|吉村雄太|『すぐ傍にあるゴールデンエイジに向けて』
KING&HEAVYの第4回公演「ゴールデンエイジ」のテーマはタイムトラベルだ。主人公の那須田は、野球選手になりたいという幼い頃からの夢を持ちながらも、日々サラリーマンとして仕事をこなすだけの冴えない毎日を送っている。そんな那須田は29歳の誕生日にトラックに轢かれるという交通事故に遭う。意識を失っていく中で那須田は関西弁をしゃべる「神様」を名乗る男の声を聴く。神様は那須田に何でも願いを叶えてやろうと持ちかける。初めのうち半信半疑だった那須田だが、「野球選手になりたい」という願いを口にし、野球選手になるために神様と一緒にタイムスリップして過去を変えることで、幼い頃の夢を実現するために奮闘する。
KING&HEAVYという劇団の魅力は、わずかな役者で膨大な役柄を演じ分けるという点にある。本作品では飯島松之助、伊藤駿九郎、石畑達哉のたった三人の役者で実に50以上もの役柄を演じられており、ぐるぐるとお互いの配役を交代したり、全く新しい役柄が次から次に現れてくるところに圧倒的な魅力がある。例えば、先ほどまで飯島が主人公の那須田を演じ、伊藤が神様を演じていたかと思うと、次のシーンには伊藤が那須田を演じ、飯島が神様を演じているといった具合に、俳優が互いに役を交換しながら、劇が進行していく。
19世紀以降のリアリズム演劇においては、基本的に一人の俳優につき一つの配役しか与えられない。というのも、観客は「俳優の身体」によってそれぞれの役柄をアイデンティファイするからだ。しかし本作においては「俳優の身体」は劇中の役柄を識別することにおいては重要ではない。むしろ、配役は「小道具」によって知らされる。本作の小道具は天使の輪と、那須田家に先祖代々伝わるとされるお守りの二つだけで、それ以外の小道具はない。しかしながら、だからこそ観客の目は自然と天使の輪とお守りに目がいき、天使の輪を持っている俳優が神様の役割、お守りを持っている俳優が那須田の役割を演じているのだということが理解できる。つまり、本作において役柄の指示は「俳優の身体」ではなく「小道具」によって行われている。そしてそのことが俳優の身体を舞台上において自由にしていると言うことができる。例えば、神様という役柄は舞台上を激しく走り回ったり、大きな動きをする役柄ではなく、もし仮に一人の役者が一つの役柄を演じる場合、神様を演じた俳優の身体表現は、神様という配役が要請する身体表現のみに限定されることになる。しかしながら、役柄を無数に変化させていくことで、役者の身体表現は役柄に囚われることなく自由になることができる。つまりリアリズム演劇のように一人の俳優につき一つの配役という形で、俳優の舞台上での行動が制限されるのではなく、むしろ俳優の身体表現がありきで劇が進行するため俳優の身体が生き生きとした形で舞台上に表現されているのだ。実際に「ゴールデンエイジ」終演後のアフタートークでは、KING&HEAVYは台本や役柄を作ってから演技をするのではなく、ワークショップをする過程で生まれた面白い身体の動き・台詞から遡行して台本や役柄を作っているのだ、という旨が述べられていた。ここからもKING&HEAVYという劇団が身体表現を第一義的に表現することに重きをおいた劇団であるといえるだろう。
本作における興味深い演出として、舞台上に3人しか俳優がいないにもかかわらず、舞台上に3人以上の登場人物を出現させるという演出があった。それはかつてツッパリとして活躍していた那須田の父が複数人の複数に不良と喧嘩をするというシーンで見られた。大人数のツッパリたちが那須田の父に襲い掛かるという場面は本来俳優が三人だけではとても表すことはできない。そこで説明台詞と身体表現によって複数人を表現するという手法が取られていた。不良役の一人が「短い学ランにリーゼントがニョーン」とまず自分の演じるキャラクターの容姿を描写する台詞を言う。そしてそれに続けて、まるで隣に箱を置いていくような動作をして「それが20人ドーン」と発言する。そのことによって、「短い学ランにリーゼントがニョーン」が「20人」舞台上に「いることにしてしまう」のだ。もちろん舞台上には俳優が3人しかいないので、当然嘘なのだが、舞台上のキャラクター達はその発話と行動によって、本当に不良が20人いるものとして振舞うことになる。そして観客が舞台上に3人しか俳優がいないにも関わらず、20人いるものとして振舞っているキャラクター達の行動を観て、そのギャップとコミカルな動作に笑う。このような演出は一人の俳優に一つの役柄をあてがうリアリズム演劇的な手法でないからこそできることだ。本作において役者の身体が役柄を指示しないことはすでに述べたが、それはつまり役者の身体が舞台上になくても、役柄というものを指し示せるということでもある。だから発話行為だけによって不良が「20人」舞台上に「いることにしてしまう」ことができるのだ。
このように「ゴールデンエイジ」においては、「役者の身体」が「役柄」から独立しているからこそ、役者の身体の数(3人という数)を超えて舞台上に役柄を生み出すことができ、かつその役柄同士を交換することが可能となっているのだ。
以上が「ゴールデンエイジ」においてみられる演出手法についてであるが、「ゴールデンエイジ」の物語について、そしてその物語において実現されていることについて簡単にみたい。
事故にあった那須田は神様の力を借りながら現代の自分が野球選手になれるように過去を変えていく。その過程で、原始時代の那須田家の祖先に出会ったり、平家物語の那須与一が実は那須田家の先祖であることが判明したり、ツッパリとして抗争に明け暮れる日々を送っている父を更生するべく教師として父を指導したりと、タイムスリップという物語的な仕掛けを使うことで舞台のシーンを変えていきながら、観客の予想しない状況を次々に提示し、ギャグを交えることで、笑えるコメディーとなっている。しかし本作において重要なことは、タイムスリップをした先で過去を変えることができるのは基本的に那須田だけだということだ。神様は那須田を過去に連れていくだけで、基本的に自ら過去に介入したりはしない。つまり那須田が自己決定して行動することによってしか過去を変えることはできない。また過去を変えて、野球選手になることができるだけの能力を得た那須田でも、父に対して「野球がやりたい」と宣言して初めて、野球選手への道を歩み始めることができる。本作品においては神様という他者の力を借りながらも、根本的には平凡な日常を送っていた那須田という人物が自らの人生に向き合い、自己決定をしていくことに物語の主眼が置かれている。
とりわけ印象的なのは、ラストのシーンだろう。過去を変えて野球選手になることができ、達成感を感じていた那須田は、にもかかわらず29歳の誕生日の日にトラック事故遭う。何かの間違いだと思った那須田はもう一度野球選手としての人生をやり直すが、何度やり直しても誕生日に事故に遭ってしまう。幾度も人生をやり直す中で、過去を変えることはできても、29歳の誕生日に事故に遭うという未来を変えることはできないのだ、ということに那須田は気づく。
どのような道を選んでも29歳で事故に遭い、怪我によって野球選手を引退しなければならず、絶対に努力が報われることがないという事実に自暴自棄になる那須田だが、そんな時に父から声をかけられる。父はたとえ事故のせいで那須田の野球生命が断たれたとしても、那須田が自分の息子であることには変わりがないと告げる。そして父はかつて高校時代に出会い人生を変えられた教師の話をするが、それはタイムスリップして教師として父を指導した那須田自身のことだった。
父との会話の後、最後のシーンで那須田がもう一度野球選手としてバッターボックスに立ちホームランを打つ姿が提示されて、舞台は幕を閉じる。
作中では描かれていないが最後のホームランの後、那須田が運命を変えることができず、事故に遭って野球選手を引退しなければならないことは確定している。にも関わらず、父との会話を経て那須田はもう一度野球選手としての人生を選ぶ。その時、那須田は野球選手でもない、何者でもない、那須田としての自分の人生を引き受ける覚悟を持つことができている。
そもそも過去を変えてどのような憧れの存在になったとしても、それは幻想の存在なのかもしれない。元々那須田は冴えないサラリーマンをしていて、事故に際して神様に出会うことでたまたま憧れだった野球選手としての人生を歩むことができるようになった。那須田は幼い頃からの憧れの存在になることができた。しかし、それは本当の意味で自分の人生を肯定するということになるだろうか。「自分」という存在は死ぬ時までずっとついて回ってくるもので、人生のいついかなる「エイジ(年齢)」においても向き合わなければならない存在だ。野球選手である自分を肯定する場合、それはある時期、ある年齢において野球選手として活躍している自分を肯定しているだけだ。だから自分という存在そのものの全体を肯定できているとは言えないだろう。もし仮に野球選手としての選手生命を全うできたとしても、その後の人生は本当に輝いたものだということができるだろうか。あるいはもし仮に、那須田が冴えないサラリーマンのままの人生を送っていたとして、その人生が輝いていないものだということはできるだろうか。自分がどのような存在であろうと自分自身を肯定し、肯定し続けることによって初めて自らの人生は輝かしいものになる。そのことには、自分が野球選手であるか、サラリーマンをしているか、つまり「何をしている人間なのか」ということは関係がない。何をしていても死ぬまでついてくる自分という存在と本気で向き合うことだけが求められているのだ。
本作の最後で、那須田は輝かしい人生というものは決して憧れの存在として生きていくことではなく、自分自身を受け入れ肯定して生きていくことなのだと気がついたからこそ、事故によって引退すると分かっていてもバッターボックスに立ったのだろう。
何者かになることによって自分の存在を肯定するのではなく、ただそこにいるだけで自分自身を肯定し生きていくという在り方を目指すこと。その時自分自身がいかなる時代、年齢を生きていようとその人生は輝かしいものになるということ、「ゴールデンエイジ」はいついかなる時でもすぐ傍にあるのだということが本作において示されたことなのだ。
|プロフィール
吉村雄大
現在京都大学大学院文学研究科修士課程に在籍中。
批評誌「夜航」編集員として年に1〜2回思想と神戸・関西の文化にフォーカスした批評誌を刊行。「夜航」第4号では「関西から考える演劇」というテーマで特集を組み、関西で活躍する演劇人と座談会を開き、劇作家の平田オリザ氏にインタビューを行い、2018年にKAVCで行われたダンスのショーケース「ダンスの天地vol.01」では批評文を寄稿するなど、広く文化と舞台芸術に関する批評を行なっている。