥という人物の人生を遡りながら一人の人間の人生を描き切るというところに尽きるだろう。
物語の構成的に言えば、走馬灯を見るという体際を取ることで、遥は実は映画監督で、トランス男性で、遥(りょう)という名前は実はパートナーから与えられたもので、という形で少しずつ視点人物である遥という人物の謎が明かされることで、物語全体に推進力が生まれる。またすでに触れている通り、あくまでも舞台上で提示されているものは現実世界の七十五歳の遥の感覚と、過去の遥の感覚が混然一体となって、遥が「いまここ」で認識している現象であるため、厳密な遥の回想ではなく、物理的にあり得ないことでも起こりうる、という点が面白い。それを最もよく表しているのは、遥の人生の転機になった『シェーン』の登場人物の馬が、作中の重要なシーンで幾度も出てくるという点だろう。馬は例えば作中で、五十五歳の遥がアルツハイマー病の診断を受けるときにも現れるし、遥が神崎亮太と共に撮った映画の中でも登場してくる。本来なら病室を馬が歩いているなどということはあり得ないが、舞台上で提示されているものはあくまでも遥が「いまここ」で認識しているイメージであるため、遥の人生で重要だった馬が何度もサンプリングのように現れてきてもおかしくないのだ。走馬灯という体際を取ることで、本来なら交差しないはずの時間軸を交差させて舞台上に提示させている点に本作の魅力はある。
また物語の主題としては、ある一人の人間の生をいかにして肯定できるか、ということに真摯に向き合った点が素晴らしかった。人は自分一人きりでは自らの人生を肯定することは原理的にはできない。人生というものは死によって完結するものであるが、死が訪れた時、その人生の当人はもうこの世にはいないからだ。死によってしか人生は全うされないにも関わらず、死が訪れた時には当人はもうこの世にはいない。だから人は自分自身の人生の価値判断をしたり、自分自身の人生の全体を自己肯定するということは原理的に不可能だ。
人生の中で自分自身の存在を受けれることはできる。例えば、作中で遥が月子から名前をもらい、娘のハルカを受け入れることでトランス男性としての自己を受けれることができたように、自分自身を受け入れ自己と共に人生を歩んでいくことはできる。ただ人生が終った後には、人はやはり自己自身とは関わることはできず、自己自身を理解することはできない。
いや、そもそも私たちは生きている時ですら自己を理解することはできない。本作は、終始緑川遥が「いまここ」で認識をしているものを舞台上で提示した劇だとしてきた。しかしそれは本当だろうか。舞台上で提示されている出来事を見るとき、遥の視点を本当に私たちは見ているだろうか。厳密に言うとそれは間違っているだろう。なぜなら遥の視点に本当に立つのであるならば、舞台上に立つ遥自身を見ることはできないからだ。人間は自分自身の人生を見ることはできない。なぜなら自分自身の内側にいるからだ。自分自身の人生を見ることができるのは、その人の外側にいる人だけだ。つまり、緑川遥という一人の人間の人生を見届けることができるのは観客だけだ。劇中で舞台に現れる役者達でさえ、緑川遥の人生を見届けることはできない。観客という、物語に関わることができず、徹底的に緑川遥の物語の外側にいる存在だけが、その徹底的な不能さ故に、緑川遥の人生の全てを見届けることができる。
だから私はこの劇を見終えた時、遥というある一人の人生が私自身に託された気がした。緑川遥はフィクション上の存在で、現実には存在しない存在だ。にも関わらず、ある一人の人間が生き、死んでいったという手触りが観劇後確かにあった。だからこそ私は、緑川遥という一人の人間に対して「いい人生だったね」と声をかけたくなってしまった。それをできるのは観客である、私達以外にはいないだろうという気にさせられた。そのような気にさせられたのは、本作が徹底して、緑川遥という一人の人間の人生に寄り添うように書かれ、演出されていたからだろう。
本当に素晴らしい作品というものはそれが虚構であるということとは関係なく、ある一人の人間が生き、死んだのだ、という確かな手触りを観客に残すことができる。だからこそそれを見せられた観客は、その人物に対して何か言葉をかけたくなるし、その人物について考えたくなってしまう。ある人物の確かな手触りを残すことが芸術の根源的な欲求の一つであるのだとすれば、その人物について何を言ってしまいたくなること、それが批評の根源的な欲求だろう。ももちの世界『ハルカのすべて』は、緑川遥という一人の人間に対して、「いい人生だったね」と、そう言ってあげたくなってしまうような、ある一つの人生を見届ける演劇だった。
|プロフィール
吉村雄太
批評誌夜航。
所属:京都大学大学院文学研究科日本哲学史専修修士1年