|佐々木敦 KAVC FLAG COMPANY 2019-2020 匿名劇壇『大暴力』レビュー
不勉強で恐縮だが初見の劇団だった(今回の企画の参加劇団はコトリ会議しか観たことがない)。なので過去の公演と比べてどうなのかとかは述べることが出来ない。私は普段から観劇の前に極力情報を自分の頭に入れないようにしていて、今回も劇団名とタイトルしか知らずに上演を観た。とても面白かった。どう面白かったのかを書く。
対面座席の真ん中がこじんまりとした円形の舞台になっていて、両端のスクリーンに字幕が映し出される。あたりにはさまざまな衣装が散乱している。始まってしばらくしてわかったが、これは「暴力」をテーマにしたごく短いエピソードがテンポ良く連なっていく連作超短編劇スタイルの作品なのだった。字幕には各エピソードのタイトルが出る。時々通し番号も出た。その記憶でいうと、おそらく全部で30個くらいあったのではないかと思う。上演時間は75分ほどだったから、ひとつのパートがかなり短いことがわかるだろう。もっとも長さはバラバラで、ほとんど一瞬で終わるものもあれば、けっこう長く続く場合もあった。
各エピソードはいちおう独立しているのだが、それらは基本全部「暴力」を何らかの形で扱っている。むろん暴力にも色々あるのであって、フィジカルな暴力も精神的な暴力もあるし、カラダとココロにも色々ある。暴行、喧嘩、DV、ハラスメント、SM、等々、簡単には言葉で名指せないような暴力だってある。八人の俳優たちが、めまぐるしく衣装を着替えながら、次々と寸劇を演じていく。暴力というと(たとえがやや古くて恐縮だが)昔のポツドールみたいなのを想像してしまうかもしれないが、あそこまでハッキリ殺伐とはしていない(ものが多い)。その多くは、暴力ネタとはいえ、思わず笑ってしまうような仕上がりになっている。もちろん、その笑いもエピソードによって振幅や温度差があるのだが。
だが、これも観ていくとやがてわかるのだが、この作品は単なる「連作超短編劇」とは違う。その外枠として、そのような公演の稽古をしている劇団、というメタな設定が被さっているのである。途中、役者たちの自己紹介パートも挟み込まれる(それらもそこはかとなく「暴力」に引っ掛けられているように見える)。稽古の様子や素の役者たちのやりとりも挿入されてくるのだが、次第にそちらにウェイトが移っていく。そしていつしか、この舞台は、種々の「暴力」をテーマにしたオムニバスという仮面を脱ぎ去って、「演劇で暴力を描くこと」「暴力を演じること」という真のテーマを露わにするのである。
すごく単純化するならば、舞台上で演じられる暴力は、どこまでリアルであるべきなのか、リアルであっていいのか、どこまではOKで、どこからがアウトなのか、稽古と本番はどう違うのか、そもそも舞台上の、演劇のリアルとはいったい何なのか。先ほどポツドールの名前を挙げたが、たとえば三浦大輔のそれは、少なくともある時期までは、殴る芝居はほんとうに本気で殴る、ということに近い方向性だったのだと思うし、そのことにインパクトと問題提起と説得力があり、そしてそのことが評価されもした。しかしそれでも、演劇であるかぎり、フィクションであるかぎり、それは「殴る」ではなく「殴ってみせる」なのだった。この「~してみせる」が演技=虚構の本質であるはずだが、現実世界での「殴る」と舞台上の「殴ってみせる」を限りなく漸近させていくことによって醸成し得る(と信じられた)リアルが、やはりあったのであり、その時その場の「殴ってみせる」に直接的に関与した者全員が納得づくであるかぎり(この「納得」ということがまた問題を孕んでいるのも事実だが)、それは要するに「あり」だったのである。
だがしかし、これは今やはっきりと、あらためて批判の俎上にあげられる問題である。『大暴力』は、人間どもが人間どもであるがゆえに生じてしまうたくさんの「暴力」を描きつつ、それと同時に「演劇」が「暴力を演じてみせること」をも問題にしている。そして、この問題は、どうしてももやもやする。いや、ある意味で正解は(最初から)はっきりしているのだが、それで話が終われるのなら、最初からこんなテーマを掲げたりはしないだろう。なのでこの舞台は、エンディングに至って、奇妙な居心地の悪さを醸し出す。演出家と俳優の権力構造や、俳優同士の関係や、男女の超え難い差異や、同性間の齟齬、などなどがひどく曖昧で中途半端な姿で晒け出され、いやな感じ、が急激に高まってきたところで、この舞台は終わる。
もちろん、それらも含めた全部が(おそらく)最初から台本に書かれているのであり、この「いやな感じ」はフィクションなのである。事前情報を知らずに観た私はあとでわかったことだが、自己紹介で名乗られ、役者が互いに呼び合っている名前も架空の役名に過ぎない。本物の名前でやることも出来たはずだが、作演出の福谷圭祐はそうはしなかった。それはあまりにもあからさま過ぎて品がないと思ったのかもしれない。それはわからないが、いずれにせよ舞台上で起こることの全ては起こるべくして起こるのが普通なのだから、この作品だって例外ではない。カーテンコールの後に残る居心地の悪い宙吊り感も、むろん最初から計算されているのだ。とにかく俳優たちが極めて達者かつ魅力的なので、最後の「いやな感じ」まで完璧に演じて「みせて」くれる。
実に巧みで、かつ考え深い作品だと思う。タイトルは「大暴力」だが、真に標的にされているのは、むしろ小さな暴力、微かな暴力である。それは暴れもしなければ力も誇示しないので、もはや「暴力」とは呼ばれないのかもしれない。誰かに対してふと感じる、大抵はそのまま忘れてしまうような、僅かな違和感のようなもの。だが、あらゆる暴力は、大暴力は、そんな小暴力から始まるのだ。台詞を言い終わったあとの、ほんの一瞬の間であるとか、俳優と俳優がやりあってみせるときに、ふと浮かぶ無表情、などといった、もちろん演技なのだろうがひょっとしたら演技ではないのかもしれない(と思わせる)細部が、この舞台をこのうえなくリアルにしていた。それは舞台上に浮かび上がる現実のリアルではなく、舞台上から現実を突き通す虚構のリアルである。
|プロフィール
佐々木敦
批評家。HEADZ主宰。
芸術文化の諸分野を貫通する批評活動を行っている。著書多数。最新刊は『アートートロジー』(フィルムアート社)