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KAVC FLAG COMPANY 2021 – 2022|劇団不労社「BLOW&JOB」

高嶋慈「メタ演劇論×暴力論×監視論」

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  • 2022.7.27
  • Text: 高嶋慈

「長時間労働の常態、パワハラ・セクハラ・モラハラの横行、会社のモットーを絶叫させる朝礼という名の洗脳、正規/非正規の構造にジェンダーの不均衡が重ねられ、暴力が構造的に再生産されるブラック企業」の生態をカリカチュア化して描くという体裁の作品。だが、本質的には、メタ「演劇」論、「暴力」論、「監視」論である。そこに、単なる「ハラスメントあるあるを羅列した社会派のブラックコメディ」に収まらない本作の意義がある。
 舞台設定はウェブ広告制作会社。「超過労働にならないように管理してやっている」という理屈で部下の社員証を取り上げることにはじまり、理不尽なパワハラをエスカレートさせていく中間管理職の男。だが彼も、部長/社長/クライアントという権力構造の中では、従順な飼い犬に過ぎない。「社員は家族の絆」「クライアントは神様です」とのモットーの元、「絶叫と笑顔」を強制する朝礼=洗脳が儀式のように行なわれる。暴言や罵倒、殴打、理不尽な強要、精神的な圧力といった暴力は、中間管理職から部下へ、部下(正社員・男性)から派遣社員(非正規雇用・女性)へと、雇用形態やジェンダーの不均衡といった権力構造に基づいて再生産されていく。また、男性内部でも「オタク=非モテ」「スポーツの成績」という「男性の採点基準」に基づいてマウントを取り合う精神戦が不毛に繰り広げられる。こうしたブラック企業内部の生態観察が約1時間半、延々と続き、やりきれない気分にさせる。演技や台詞は(意図的に)過剰さとカリカチュアに満ち、人物描写は奥行きがなく薄っぺらい。だがこれは、「表層的でリアリティがない」というより、むしろ観客が「これは芝居だ」と「安心して」眺められるための安全装置でもある。
 一方、「社内をVRで360度撮影できる監視カメラ」の導入を起点に、本作には次第にメタ台詞が侵入してくる。いぶかる社員たちに対して部長が放つ、「みんな役者になったつもりでパフォーマンスを上げていこう」という台詞。後半、「大事な取引先の社長が来客したタイミングで、その会社の情報が入ったUSBメモリの紛失が発覚する」という「事件」が起こる。紛失した男性正社員に対し、「ポケットの中を見せろ」と言う取引先の社長の要求はエスカレートし、衆人環視の下、「服を脱いで確認しろ」、「パンツも脱げ」と強要する。おそるおそるパンツに手をかけようとこわばる男性正社員の身体。「舐めるように見ろ!しゃぶり尽くせ!」と叫ぶ社長。沈黙の中、舞台上の一点に集中する視線と、最高潮に高まる緊張感。そのとき、「視線という暴力」を、観客も強制的に分有させられる。あるいは、演劇という表象形式自体が、「見ることの暴力」と不可分であることが突きつけられる。
 終盤、様々な理不尽に耐えていた女性派遣社員は会社から出ていこうとするが、同僚の「出てったら、きっと誰も見てくれなくなる」という台詞は、「会社=舞台空間」の二重性をメタ的に示す。荷物を片付けつつ、「誰も見てないはずなのに、まだ見られてる気がして」という台詞は、演劇が、観客の視線を前提に成立するものでありつつ、観客自身はその場に「いない」ことにされるという、もう一つの演劇の暴力性を指し示す。
 こうしたメタ演劇論に加え、本作は、暴力論としても読むことができる。上述のシーンでは、「脱げ」と強要されるのが「男性」であることも重要だ。そこには、取引先の社長/受注側の平社員という権力構造に加え、「男の価値を上げてやる」というホモソーシャル内部の論理を装って個人の性的尊厳を奪おうとする暴力、さらに女性社員たちに「視姦」を強要するセクハラと、複数のベクトルの暴力が含まれる。
 そして本作は、「暴力」のこうした複雑な階層構造に加え、「暴力」が次々と容易くその宛先を変えて「被害者/加害者」という固定関係を揺るがせる事態を描き出す。あやうく難を逃れた男性正社員は、一転して、謝る女性派遣社員に「死ねよ!」と罵声を浴びせ、「逆に俺がしゃぶってもらおうかな」と自らが受けた性的暴力の矛先を反転させる。それは、いったん踏みにじられかけた自分の自尊心をかろうじて保つためだけに、(社内の力関係においてもジェンダーという権力構造においても)自分より「下位」の他者に向けて暴力が再生産される事態である。

 こうした「舞台上で表象される暴力」は、「それを眺める暴力」についての自己言及がなければ、単なる娯楽やスペクタクルとして安全に消費されてしまう。ここで、本作との比較例として、例えば、ポツドールの無言劇『夢の城』がある。アパートの狭いワンルームで、「言葉」を一切発さず、動物的本能にただ従い、乱交に明け暮れる若者たちの生(性)態がひたすら提示される。序盤、舞台と客席は「檻の柵」で区切られ、観客は「檻」の外から動物園の獣を眺めるように舞台上の光景を見つめる。だが、暗転後、「檻の柵」は消え、彼らと同じ「檻の中」へ転移させられる仕掛けは、観客に自らの視線の暴力性を突きつけつつ、その内部へ強制的に取り込んでしまう。
 本作では、「監視カメラの設置」が鍵となる。「VRで360度撮影できる」という設定は、「円形に舞台を囲む客席」と呼応し、私たち観客こそ、「姿を見られないまま、一方的に監視できる」権力を発動させていることを示す。それは、本作のキャッチコピーが謳うように、まさに「一望監視装置(パノプティコン)」だ。パノプティコンとは、18世紀にイギリスの思想家ベンサムが考案した円形の刑務所で、中央の監視塔にいる看守が、円形に配置された独房内のすべての収容者を監視できる効率的な監視システムである。後にフーコーにより、近代社会において権力が個人を管理し、規律を内面化するモデルとして理論化された。
 ただ、肝である「監視カメラ」の舞台美術の扱い方には疑問が残った。舞台中央に、先端にカメラが付いた(という設定の)柱状の装置が置かれるのだが、パノプティコンの本質は、中央の監視塔にいる監視者が、囚人=被監視者からは「見えない」ことにある。実際に監視者がいるかどうかにかかわらず、「見られているかもしれない」という規範の内面化こそが最重要なのだ。「見られているのではないか」という「想像」こそが監視社会を真に完成させる。ここには演劇の構造との相似形がある。実際には「ない」ものを「ある」と仮定する想像こそ、演劇を駆動させる原動力であり、観客という「不在の眼」に一方的に見つめられることこそが演劇を成立させる。だが、「舞台美術」として舞台中央に屹立し続ける「監視カメラ」の実在化は、パノプティコンの本質的な力とともに、メタ演劇論としての効力も削いでしまうのではないか。
 一方、演劇における「暴力」の表象の問題という観点からは、「監視カメラ」の設置は(舞台上の実在物であれ「想像」であれ)非常に示唆的だ。さまざまな「暴力」が俎上に乗せられる本作の終盤で、刺傷事件という流血を伴う「暴力」が起きる。「元ヤクザの用務員」が持っていたナイフが、当日来たばかりの男性派遣社員の手に(いつのまにか)渡り、見下した態度を取る「社長の御曹司」にキレて刺してしまうのだ。この「手から手へと手渡されるナイフ」は、「暴力の連鎖」のメタファーでもある。宛先を変えながら連鎖する暴力が「暴発」する瞬間であり、(是非はともかく)暴力で暴力に清算をつけるカタルシスだ。だが、返り血の付いたシャツを着た男性派遣社員がうろたえて室内に飛び込んでくるだけで、「刺した瞬間」は舞台上で「再現」されない。監視カメラには「映らない」。舞台上で起こることはすべて「フリ」であり、「本物の暴力」は起きないし、観客は見ることができないからだ。
 ラストシーン、ひとり取り残された女性派遣社員は、椅子を後ろへ引き、舞台と観客席の「あいだ」の位置から、「監視カメラの映像」を見返し始める。いつもの社内の光景を、だがどこか楽しげな茶番劇として「再生」する俳優たち。客席が次第に明るく照らされ、彼女と地続きになる。引きつったように笑い、「サイコー!」と叫ぶ女性。その言葉は、朝礼で連呼していた「最幸」という社名であると同時に、「自画自賛」でもある。「さらに外部から眼差す観客の視線」が入れ子状に存在する以上、「会社=演技空間を出た」はずの彼女は、「模範的な観客」という別の役を演じ続けなければならないのだ。

高嶋慈(たかしま・めぐみ)

京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。「京都新聞」やwebマガジン「artscape」にて美術・舞台芸術評を連載。共著に『不確かな変化の中で 村川拓也 2005-2020』(林立騎編、KANKARA Inc.、2020)、『身体感覚の旅──舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(富田大介編、大阪大学出版会、2017)。