|ウォーリー木下|コトリ会議「セミの空の空」評
暗闇の中で、生きているのか死んでいるのかわからない人たちが、それこそゾンビのように彷徨っている。
ことり会議の作品は僕が見た限りだと、だいたい彷徨っている人たちが出てくる。
道に迷ったり、なにかを探していたり、誰かを見失ったり、もしくは目的もなくどこかへ向かう。
今回はその要素に加えて、死、というものがより濃厚に前面に出てきてことで、センチメンタルやノスタルジーを超えて、ぐらぐらと地面が揺れるような感覚に陥った。
それを怖い、と思う。その怖さは、上質なホラー映画やSF映画を体験したときのようでもあるし、若しくは、恐ろしいまでにキラキラした音楽を全身で浴びたりしたときに陥るようなトリップ、それは集団の中で生きる怖さ、自分という存在の不安定さに気づいてしまう怖さ、に似ている。
演劇においておよそ観客は他人である。観客と書くくらいだから、観る、客体化された存在だ。
観客は基本、安全圏内にいる。そのことに異議申し立てをする演劇も今まで多く創られてきた。
今も尚作られていることだろう。
コトリ会議を観ていると、観客はそのままそこ(客席)にいれるわけでもなさそうだ。
いつのまにか、一緒に、彷徨っている。とても静かに、観客は場所を移動していて、自分の知らない世界に足を踏み込んでいる。
そのことに怖さを感じならも。
僕はその旅の最中、ある人の死についてずっと考えていた。
目の前で起こっていることとは別に、とても個人的な他者の死について思いを巡らせていた。
僕にとって、そういう演劇はとても貴重で、ありがたい。
だからなのか、いまなお、自分が見たものがなんだったのか、思い出そうとしてもうまく思い出せず、それなのに確かな感触は残っていて、そのざらっとした肌触りは、とても個人的な記憶を揺らす。
|プロフィール
ウォーリー木下
演出家。劇団sunday代表。
戯曲家・演出家として、外部公演も数多く手がけ、特に役者の身体性を重視した演出に定評がある。他にもノンバーバルパフォーマンス集団THE ORIGINAL TEMPO のプロデュース・演出や、様々な演劇祭でのフェスティバルディレクターを務める。2018年4月に神戸アートビレッジセンターの舞台芸術プログラムディレクターに就任。