|筒井潤|THE ROB CARLTON『STING OPERATION』
シチュエーションコメディに劇評を書く必要を感じない。最近、若い関西の演劇人が、批評が足りない、批評が読みたい、批評をされたいなどと言っているのによく遭遇する。しかし今回のTHE ROB CARLTONのように、劇評を必要としない作風の演劇公演は、だからこそひどい雨でも満席になる。一般の人たちが劇評など必要としていないのは明らかだ。友人知人に観て大いに笑ったことを自慢して、「今度一緒に観に行こう。帰りに美味しいもの食べよう」と誘えば良いのである。
ということで作品『STING OPERATION』についての劇評は書かない。私は何度か、THE ROB CARLTONの特徴は「海外ドラマ風」というコメントを聞いたことがあるので、ここではそれについて考えてみたい。
THE ROB CARLTONは過去に1回観たことがあって、そのときも「海外ドラマ風」というワードを誰かからか事前に聞いていた。しかし私は正直、ピンとこなかった。具体的には、やたらとなめらかな発話と綺麗な姿勢、はっきりとしたわかりやすい表情と動作。初見のときにはそれらに古さを感じた。しかしTHE ROB CARLTONを高く評価している人はどうやらそうは思っていないようである。私は何を見落としているのか。このような消化しきれていない思いがずっと心の片隅にあった。そして2回目となる今回の鑑賞で、私なりの答えが見つかった。
とても都合良く、連続テレビ小説『なつぞら』で私が言いたかったことが描かれていた。主人公の兄・咲太郎が新劇の劇団に関わった後、声優プロダクションを立ち上げるのだ (第9週、第15週)。これはフィクションだが、史実がもとになっている。当時、舞台の仕事の収入だけでは生活が厳しかった新劇の俳優は声優の仕事をした。ゆえにアテレコの声の演技には新劇の影響があり、それは今も引き継がれている。おそらく私はその点を指して古いと思っていたのだろう。だが、それだけではTHE ROB CARLTONの特徴を捉えきれていない。単に古いわけではないのはなぜなのか。最近のドラマにおける展開の速さと映像の編集、主にカット割りの多さは日々激しくなっていっている。おうちでぼんやりテレビを見ている人に退屈させないための絵の変化が要求され、登場人物の機微を時間かけてじっくり捉えているような暇はない。そんなことをしていたらスマホの動物動画に負ける。THE ROB CARLTONは、それらの要素を戯曲だけでなく俳優の演技にも織り込んだのである。とにかく何かが常にハイテンポで展開している状況をつくる。そして彼らにおけるその目的は、ドラマの提供ではなく、笑いを生み出すことにある。
彼らは変装、嘘、反復、誤解、誤算などの喜劇の基本要素を鏤めて、緊張と緩和の笑いの方程式に則り、みごとなアンサンブルによるパフォーマンスを繰り広げる。観客はドッカンドッカン笑う。ただ、俳優はその方程式を絶対に踏み外せないし、上演が進み、観客がウケればウケるほどその踏み外せなさは増していく。例えば、ピタゴラ装置が途中で滞ったら、その瞬間は「緩和」となるので、滞り方によっては笑えるかもしれないが、残念な気持ちにもなるだろう。ゴールに近づけば近づくほど尚更である。THE ROB CARLTONの上演は、笑いのピタゴラ装置のようになっていて、絶対に躓くわけにはいかない、ものすごい緊張感がある。だから観客はずっと見続けるし、無事に幕が降りたら盛大な拍手を送る。ただ、忘れてはならないのは、彼らはビー玉やドミノではなく、生身の人間だ。
私は笑いについて考えるとき、2代目桂枝雀について思うことがよくある。彼の底抜けに明るい落語は、寄席でだけでなくテレビやラジオを通して日本中を爆笑の渦に巻き込んだ。国民はもっともっと笑いを、爆笑を要求した。そして1999年3月、彼は自死する。「緊張と緩和」とは、彼の理論だ。方程式に従えば、演者が全く楽しくない状態に追い込まれていたとしても笑いは起こるのである。私は、THE ROB CARLTONのパフォーマンスが完璧であったがゆえに、一切笑えなかった。
私は過去に、笑いを追求したわけではないけれど、より良い上演を求めているうちに過度な緊張を要する演出を俳優に強いてしまったことがある。そのときは俳優も同じように良い作品にしようと努めていたので、歯止めが効かなくなっていった。結果、俳優を随分と疲弊させてしまい、深く反省した。このような経験があるので、私は多少過敏になっているとは思う。そんなことを理由にごちゃごちゃ言われるのはとばっちりもいいところだろう。しかし、自戒を込めていうが、そろそろこういう緊張を求めるのは創り手も観客もやめたほうが良いのではないだろうか。様々なパラダイムシフトが起きている今、舞台芸術の表現においてもそれまでとは異なる価値観を創り手も鑑賞者も模索するべきである。
最近は特にこのようなことをぼんやりと考えていたのだが、ある作品を観たときに私は確信に至った。今年の3月にArt Theater dB KOBEで上演された中間アヤカ&コレオグラフィ『フリーウェイ・ダンス』である。奇妙な空間設計で客席と舞台が別れておらず、どこでどのように中間アヤカのパフォーマンスを観ていてもいいし、観ていなくてもいい。友達と話をしたり、よその子供と遊んだり、植物に水をやったり、ビールを呑んだり、音楽に体を揺らしたりしていてもいい。4時間の上演中ずっと何かに興味を抱いていられるが、適度な心地良い退屈感もあって、劇場内にいる人はみんな笑みを湛えているのである。ワハハと笑っているのではない。ニコニコしているのである。私も「筒井さんずっと笑ってますね」と人に指摘されてはじめてその状態に気づいた。そしてそれらすべてが鑑賞体験として記憶されることにとても感心した。
THE ROB CARLTONが探求しているのは「限りなく喜劇に近い芝居」だと自ら公言している。彼らは笑いの方程式にこだわるあまり自分たちを追い込み切ってしまわないように予防線を張っているのかもしれない。
最近、他地方出身の知人からこんな言葉を聞いた。「大阪の人ってどうしてあんなに笑いを欲するの?」。より大きな声でたくさん笑った方が得だと考えているのかもしれない。笑いの経済はひどく残酷だ。
|プロフィール
筒井潤
演出家、劇作家。
大阪を拠点とする公演芸術集団dracomのリーダー。2007年京都芸術センター舞台芸術賞受賞。dracomとしてTPAM2009、フェスティバル/トーキョー10、サウンド・ライブ・トーキョー2014、NIPPON PERFORMANCE NIGHT(2017年、デュッセルドルフ)等に参加。個人としても桃園会やDANCE BOX主催『滲むライフ』で演出等、様々な活動を行っている。