• 劇評
  • 演劇・ダンス

KAVC FLAG COMPANY 2019-2020 壱劇屋『空間スペース3D』劇評|吉村雄大

2019年12月6日(金)8日(日)

  • Archives

吉村雄大『空間スペース3D―言葉と身体で空間を伸縮させる演劇』

 壱劇屋『空間スペース3D』はその名の通り、3Dで行われる演劇公演だった。いや、演劇なのだから2Dの映画や写真の世界とは違って3Dであることは当然なのだが、通常の演劇とは違って演劇が本質的に3Dの芸術形態であるという自明の事実を自明とせず、演劇における空間性について深いレベルで切り込んだ作品であった。といっても、作品内容自体は全編通してその大半がラップとダンス、ギャグで満たされたコメディカルでエンターテイメント性の高い作品だ。
 まずYouTuberのスパンク井戸田が、心霊現象が起きると言われる工事現場に潜入して動画のライブ配信をするというところから物語は始まる(ちなみに本作はYouTubeでリアルタイム配信されており、YouTubeの視聴者は、登場人物のスパンク井戸田が撮っている映像を見る、という体裁になっている)。同じ工事現場でアスキー建設という建設会社の柏原達が工事現場の土地測量をしている。しかし土地測量をしている途中で柏原達はある異変に気がつく。ある点からある点の間を測量したとき、明らかにおかしな数値が出てくるのだ。ある点からある点の高さを図ると、333mという数字が出てきたり(これは東京タワーの高さだ)、別の場所の高さを図ると634mという数字がでてきたり(これは東京スカイツリー)、何の変哲もない工事現場ではありえない数値が部下から次々に報告される。最初のうち部下の冗談だと思っていた柏原だったが、実際に自分でも測量をしてみて部下たちが嘘をついていないのだということがわかる。つまりその工事現場はなぜか空間が歪んでいるのだ。柏原たちは次第に空間の歪みの謎に迫っていくことなる。
 その一方でガセ谷を名乗る人物達がその町の土地を買い占め始めたり、連続殺人事件が次々に起こったりする。連続殺人事件は通常の物理法則ではありえないような仕方で行われており、事件を追っている刑事の安部はどうやら空間の歪みを使って殺人事件が行われているようであるということに気がつく。また妻が二次元の世界に取り込まれてしまった人まで出てきて、至る所で空間の歪みによって苦しむ人たちが現れ始める。
 他にもネットアイドルをしているひきこもりの学生や、アンドロイドと対局している棋士の竜王、そのアンドロイドと仲良くなるゾンビの男の子、温泉愛好会の会長など、個性あふれる登場人物達が現れて話はどんどんあらぬ方向へと向かっていくことになる。
 そんな物語の中で、観客である私たちも決して物語と無関係な存在ではないものとして扱われることとなる。そもそも本公演において、舞台と客席という区分は実質的にはほとんど存在しない。公演が行われるホールは基本的に椅子が置かれず、フラットな空間の中で、オールスタンディングで移動しながら公演を見ることになる(疲れた人のためにホールの端に少しだけ椅子が置かれている)。ホールの四隅と中央には舞台といえる高台が設置されており、物語上重要なシーンではそこでアクティングが行われるものの、基本的にキャスト達もその高台から降りて観客たちに交じってダンスを踊り、ラップを歌う。そしてキャスト達は観客たちを観客としては扱わずに、その舞台に登場する登場人物の一人として扱う。
例えば工事現場で空間を測量するときには、観客はキャストから巻き尺を渡されて測量員の一人として測量をすることになるし、土地の買い占めが行われるときは、声をかけられて土地の立ち退き交渉をキャストから持ち掛けられ、立っている場所から離れるように指示される。
つまり観客は「お客さん」ではなく、その舞台の物語に登場する市民の一人として扱われるのだ。本作においては「劇場という空間を共有する人々」みなが物語に参画することになる。
 更にその「空間」自体も前述のようにいわゆる物理法則に則った座標軸で表すことのできるニュートン力学的な空間ではなく、「伸縮可能な空間」として扱われる。たとえ巻き尺で物理的には1mという長さを示していたとしても、役者と観客との共同作業によって、より具体的には役者の発話であったり、まるでその空間が途方もなく広大な空間である「かのように」役者がジェスチャーをすることによって、物理的な距離を無視して空間を伸縮する。
「空間」という点に関して本作でとりわけ大きな役割を果たすキャラクターは点Pというキャラクターだ。点Pというキャラクターはその名の通り「点」であり、「点Pがグラフ上を動いた時の軌跡を求めよ」といったようにしばしば数学の問題で登場する「グラフ上の点」だ。点Pは数学の問題で受験生を困らせることから、女子高生に恨まれ常に女子高生から逃げ回っているコミカルなキャラクターとして作中で描かれる。しかしある事件を通して、点Pは作中で殺害されてしまい、一次元を支えている「点」を失ったことによって登場人物達は作中で一次元以下の世界に飛ばされてしまう。そして登場人物が一次元以下の飛ばされるということは、その空間を共有している観客たちも一次元以下の世界に飛ばされることになるということである。その瞬間劇場全体が一次元以下の世界である「かのように」登場人物も観客も振舞うことになる。そして一次元以下の世界になってしまった劇場を元に戻すため、本作のクライマックスである「空間統一祭」なるものが始まる。本作において、次元が低くなってしまった空間は粒子を満たしていくことで空間が満たされ、空間が統一し、元の三次元空間に戻れるとされる。そこで観客は手に持ったごみ袋(ごみ袋は当日パンフレットと一緒に手渡されており、空間統一祭が始まるとそれをその場で膨らませるよう指示される)を粒子に見立て、登場人物達と一緒に劇場の中心に向かって投げ、円になって劇場を練り歩く祭りに参加することになる。観客と登場人物を含めその劇場に居る百人弱の人間が一斉にごみ袋を投げ空間がごみ袋で埋め尽くされると、無事に空間が統一され、劇場は三次元つまり3Dの世界に戻り、物語はハッピーエンドを迎える。
 以上のように本作において「空間」は伸び縮みするだけでなく、その「次元」すらも変化可能なものとして扱われている。本作の特徴を改めてまとめると、観客を含めた「劇場という空間を共有する人々」全員が物語の世界の登場人物として扱われる点、「空間」が伸縮可能かつ次元すらも可変的なものであると扱う点の二点が挙げられる。
本作においてとりわけ顕著にみられるこの二点は、演劇という芸術形態の特徴を非常にうまく捉えたものではないだろうか。演劇という芸術はそもそも見立ての芸術だ。演劇は本質的に言語表現と身体表現によって空間を区切っていく芸術である。たとえ精巧な舞台セットを作って、たとえばそこが「工事現場」にみえるような舞台を作ったとしても、基本的にはその空間は神戸市の新開地にある神戸アートビレッジセンターの中の一劇場であることには変わりはない。しかしながら、役者たちがそこを「工事現場」である「かのように」発話し、身体を動かすことで、劇場という空間が「工事現場」である「かのように」思われてくる。また同一の劇場空間の中でも舞台上手ではある役者が「工事現場」いる「かのように」振舞うが、舞台下手ではある役者が連続殺人犯を街中で追っている「かのように」振舞うことでその役者の周囲の空間は「街中」になる。その時、劇場という一つの空間の中に「工事現場」と「街中」という二つの空間が共存することになる。
つまり演劇という芸術形態の特徴は、言語表現と身体表現によってその空間が何か別の空間である「かのように」振舞い、空間を切り分けて、役者と観客との間で実際の物理的な空間とは異なるイマジナリーな空間を共有していく点にあると言えるだろう。それは映画のような2Dの芸術とは本質的に異なる。映画の世界は、その画面の中がどれだけ立体的で奥行きがあるように見えようとも、基本的にはスクリーンに映った光の範囲という形ですでに切り取られた空間を観客は楽しむ。しかしながら演劇においては、観客自身がスクリーンを設定する。役者の言語表現と身体表現によって、「ああ、あの役者の周囲は工事現場なのだろう」であったり、「ああ、あの役者の周囲は街中なのだろう」といった形で空間を切り取って、イマジナリーな空間を自らの中に作り出す。それは演劇があらかじめスクリーンとして画面が切り取られている2Dの芸術ではなく、3Dの芸術だからこそ可能なことだ。
しかし一方で観客が役者を見て自ら舞台上の空間を切り取るため、役者の中のイマジナリーな空間と観客が役者を見て切り取ったイマジナリーな空間が異なるということがありえる。つまり役者としては「ここまでは工事現場という空間だ」と思って振舞っていても、観客の側が役者の考える「工事現場」とは違った範囲を「工事現場」だと捉えることは十分にある。だから上手い役者とは、自らが作り出すイマジナリーな空間を、観客にうまく共有させることのできる役者だということができるだろう。
本作においては、役者自身が作り出すイマジナリーな空間と観客の中に生まれるイマジナリーな空間とがかなり強固に一致していたように思われる。それは役者の演技水準が高いということもあるが、すでに述べていたように、観客が「工事現場」の測量を手伝わされるという形で「工事現場」というイマジナリーな空間に主体的に参与させられたり、「空間統一祭」という形で観客全員で一つの空間を作り上げるという行為が作中に組み込まれていたからだ。観客自体を作中に登場する人物として扱うことで、役者と観客の間のイマジナリーな空間を強く共有させることができたという点が、本作における最も成功した点の一つであるということができるだろう。
『空間スペース3D』という作品は、ラップあり、ダンスあり、YouTubeでのリアルタイム配信あり、と非常にバラエティーに富んだ新しい試みを行っている作品ではあるが、そのテーマとして演劇という芸術が持っている「空間」という性質を深く掘り下げながらポップな形で提示することに成功した王道的な作品であると評することができだろう。なにより筆者自身は、「空間統一祭」で他の観客と一緒に輪になってごみ袋を投げる行為がとても楽しかった。劇場という形で、人間と人間が空間を共有しながら共にイメージを作っていくという、演劇がもつ素朴な喜びに触れることができる作品であったように思う。

|プロフィール

吉村雄大(批評誌『夜航』/京都大学大学院文学研究科日本哲学史専修修士1年)
批評誌「夜航」編集員として年に1〜2回思想と神戸・関西の文化にフォーカスした批評誌を刊行。「夜航」第4号では「関西から考える演劇」というテーマで特集を組み、関西で活躍する演劇人と座談会を開き、劇作家の平田オリザ氏にインタビューを行い、2018年にKAVCで行われたダンスのショーケース「ダンスの天地vol.01」では批評文を寄稿するなど、広く文化と舞台芸術に関する批評を行なっている。