• 劇評
  • 演劇・ダンス

KAVC FLAG COMPANY 2019-2020 THE ROB CARLTON Banquet hall『STING OPERATION』劇評|吉村雄太

2019年6月28日(金)30日(日)

  • Archives

批評誌『夜航』 吉村雄太「笑いというOperation―異文化間の差異を昇華する営みとしてのコメディー」

The Rob Carlton Banquet Hall「Sting Operation」の舞台は「トゥイッケナムホテル」という名前の最高級ホテルのスィートルームの<1778号室>と<1678号室>の二室だ。オペレーションリーダーのジョージとスーパーメカニックのJ.J.の作戦を下に、おとり捜査官のサイモンとバーニーが、収賄疑惑のあるアンディ議員の収賄の証拠を写真の収めることが本作のオペレーションである。下階のスィートルームでサイモンとバーニーの二人がアンディ議員と会談し賄賂贈賄を試み、上階では二人のおとり捜査員が下階の様子を監視・盗聴しながら下階の二人にインカムで指示を飛ばしている。ドタバタ劇を繰り広げながら、おとり捜査員たちは徐々にアンディ議員の収賄疑惑に迫っていく。その過程でおとり捜査員たちが何度もヘマをしながらどんどん言葉を滑らせて笑いを生み出していくコメディー劇が本作である。

本作はアメリカ映画のおける翻訳調の言葉を、演劇という舞台芸術の世界に映しこんだ作品だと言えるだろう。まず上のような設定からして、非常にアメリカ映画の影響が感じられる。脚本・演出の村角大洋も前説において「アメリカ映画におけるホテルでの会談のシーンが好きなのに、基本的にどんな映画でもホテルのシーンは5分しかない。それが悲しいからではその5分を120分にまで引き延ばしたら本作になった」と本作が生まれた経緯を冗談交じりに語っていた。

「Sting Operation」は、四人のおとり捜査員が何度も何度もドジを踏みながらアンディ議員の収賄疑惑を追及していき、結果として収賄疑惑が晴れてハッピーエンドになるという、話の筋としては比較的単純な物語だ。しかしそこで行われている笑いは非常に複雑かつ高いレベルものである。

笑いを論理的に解説することほどナンセンスなことはないが、少しだけ笑いについての話をしたい。笑いとは、観客が無意識のうちに前提としている規範から逸脱するものを提示するときに生まれるものである。フランスの哲学者のアンリ・ベルクソンは『笑い』という著作の中で「笑いは単に自然によって、あるいは大体同じことになるが、社会生活の極めて長い習慣によって、我々のなかに螺子が掛けてある機構の結果にすぎない。それは全くひとりでに発動するものであり、しっぺい返しの反撃である」と述べている。わたし達はある社会の中で常に何か前提とされた規範の中に生きていてそれを当たり前のものだと考えている。しかしそうした規範が本当は自明のものではなかったのだと気づいたとき、その規範を笑い飛ばすという形で笑いが生まれる。つまり「前提とされる規範」と「規範からの逸脱」の二点がないところに笑いは生まれない。

それでは、本作品で「前提とされている規範」は何であって、「逸脱」の契機になっているもの何であろうか? やはりそれは「演者と観客は基本的に日本語話者を前提としていること」であり、また「異文化間の衝突」が逸脱の契機なっているということができるだろう。本作品では様々な形で異文化が提示される。

本作品の笑いについて考えるときに重要であるのは、劇中の登場人物は英語で話しているという体をとっているものの、演者自体は日本人であり日本語で話しており、また観客自体も日本人話者であるということが想定されているという点だろう。

本作のキャラクターは話し方に特徴があり、「へいバーニー、どうしたんだい?」のようにアメリカ映画の吹き替えのような軽妙でハイテンションな、そしていわゆる日本語話者が日常的には使わないような言語表現が多々用いられる。いわゆる「バタ臭い」翻訳口調だ。洋画の翻訳においてそのような翻訳口調が成立するのは、あくまでも映像内で移されている役者が西洋人を初めとした非日本語母語話者であり、異なった話し方をすることは当然だという前提が観客に共有されているから成り立つ。しかし本作「Sting Operation」では日本語母語話者であると思われる俳優たちが、にも関わらず洋画の吹き替え調のような調子で話していることにいい意味での違和感を覚え、笑いを誘う。「へいバーニー、どうしたんだい?」はあえて英語に訳すと”Hey Barny, what’s happened? ”にでもなるのだろうが、日本語で人を呼びかけるとき「ヘイ!」と勢いよく呼びかけることは中々ないだろうし、まして大きな手ぶりをしたり、また話し相手であるバーニーのことをわざわざ指さして話しかけることは中々ないだろう。(もちろん日本語話者にもそのような人はいるかもしれない)

日本語において普段使われないはずの言語表現と身体的身振りを、英米人が行っているという体を取ることで可能にし、観客は自分たちが前提としている日本語からの逸脱を感じ、その逸脱を笑いという形で昇華する、ということが本作において行われていることである。

他にも異文化間の落差に伴う笑いが本作には多く登場する。例えば、アンディ議員の秘書であるスコットというキャラクターはハーバード大学とMITを卒業して10か国語を話すことができる超インテリキャラクターとして紹介されるが、「日本においては近畿大学に留学していました」という台詞が発せられると会場は笑いの渦に巻き込まれた。日常生活において「近畿大学」という言葉は特別笑いを生むような言葉ではないが、外国の想像もつかないような大学名や国名が列挙される中で、関西の人にとって身近な「近畿大学」という言葉が投げ込まれることで、逸脱が生まれて観客は思わず笑ってしまう。もちろんこの「近畿大学」という言葉は関西での上演だからこそのチョイスであり、例えば関東での公演であったらきっと関東に住む人にとって身近な違う大学の名前になっていただろう。ここからも伺えるのは、本作の笑いにおいて重要な点は、「言葉そのもの(つまり近畿大学という固有名詞)」ではなくいかにして「異文化間の逸脱」を生み出すかという点であると言えるだろう。

他にも例を挙げだすとキリがないが、おとり捜査員のバーニーはロシア人の要人ソフイチロフに変装するのであるが、その変装の事実がバレそうになるというシーンがある。目の前にいるロシア人がロシア語を話さないことを不審に思ったアンディ議員の秘書のスコットは、おとり捜査員のバーニーに対してロシア語で長く複雑な質問をする。ロシア語を知らないバーニーは窮地に立たされ、長く悩んだ末に自身が知っているほとんど唯一のロシア語である「ハラショー」という言葉を大声で叫ぶ。すると実はスコットのした質問の答えは「長く悩んだふりをした末にハラショーと答える」というものであり、バーニーはスコットの質問にたまたま正解することができ、なんとか窮地を逃れることができる。このシーンはその後も少し形を繰り返され、本作の中でも印象深い、笑いあるシーンとなっている。ここでも異文化間の逸脱が笑いの契機になっており、本来ロシア語を知っているはずのロシア人がロシア語を話さないという疑義から詰問が始まり、最終的に本来ロシア語を知らないはずなのになぜかたまたま詰問をすり抜けてしまう、というところにおかしみがある。米国人とロシア人に扮した米国人と、それらを翻訳調の日本語で表現する日本人役者、という形で異文化間の差異が幾重にも重なっており、それがシーンのおかしみを生み出している。

このように見ていくとやはり本作は、異文化間に生まれる文化上の差異を笑いという形で昇華させていく劇であるといえるだろう。
そしてさらに本作が素晴らしい点は、「笑い」をテーマにしているにも関わらず、そこに不快感がなく非常に爽やかな印象を与える点だ。
笑いは本質的に暴力性を持っているものだ。先に挙げたベルクソンは、笑いは「その対象となる者にとっては常にいくらかの屈辱を与えるもの」だと考えている。笑いとはある社会的規範から逸脱していることを示す際に発生するものであり、笑われている相手にあなたは社会規範から逸脱しているのだ、ということを指し示すことになる。そのような形で暴力性が伴うものである。例えば本作のような異文化間の文化差によって笑いを生み出す作品の場合、ある文化がある文化に優越していることを示したり、ある文化が正しいという押し付けることによって、他方の文化を抑圧するような作品になってしまう可能性がある。しかしながら、主観ではあるが本作ではそのようなある文化の価値を押し付けるような形での笑いにならないよう、積極的に笑いが調節されているように感じた。とりわけ、最後のシーンでアンディ議員の収賄の収賄疑惑が晴れ、アンディ議員が「本当にいい人」として物語が終わるという点が、本作の笑いにおいて非常に重要であると思われる。本作はおとり捜査員たちがアンディ議員の収賄疑惑を巡って、アンディ議員の収賄の決定的なシーンをカメラに収めるために暗躍する過程で、様々な「ヘマ」をして、上記に挙げてきたような笑いが起こるという構造になっている。

普通の会談や外交では絶対にあり得ないような「ヘマ」が「異文化間のコミュニケーションの差」として片付けられていくのであるが、ともすればそれはある文化を劣ったものとして虐げたり、文化をステレオタイプ化していくことに繋がる。例えば、ロシアとはこういう国なのだのだからアメリカ人である私達はそれを受け入れなければならない、といった形だ。異文化だから仕方ない、という形で「ヘマ」を笑いその場を取り収めるような形を取ると、笑う者/笑われる者という構造ができてしまいどうしても力関係が発生してしまう。笑いは常に笑う者/笑われる者という権力関係を生み出してしまう。

しかしながら本作で特異なのはアンディ議員は笑わないという点だ。おとり捜査員が通常では考えられないヘマをしたとしても、アンディ議員は決しておとり捜査員のことを疑わず、笑うことなく常に真摯におとり捜査員の話を聞き、むしろアンディ議員の側が相手の文化に合わせようという態度を取り続ける。そして最後には収賄疑惑も晴れ、アンディ議員は「本当にいい人」だったとされる。アンディ議員が「本当にいい人」だからこそ、おとり捜査の過程で生まれる逸脱を笑いという形でなく、逸脱そのものとして否定することなくそのまま受け入れるという構造になっている。つまり劇を見ている観客はおとり捜査員のヘマを見て笑うのであるが、作中のアンディ議員自身はそのヘマを決して馬鹿にしたり笑ったりしないからこそ、物語の内部においては「笑いがもたらす屈辱」というものが発生せず、非常に爽やかな印象で幕が閉じることになる。

このように考えていくと、The Rob Carlton Banquet Hall「Sting Operation」における笑いは周到に練られたものであり、非常に高い水準の笑いに昇華されていると言えるだろう。笑いが持っている暴力性に気づいていなければ異文化間の差異を利用したコメディーを爽やかに提示させることはできない。そういう意味でThe Rob Carlton Banquet Hallの笑いは笑いの持つ暴力性への目配りもよく行き届いた、深く優しい笑いであると言えるのではないだろうか。「Sting Operation」においてThe Rob Carlton Banquet Hallが行っているOperationは異文化間の差異を暴力性を伴わない形で笑いに昇華するものであったと結論づけることができるだろう。

最後に、コメディーを批評するという営みはコメディーではないのでコメディーを裏切ることになるが、笑いを条理として語る、という形での不条理だと考えれば、コメディーを批評するということも一つの不条理コメディーとして成立するのかもしれない。ということで、コメディーを批評として語ってみたことをお許し頂ければと思う。

|プロフィール

吉村雄大
現在京都大学大学院文学研究科修士課程に在籍中。
批評誌「夜航」編集員として年に1〜2回思想と神戸・関西の文化にフォーカスした批評誌を刊行。「夜航」第4号では「関西から考える演劇」というテーマで特集を組み、関西で活躍する演劇人と座談会を開き、劇作家の平田オリザ氏にインタビューを行い、2018年にKAVCで行われたダンスのショーケース「ダンスの天地vol.01」では批評文を寄稿するなど、広く文化と舞台芸術に関する批評を行なっている。