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KAVC FLAG COMPANY 2019-2020 KING&HEAVY『ゴールデンエイジ』劇評|ウォーリー木下

2019年10月18日(金)20日(日)

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ウォーリー木下KING & HEAVY 「ゴールデンエイジ」評

アフタートークに出させてもらった時に「ウォーリーさんならどうやってこれ演出します?」と質問され、答えに窮した。なにも浮かばなかった。
その理由を話せば、おそらく劇の感想にはなると思うのでそうしてみる。

まず、この舞台には演出家がいない。作家もいない。俳優の3人が、稽古場でアイデアを出しあい、実際にやってみて、そこから積み上げていく作り方で本番をむかえたそうだ。だからだろうか、俳優が俳優として、伸び伸びと演じている空間になっている。
それは演出家目線で言えば“荒い”と感じてしまう。玩具箱をひっくり返したようなとも言えるが、そのひっくり返し方に規則性やテーマ性が感じられない。
しかしその“荒さ”が魅力でもある。遊び場のような空間で3人の俳優が子供のようにはしゃいでいる姿は、もしかしたら演劇のプリミティブな魅力なんじゃないだろうかと思ったりもする。
もちろん彼らは俳優として腕があり技もあり、そして意識も高いので、その遊びが作品の質を担保しないことにはならない。十分に楽しめるエンターテインメントになっている。

そこで気づくのだけど、演出家の仕事の一つは、俳優を俳優として伸び伸びやらせない、ことに注力をそそぐことなのだ。だから、仮に僕がこの舞台の演出をした場合、彼らのやりたいことの半分もできないのではないだろうか。もしくは野放図を演出することになり、それはそれでフィルターが一枚かかってしまう。この作品に計算された演出は似合わない。それが答えに窮した理由の一つだ。

もうひとつは、テーマだ。物語の主題は“人生は一度きりしかない”。タイムトラベルの形を借りて、俳優3人が執拗に主人公の人生のやり直しを応援もしくは邪魔をする。その摩擦の中で様々な人間の(父親や先生やご先祖さまなんかの)ドラマも見えてくる。彼らは登場人物を演じながらも自分たち自身のこともきっとその中に投影していたはずだ。“なりたかった自分”と“そうじゃない現実”の狭間で葛藤しているのは、彼ら自身のことでもあるのだろう。と、僕は勝手に思って見ていたのだけど、ラストシーンに近づけば近づくほどに、本当にそうなのかどうかはわからなくなってくる。
それは、やりたいことをやりたいようにやる、ことが最大の特徴である演劇なのに、どこか明瞭なオチをつけることにこだわり過ぎてしまったのかなと勘繰っている。実際に、ラストは泣けたし、お見事だとも思った。それでもなお、もっと切実な演劇になっていたらよかったのにと思ったのだ。破綻し、壊れて、目も当てられないような失敗作になってもよかったのにな、と。
と人に言うのは容易い。自分にそれができるかと言われるとわからない。それが僕が演出してもこれ以上に面白くならない理由の二つ目だ。

なんだかけなしたり褒めたり忙しい文章になったけど、僕は俳優がこうやって演劇を作り、その環境を変えていこうとする試みは大事だと思っている。 偉そうな演出家なんてくそくらえだ、と俳優が言っていくことで、演劇界は一歩先にいくはずだから。

|プロフィール

ウォーリー木下
演出家。劇団sunday代表。
戯曲家・演出家として、外部公演も数多く手がけ、特に役者の身体性を重視した演出に定評がある。他にもノンバーバルパフォーマンス集団THE ORIGINAL TEMPO のプロデュース・演出や、様々な演劇祭でのフェスティバルディレクターを務める。2018年4月に神戸アートビレッジセンターの舞台芸術プログラムディレクターに就任。