|筒井潤|匿名劇壇『大暴力』
2019年は小劇場演劇が終わった年として記憶されるだろう。関西では京都ロマンポップ解散公演・丙『FAINAL FUNTASY 僕と犬と厭離穢土』(2019年元旦)が痛快な愚かさと二度と立ち直れないあまりにも深い悲しみをもってそれを宣言した。他にも終わりの象徴といえる出来事がたくさん起こっている。それについてはまた書くかもしれない。そして「“関西小劇場”というジャンルがある」と、このKAVC FLAG COMPANY プログラム・ディレクター、ウォーリー木下氏の「ごあいさつ」にはある。この企画で批評を書くというのはなかなか面白い。
と書き進めていたら、最近このような記事が出て一瞬立ち止まった。
『ファンカルチャーは批評のあり方をどう変えたか?』
https://i-d.vice.com/jp/article/9kxbx8/how-stan-culture-has-changed-the-critics-role?utm_campaign=sharebutton 私は批評を生業としているわけではないと開き直ることにする。
匿名劇壇『大暴力』だ。
大半の時間は様々な暴力が生じている、あるいは生じたときの状況、「暴力あるある」が次々に演じられる。殴打を伴うものもあれば、心理的な暴力もある。観客は、テンポの良い場面転換によって暴力を眺め続けさせられる。暴力の背景がほとんど描かれておらず、登場人物への感情移入をしそうになったら次の場面に移る。観る者の心には、この演出によって極めて純化された、殺伐とした気持ちだけが蓄積されていく。工夫を排した日常の言語感覚と演技の器用さはこの演出においてうまく機能していた。
後半で(という厳密な線引きはできないのだが)、男女二人の間に起こる「暴力あるある」の場面がある。そこに第三者が現れる。暴力を振るった男性が謝り、その場がおさまろうとしているときに、第三者の俳優が「物語にするな」と繰り返し訴える。謝って簡単に解決させてしまって平和に幕を閉じる物語にするわけにはいかない状況であることと、実際にこの暴力シーンを繰り返し練習をしている劇団の稽古場というメタ構造をつなげる重要なやりとりである。
具体的な暴力シーンの演技に関して、俳優間の認識のズレがあり、それが原因となって小競り合いが生じる。俳優たちの乱暴な言動と暴力的感情の交錯。「仲良く」という一人の(登場人物としての)俳優による薄っぺらな言葉と、登場人物たちの暴力の終わらなさからくる疲労の表情を残して最後の暗転をする。
さて、このメタ構造だが、かなり複雑である。
演出家が、自身の演出作品に俳優として舞台に立つ場合、他の俳優と質が異なってしまうのはほぼほぼ仕方がない。他の俳優の演技には、日々の稽古、劇団員となれば過去の公演時も含めたもっと長い時間を経て、演出家の眼差しの蓄積による緊張が宿っている。それは今作における上演シーンにも稽古場シーンにも貫かれており、観る側にとってそれは安心材料となる。自分の身に決して降りかかって来ないフィクションの演劇であることを確信するための重要な要素だからだ。一方、演出家の自作における演技には、完璧な演出プランは他の誰にでもなく自分の頭の中にあるという自負と、そもそも人間は自分の全身を見られないという事実により、自由奔放でノイジーな絶対正解者になりがちである。私もときどき演出を担当しながら自作の舞台に立つが、もっとも慎重になるのはこの点である。できることなら私は出たくないと考えている。どうしても 出なければならない場合には、端役か、私(=演出家)が出る必然性を仕掛けとして用意する。
『大暴力』で福谷圭祐は後者を選択している。演技においてまったく遠慮をしていない。メタ構造をより複雑にし鑑賞者を惑わすための、凶暴で気持ち良さそうな絶対正解の座長芝居を意図的に演じる。この演出家と他の俳優との演技のアンバランスさによってどのシーンであろうとも、上演中一貫して事実としての劇団のヒエラルキーが露わになっている。この仕掛けによってフィクションとノンフィクションの境界が本質的な領域で曖昧になり、途方もない奥行きを生み出している。
観客に向けて直接問いを投げかけてくる場面があった。一人の登場人物がわざとだらしなく歌いながら、(観客席からは小さく見えたが、実際に手に取ったらなかなかの大きさと工夫があったであろう)レゴブロック(?)によるなにか建物らしき創作物を心なくダラダラと破壊していくというパフォーマンスがあったあと、ひとりの女性俳優が出てきて告白する。彼女は本番前に裏でその創作物を頑張って作った、と。そして観客に向かって、無残に壊されていくそれを見ているときに作った人間の苦労を想像してくれましたかと訴える。破壊されていくブロックを笑いながら眺める観客のその視線に暴力は潜んでいなかったか、という問いである。
創り手側が面白いと思っているパフォーマンスのためならば裏の苦労は厭わないはずだし、その労働によって俳優としての準備時間に余裕がない等の物理的な厳しさがあるのだとしたら、それは劇団内で解決すべき問題で、裏の労働を想像し得ていたかどうかを観客に問われても困る。創り手側が、その準備に苦痛を感じるほどに面白いとは思えていないパフォーマンスを観客が見せさせられているという「暴力あるある」だとしたら合点がいくけれども。…しかし、観客はどこまで善良でなければならないのだろうか。
本編とは関係ないのだが、終演のアナウンスで、「パンフレットにアンケートを挟み込まさせていただきました」という舌を噛みそうな言い回しが耳に残った。特に最近は「~させていただく」の多用が目立つ。先日テレビを見ていたら「今度、ライヴをやらさせていただきます! 観に来ていただけたらとても嬉しいです!」とアイドルっぽい男性が言っていた。私は「ライヴやります! ぜひ観に来てください!」と言って欲しいタイプなのだが、果たしてこれはいったい何なのだろうか。私は日本語刑事ではないので、使い方の正誤は問わない。私も日本語を正しく使えている自信はない。それよりも、世間で多用されているのが気になるのだ。
過剰な「~させていただく」は、三波春夫の「お客様は神様です」( http://minamiharuo.jp/profile/index2.html)精神と、日本型のパシ・アグ( https://twitter.com/iamozawakenji/status/1128827301573980160)による緊張関係を生じさせる。やがてそれに耐えられる者たちがお互いを賞賛に励まし合うこと自体に尊さ(≒神)のようなものが宿り、それを誰にも傷つけられたくないという感情によってファンカルチャーが出来上がる。そこで交わされる「~させていただく」の敬いは、声を交わすお互いにではなく、優しい表情で全体を支配する尊さに向けられる。
『大暴力』は、演劇は自己言及性のあるメディアで、観る側のモードによって容易にフィクションにもノンフィクションにも、そしてただ目の前にある現実の行為にもなるという前提との込み入った戯れを目指す野心的な作品だった。しかし、フィクションの演劇の中にノンフィクションを探し出して緊張していただけたり、演劇関係者にとっては日々問われている重要な問題だが、世間一般的にはさほど興味を持たれていない稽古場における「暴力あるある」の断片に、身近な出来事との共通点を見出していただけたり、という善意ある鑑賞への期待を捨てきれていなかった。…確かに難しいと思う。それを捨てるときには、ファンカルチャーにある得体の知れない尊さに傷をつけなければならないからだ。関西小劇場というジャンルのファンによる経済とつぶやきでしか創り手としての自尊心を保てないのだとすれば、その暴力を振るえないのは仕方がない。匿名劇壇は頑張っていたと思う。関西小劇場に限界があるのだ。
|プロフィール
筒井潤
演出家、劇作家。
大阪を拠点とする公演芸術集団dracomのリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとしてTPAM2009、フェスティバル/トーキョー10、サウンド・ライブ・トーキョー2014、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(2017年、デュッセルドルフ)等に参加。個人としても桃園会やDANCE BOX主催『滲むライフ』で演出等、様々な活動を行っている。