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KAVC FLAG COMPANY 2019-2020 ももちの世界 #5『ハルカのすべて』劇評|溝田幸弘

2020年2月7日(金)9日(日)

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溝田幸弘人間の尊厳とは

凝った演出に練った脚本、いずれも密度が濃い。「贅沢な作品」という言葉が、まず頭に浮かんだ。

照明を絞った暗い、簡素な舞台。中央には椅子代わりの立方体が数個。舞台奥と上手、下手の三方の壁沿いにスタンドマイクが数本ずつ並ぶ。ぞろぞろと現れ、マイクの前に立った役者たちは全員喪服をまとっている。白と黒、色彩を排除したモノトーンの世界。その中央に、主人公・緑川遥(りょう)がゆっくりと立つ。

最初の場面は老人ホーム。その日が一人娘・ハルカの誕生日であることを思い出した遥は、バスに乗って自宅に向かう。
遥が舞台を歩く。と、マイクの前の役者たちが「ブーン」「カチ、カチ、カチ…」と肉声で効果音を発する。それらが重なり合い、ざわめく町の雰囲気を作る。他の役者たちは身体とパントマイムで、さまざまな要素を早替わりで演じる。ホームの職員、通行人、バス、バスの乗客…。それらを脇目に遥の動きを追っていると、「あ、今老人ホームを出た」「バスに乗ったんだな」「エレベーターでマンションを上がっていった」と連想が働く。
テレビ局。デパートの屋上。そして戦場…。刻々と変わるシーンが、役者たちの身体によって即座に繰り広げられる。モノクロームの舞台が、頭の中でカラフルに彩られていく。

遥は世界的な映画作家として知られていた。その彼のドキュメンタリー映画を撮影するという設定で物語は始まり、時をさかのぼっていく。75歳の遥から、55歳、45歳、そして20歳、それぞれの段階で遥の過去が、そして遥とハルカの関係が少しずつ明かされていく。
FTM―生まれ持った身体は女性だが性自認は男性である遥。ハルカをどこで授かり、どのように育ててきたのか。なぜ映画の世界に飛び込んだのか。男性として生きることを決意したきっかけは何だったのか…。それぞれのモーメントで遥は選択をし、自身の人生を前に進めてゆく。
その選択がすべて幸福に結びついた、とは思えない。ラストシーンに至るまでの展開を見て、彼の不遇にため息をついた人もいるだろう。だが、一人の人間の幸福とか不幸は、この作品の主題ではなかったはずだ。頭をよぎったのは「人間の尊厳」についてである。

「生命学」を唱える哲学者の森岡正博は「尊厳ある生とは、幸福も不幸もある人生を、誰の欲望によっても踏みつけにされず、自分の欲望によっても振り回されずに、他人とのかかわりのなかで、自分の人生を自分で悔いなく切り開いていくことである」と記している(注)。遥は若い頃、身体の性と自認する性の不一致に苦しんだ。身を置いた映画業界では周囲の無理解に傷つき、絶望させられた。それでもわずかな理解者を支えに、遥は最後まで信念を貫き通した。
ラストシーンは、彼が人生の最後にたどり着いた終着点を象徴していた。星空を見上げる遥の姿は、美しかった。それは彼が、悔いのない尊厳のある生を全うできたと、彼が確信していたことが伝わってきたから。幸福であったか不幸であったかは、きっと、彼にとって大した問題ではないのだ。恐らくは私たち自身の生においても。

「75歳から20歳までの遥」という難しい役を、のたにかなこはしっかり演じきった。終始違和感を覚えることなく、作品の世界に没頭できた。役者も全員ほぼ出ずっぱり。今回のような演出だと細かなタイミングをかなり作り込んでいたはずで、通常の舞台よりも苦労しただろうが、その甲斐はあったと思う。映画に不案内なため、引用された作品について語る力がないのが申し訳ないけれど、海馬など遊び心のある仕掛けは楽しかった。
 あえて言えば、脚本と演出の組み合わせに関しては工夫の余地があるかもしれない。マイム的な表現は見ていて楽しいのだが、普通の芝居以上に見る側の集中力を必要とする。観客がそちらに力を注がねばならなかった分、深みのある脚本を掘り下げ、味わうだけの気力が多少削がれてしまった気がした。

2018年、「鎖骨に天使が眠っている」を見た時の衝撃は今も記憶に新しい。思えば、描かれる世界こそ異なるけれど、登場人物がみな悔いなく生きようともがいていた点では本作と共通していたのではないか。ピンク地底人3号が意図していたかどうかは分からないが、そのあたりにも、彼の作品の魅力が隠されているように思った。
ももちの世界は夏に大阪で新作を上演し、その後東京・大阪で「鎖骨―」を再演するという。次はどのような世界を見せてくれるだろうか。

注:http://www.lifestudies.org/jp/songen01.pdf

|プロフィール

溝田幸弘
神戸新聞社
1970年、大阪府堺市生まれ。神戸大大学院文学研究科修了、98年神戸新聞社入社。北播総局、社会部、文化生活部、整理部、北摂総局を経て2015年から文化部。演劇と囲碁将棋を担当する。