西尾孔志(映画監督)演劇の『普通』からはみ出す細部への眼差しを主人公にも注いでほしい

冒頭から正直、戸惑った。
現在、映画や演劇など創作に関わる者なら避けて通れないのがルッキズムや様々なハラスメント、有害な男らしさ等の差別やジェンダーや力関係から生じる(それは作品内だけでなく、現場においてもの)諸問題で、ポリティカル・コレクトネスという言葉で社会的に公平な目線が叫ばれている昨今、今作品の冒頭は賢明な作家なら避けたい要素で満載だった。これは “あえて” 描いているのであろうことはわかる。単純なよくあるホモソーシャルで露悪的な作品という感触でもなかった。それなら「もうこういうの古いよ」の一言で片付く。どうもそんな単純な構造でもなさそうだ。舞台装置も真ん中に『2001年宇宙の旅』のモノリスのような無機質な壁が一つあるだけで、かなり抽象化されたもの。今作品はきっと一筋縄ではいかないのではないか。そう思ったから冒頭から戸惑った。

主人公は自分の容姿が女性に受け入れられないと信じて恋人ができずにいる中年男、西さん。これで西さんが女性嫌悪の方へと歪んでいって大量殺人事件でも犯す展開なら「はいはい、このパターンね」と一笑に付すのだが、西さんは女性嫌悪どころか、女性崇拝にすら見えるストイックで静かな生活をしている。西さんは馬鹿にされることには敏感だが、他者へ性欲を向けることを自ら禁じている。向けられた女性にとっては自分の性欲が暴力になりうると直感的か経験的に理解しているのだ。その点で無害なのだが、まわりの「こうあるべき」というお節介が西さんを揺さぶり、眠らせていた寂しさを目覚ませ、彼を崩壊させてしまう。結果、西さんに悲劇が襲う。

彼が出会う女性たちもまた、男性にとって都合のいい定型的な人物像のようでいて、作者によるズラシが行われている。彼女たちの何人かは西さんを一度は偏見なく受け入れる。しかし観客も意外に思うような形でそのうちの何人かは西さんを否定する。それはルッキズムによる「モテなさそう」という価値観ではなく、人として正面から付き合った結果、西さんが嫌になって去っていく。これはなんというか、フェアで良いと思った。

ちょっと演出的な話も。僕は西さんが「どう成熟するのか」を期待して見ていた。西さん自身も「ゆめちゃん(夢の中の恋人)のためなら成長してみせる」と言っている。アメリカ映画などでも「中年になった人物が自分の人生とどう折り合いをつけるのか」を描いた作品は多い。宗教的や民俗的な通過儀礼が無くなってしまった現代では「大人になるとはどういうことなのか?」と苦しみ、大人の実感の無きままに中年になってしまって不安定になったりする人は少なくない。だが西さんは中年の悩みなど持たない。この作品の西さんは成長・成熟をしないように見える。生まれてきた赤ちゃんのままのつるつるした感触の人物。それが西さんだ。そこから思ったのだが、西さんの脳内に繰り返し聞こえる「楽に死ねる薬」というささやき声は、西さんを死へ誘う言葉である一方、実は作者による別の意味があるのではないかと。マンガや映画など大量にあふれる「成長物語(ビルドゥングスロマン)」こそ、創作における安易な特効薬(楽に死ねる薬)じゃないかと作家が叫ぶ矜持の言葉なのではないか?と。西さんを観客の共感という快楽のために成長させたりはしないぞ、というアナウンスなのではないか?と。考えすぎかもしれないが、ここで気になるのが舞台をいきなりフィクション側にもっていく「殺し屋ジョニー」というデタラメな存在。そのファンタジー的設定とは裏腹に、彼はこの演劇の中で最もリアルに描写されていて異様だ。この物語が殺し屋と依頼人による車内の自然で日常的な会話で終わるところからも現実感を揺るがせることが作者の狙いなのがわかる。定形を殺しに来たジョニー。「楽に死ねる薬」と「殺し屋ジョニー」にはこの舞台に作者の反骨精神のような別のレイヤーを与えているように思う。

演出で面白かった点がもう一つ。演劇は舞台上に生身の役者が立っているため「身体性」は意識的せざるを得ない。カラダを持て余した結果、慣例的で必然性のないダンスや殺陣が始まったりする舞台がたくさんある。しかし今作品は「恋愛」が一つのテーマであるのに身体が強調されない。恋愛は映画や演劇においてしばしば「身体の距離」で表現される。距離100が距離0になるのが身体表現における最もわかりやすい恋愛の成就だ。ではこの舞台での身体表現はどこに注力されているか? それは声だ。西さんの夢の中の女と後半に出てくる風俗嬢=神様はわざわざマイクを通した音声で語りかけてくる。ASMRのような甘いささやき声が性的な匂いを客席に充満させる。そして肝心の距離0の身体は布団や暗転によって観客から意図的に隠されるのが面白い。また別に、西さんの同僚の二人の男は常に叫ぶような早口で喋る。役者の中には声を枯らしている者もいた。これは作者が狙ったものではないかもしれないが、少なくとも「声が枯れててもむしろ構わない」という選択肢が作者にあったと思う。最後に現れる殺し屋ジョニーの異様な暴力による身体性と対局に配置されるように、中盤までの物語は「声」が舞台上を支配する。時に上っ面な会話だったり、時に性的だったり、時に真摯だったりする声でつづられてきた西さんの日常を、カラダの暴力がかっさらっていくようで怖かった。

舞台演出としていろいろ面白い仕掛けがあり、才能のあふれる舞台だと思った。最後まで飽きずに観たし、楽しんだ。
だがしかし、やはり引っかかるのだ。

結論から言えば、この結末はないんじゃないかと、中年の僕は思った。
異性に縁がなかっただけの無害な中年男性の主人公に、作者はどういうつもりでこんな酷い仕打ちをするのか?これは何のメッセージなのか。容姿のさえないオジサンが女性にほんの少し好意を持つと残酷な報いがあるべきだという作者の悪意ある冗談だとしたら、その根底の思想はルッキズムだし、劇評を引き受けた身として違和感を書き残しておかねばならない。

冒頭いきなり「主人公は中年男性」「彼は童貞」「彼には自殺を誘う幻聴が聞こえている」と提示される。確かに2000年代くらいに「童貞」を扱った映画などが流行ったことがあるが、しかしこの数年で世の中の意識は変化した。性的経験を自分の有能さと思いたいがゆえに性的経験の無い者を笑うという男性心理の方が問題が多い(有害な男らしさ)という認識が広がり、童貞を笑いものにするような作品がメジャーから一気に減った。それを分かってか、今作品は童貞の西さんを笑い者にしたりはしない。女性たちに心を開いていくさまが丁寧に描かれる。中盤に出てくる、路上で泣いてる西さんに声をかける女の存在は、この作品の大きな希望となりえた。彼女の出現とその後の展開は、ここまでの西さんの弱者いじり的な描かれ方を大きく方向転換させ、居心地の悪さを感じてた観客に安堵感と幸福感を与えたのではないだろうか。しかし彼女も「彼氏が嫌がるので」という浅はかな結論で西さんのもとを去る。僕はここの表現を作者の悪意と感じてしまった。それは西さんだけでなく、女性に対しても。彼女が複雑な人格になるのを最後に否定してしまっているのだ。

これは個人的な価値観で言うのだが、弱者が「救ってくれ」と声をあげることを「悪いこと」と描くべきではないと思っている。確かに現実でそれが悪い方向へ向かうこともあるが、そう描くことは「救ってほしい」と声を上げる人たちへの抑止力として働いてしまう。西さんはけっして殺されるほどの悪いことをしていない。周りが西さんに「中年男性はこうあるべき」と押し付けているだけに思える。その結果、悲劇になる物語がダメという訳じゃないのだが、作者はわざわざ「殺し屋」を登場させてまで無理やり悲劇にしてしまった。「現実は残酷ですよ」という比喩かもしれないが、僕は作者が意図していようがいまいが、作者と主人公の間に「上下関係」を見てしまう。「マジでやってんじゃないですよ」と笑いながらグーパンしてくる「いじめの構図」に見えてしまうのだ。たとえばドキュメンタリー映画の場合、被写体に対してカメラの位置がどこにあるかが作家性や作家の倫理につながる。カメラの位置とはつまり、作者の目線の位置だ。現実の過酷さを描く作品の場合、この「カメラの位置」がどこにあるかが本当に重要になってくる。「道で泣いてる人がいたら声をかけたいと思う」という素敵なシーン。たぶん、作者もそう思ってるからこの優しいシーンができたと思うのだが、一方で照れも感じてしまった。目線を低い位置におくことへの照れが悪い方向に走ってしまったのではないか? そう思った。

セリフの中に「多様性」という言葉が出てくる。
だったら西さんは恋愛以外の価値観で他者と心の交流を取ることはできなかったのだろうか? 路上で西さんに声をかけた女性が、西さんと友人として過ごした日々のことを楽しそうに語る回想モノローグがある。そこには恋愛以外の価値観が溢れていたはずだ。しかし回想のみで省略されてしまった。中年まで生きてきた人間に「男女間の寂しさ」しかないのはあまりにも薄っぺらな人生じゃないか。彼女が「誰かが世界には敵ばっかりじゃないよって教えてあげないといけないんだよ」と言う。この重要なセリフをこの物語の結末にもう一度聞きたかった。「全然一人で耐えられる寂しさなんですよ、俺のは」と言える無害な西さんを「自己責任論」から救ってあげたかった。何度も書くがものすごく個人的な価値観なのだけれども、弱者が残酷な終わり方をする場合は、その構造をジャーナリスティックに提示するなり何なり、別のなにかを作家は用意すべきだと思う。ニヒルなポーズだけだと、もったいないと思う。才能ある作家さんだと思ったのと、自分自身の創作への戒めをこめてここに記す。

プロフィール

西尾 孔志(にしお ひろし)

映画監督。大阪市の若手育成映画祭「CO2」にて第1回グランプリを受賞。2013年『ソウル・フラワー・トレイン』にて「おおさかシネマフェスティバル」新人監督賞。監督作『キッチンドライブ』『函館珈琲』の他にプロデュース作品として宮崎大祐監督『VIDEOPHOBIA』、吐山ゆん監督『ゆかちゃんの愛した時代』も手がける。映画祭ディレクターや大学講師など後進のサポートにも力を注ぎ、現在はおおさか映画学校の代表をつとめる。