• 劇評
  • 演劇・ダンス

KAVC FLAG COMPANY 2019-2020 コトリ会議 演劇ツアー公演3回め『セミの空の空』劇評|吉村雄太

2019年11月15日(金)18日(月)

  • Archives

吉村雄太「有限と無限の狭間で他者に設定するということ:コトリ会議批評」

コトリ会議『セミの空の空』の舞台は近未来、人間が人工の月を建築し二つの月がある世界だ。人間が作った二つ目の月は夜を無くし、疲れを失わせ、永遠に隣にいる誰かの顔を凝視することを可能にした。そして二つ目の月によって人間は、隣人の毛細血管やその奥のDNAらせん構造、そしてその顔を突き抜けて死んだはず人間の幽霊を見ることができるようになった。そう、この世界において人間は死者を目視することができるのだ。

本作は主に三つのパートから成り立っている。一つ目は、死んだ雪子の幽霊が武とともに自分の葬式をするパート、二つ目は雪子の夫である多喜男が淳とともに線路上で雪子の死体を探すパート、三つ目は雪子の母と父がセミに支配されてしまいそれを雪子の妹の万智が目撃するパートだ。この三つのパートと雪子の過去の話が複雑に混ざり合いながら物語が進行していく。 本作において、なぜ雪子が死んだのか、またなぜこの世界で人間は二つ目の月を作ったのか、なぜ人間がセミに支配されるのかといった物語の根幹に関わってくる謎が明かされることが無いため、一見すると舞台上で何が繰り広げられているのかが理解できないような、不思議な感覚を覚える作品となっている。しかしながら本作は謎を謎として残しながらも、雪子という登場人物が三つのパートいずれにも直接的にであれ間接的にであれ登場することで、一つの物語として成立している。まずはそれぞれのパートを簡単に見ていきたい。

一つ目のパートでは雪子がある日突然電車に身を投げて自殺をする。雪子は自分の葬式を、愛する夫の小泉多喜男にではなく、どうでもいい人間にしてほしいと考える。そこで雪子の投身自殺をたまたま見ていた佐々木武に声をかけ、幽霊となった雪子は武に葬式をして欲しいと頼む。そこで武は山奥まで雪子の頭部を運んで、その頭部を山に埋めるというのが主な筋書きである。武は生きた人間であるが、幽霊の雪子と関わっているうちに次第に雪子に思いを寄せるようになっていく。

二つ目のパートでは雪子の夫であるが雪子の死体を探して線路上を歩いている。雪子は多喜男に「私いなくなると思う」とだけ残し実際に姿を消してしまう。雪子の免許証が線路上で見つかったと警察から聞かされた多喜男は、線路上で雪子の手がかりが見つからないか探していると、線路上を歩いていた一人の男に出会う。男の名前は淳といい、淳は電車に飛び込んで自殺した幽霊だと多喜男に告げる。淳は人懐っこい幽霊で、多喜男が雪子の手がかりを探すことを手伝ってくれるようになる。

三つ目のパートでは、雪子の妹の三田万智が家に帰るとこから始まる。万智が家に帰ると万智の母と父(つまり雪子の母と父でもある)から話があると告げられる。その話とは母と父はセミになったのだ、という話だった。万智は初めのうち冗談だと思っていたが、二人の頭部にセミがついているのを発見し、そのセミを取ろうとすると母が気絶してしまったことから、親が本当にセミになってしまったのだと確信する。ただ実際のところセミになってしまったのは母だけで、父はセミに体を乗っ取られた母を騙すためにセミのふりをしていただけだということが判明する。そして母がセミになったのは雪子の幼少期に原因があるのだということを父から告げられる。雪子は幼少期にセミを二百匹捕まえてその一匹一匹に名前をつけて葬式をしていた。母がセミに体を乗っ取られてしまったのはその呪いなのだと父は言う。にわかには信じられない万智だが、母の姿を見て信じるより他はない万智は、雪子の夫の多喜男に連絡して、母がおかしくなってしまったことを告げる。そして逆に多喜男から、雪子が死んだこと、雪子の死を探るために線路上を探索していること聞かされる。そこで万智も多喜男の下へと向かうことになる。

以上が三つのパートの簡単なあらすじであるが、万智と多喜男が合流してからバラバラだった三つのパートが次第にお互い関係しあいながら進行していくことなる。以上のあらすじを見ても分かる通り、本作で描かれる世界は幽霊やセミ人間といった通常の世界ではありえないような存在がまかり取っている、不条理な世界だ。

そもそも、本作のテーマは、そこで観客に投げかけられているものとは一体何であろうか。一つ挙げることができるとすれば、それは「なぜそこに存在しているのかという問いだろう。本作は生と死という次元を超越して、存在そのものの意義を問い直す作品である。
二つ目の月によって死者が見えるようになった本作の世界において、もはや生者と死者の間の区別は限りなく無に等しい。本作にはそれを象徴するように、道路に転がっているセミを見た万智が「死んでるの」と雪子に訊ねると「生きているのか死んでいるの分かんないよね」と雪子が答えるシーンがある。

本作に登場する人物は雪子の言葉を借りれば「生きているのか死んでいるのか分かんない」登場人物が多い。まず幽霊になった雪子は死んでいる。にもかかわらず、物語の中心人物として他の登場人物と積極的にかかわっていく。死者ではあるが、まるで生者であるかのように意思を持って作中でアクションを起こし続ける存在だ。線路上でさまよっている幽霊の淳も、死んでいるにも関わらず人懐っこく多喜男に関わっていく。また父と万智、武も物語の終盤で死んでしまう。セミ人間になってしまった母に至っては、セミに体を乗っ取られたため、死んだといってよいのか、あるいは体を乗っ取られただけだからまだ生きているといってよいのかわからない存在だ。最後まで純粋な意味で生者としての人間であり続けるのは雪子の夫の多喜男しかいない。

我々が生きる日常生活において死というものは一般的に悲惨なものとして扱われるが、本作においてはそうした死の悲惨さが非常に薄いものとして扱われる。というのも、登場人物は死んでも依然として他者とのコミュニケーションを図ることができるからだ。死に由来する悲惨さはコミュニケーションの不可逆性に由来するところが大きい。死んでしまったあの人にもう会うことができない、言葉を交わすことができない。そうした喪失感ともう二度と触れることのできないかつてあったものへの思慕が死の悲惨さを生み出す。しかしながら、本作において死は肉体の消滅を意味する程度であり、たとえ死んでも二つ目の月によって死者を見ることができる登場人物にとって、必ずしも死そのものは悲惨なものではない。むしろ生死を超越して永遠の時間を存在しなければならない状況において「なぜそこに存在しているのか」という問いこそが登場人物の人生にとって重要になってくる。

本作において「宇宙の迷子」という印象的な言葉出てくる。本作では死んだ命は依然としてこの世界に存在し続けるが、宇宙に溶けて宇宙の中をふわふわと漂う存在になってしまう。だから死んだ命は誰かの重力に向かって「設定 しなければならないのだ。誰かの重力に「設定する」ことで初めて、死んだ命は自分の存在をそこに繋ぎ止めておくことができる。作中では雪子の葬儀をした武が物語の終盤で死んでしまう。そこで宇宙の迷子にならないために武に「設定する」ように雪子マークツー(本物の雪子ではなく、雪子の武に対する懺悔の心から生まれた存在だとされている)が促すというシーンがある。雪子の葬儀を通して雪子に心惹かれてしまった武は雪子に「設定」しようとするのだが、雪子に「設定」を拒否されてしまう。悲しみにくれる武は、雪子の代わりに自分の大事なもの思い浮かべるように雪子マークツーに促され、「プレステ4」を思い浮かべてしまう。「プレステ4」の他に大切なもの、大切な人を思い浮かべることができない武は、雪子マークツーに「寂しい人生だったわね」と言われてしまうという笑いを誘うユーモラスなシーンなのであるが、これは物語の核心をついたシーンだ。

二つ目の月によって生死に関係なくそこに存在してしまうことのできる登場人物たちは、自分たちが「なぜそこに存在しているか」ということがわからなくなる。通常人間の生は死という明確な終わりがある。終わりがあるからこそ、人は目標を立てそれを実行しようと奮闘し、有限の時間の中で有限の人たちと関わり合い、生きていく。しかしたとえ肉体を失うにしても、死後も存在が続く本作の世界において時間は有限ではなく無限だ。登場人物は生と死という二つの形で無限の時間を生き続けなければならない。無限という時間の前ではほぼ全ての行いが無意味だ。「プレステ4」をして無限の時間を過ごすことできる人はいないだろう。

自我を持つ人間という生き物は本質的に他者がいなければ自らの存在を定立するができない。人間の自我というものは拡散・分散していくものである。そして自我が他者という障害物にぶつかることでその反射として初めて自己の領域が確定し、境界線が引かれ自他という区別が生まれる。他者が存在しなければ、ここまでの領域が自分で、ここから先が自分ではない、という自己領域を確定することはできない。つまりもし他者がいなければ自我は拡散・分散していくのみで「宇宙に溶け」て「宇宙の迷子」になってしまう。だから人は「他者」に「設定」することで初めて自分の存在を定立することができるのだ。そして本作においてそれは「大切な人」でなければならない。なぜなら死が終わりではない本作の世界において、生が終わり死者となっても、無限の時間を共に歩んでいけるだけの信頼できる「他者」でなければならないからだ。

物語の最後、武は「設定」できる人に巡り合う。それは線路の上で死者としてさまよっていた淳だった。互いに「設定」できる人を見つけることができず孤独を感じていた二人は、孤独を分かち合える相手を見つけることができたことを喜ぶ。そして雪子も最後には多喜男の下へと戻り、多喜男の「おかえり」という言葉とともに舞台は幕を閉じる。
本作では雪子の死の原因、二つ目の月の発生要因、セミ人間とは一体何なのか、といった謎が謎のままに幕が閉じられてしまう。しかしながら、そのテーマの一つとして「なぜそこに存在しているのか」という問いがあることは間違いない。生と死の境界が限りなく曖昧になり、本来有限な存在である人間が無限の時間を生きるようになった時、その存在理由としての他者を希求するのだ、ということが本作を通じて提示された一つのテーゼであるように思われる。

|プロフィール

吉村雄太
批評誌『夜航』/京都大学大学院文学研究科日本哲学史専修修士1年
批評誌「夜航」編集員として年に1〜2回思想と神戸・関西の文化にフォーカスした批評誌を刊行。「夜航」第4号では「関西から考える演劇」というテーマで特集を組み、関西で活躍する演劇人と座談会を開き、劇作家の平田オリザ氏にインタビューを行い、2018年にKAVCで行われたダンスのショーケース「ダンスの天地vol.01」では批評文を寄稿するなど、広く文化と舞台芸術に関する批評を行なっている。