架空の田舎町で日常生活を営む人々をリアルベースの会話劇で描く群像劇だが、本作の最大の特徴かつ企図は、舞台空間の構造にある。壇上の舞台もひな壇の客席も取り払われたフラットな空間を、四方からぐるりと客席の椅子が取り囲む。囲まれた空間には、ベンチ、向かい合った椅子、ブルーシート、黄色い防鳥ネットで覆われたゴミ袋の山、植木鉢、ビニールシートとハンガーラックなどが孤独な島のように点在し、それらを見守るように4個の拡声器が頭上に吊られている。 開演=夜明けとともに始まるのは、点在する個々のアクティングポイントでそれぞれ営まれる、住民たちの日常生活の生態だ。重い腰でシャッターを上げ、ひなびた雑貨店の開店の準備をする老婆。自転車で通勤し、駐在所の業務をのんびりとこなす警官。小学生の娘を起こし、朝食や弁当をつくり、会社勤めの夫を送り出す主婦。毎日パンを買いに立ち寄る雑貨店が待ち合わせポイントになり、気になる同級生と登校する女子高校生。遅刻寸前でバタバタと駆けていく男子高校生たち。それらの一切に丸めた背を向けて、公園のベンチには年老いたホームレスの男が日がな一日座っている。学校のチャイムが鳴り、下校放送の音楽が流れ、夕日が町を照らす時刻になると、高校生たちは帰宅の途に就き、バイトに向かう者は会社帰りの男とすれ違い、老婆や警官は店や駐在所を閉め、平穏な一日が終わりに向かう。暗転、そしてまた朝。人々は同じような会話と動作を繰り返す。 見ている内に、日常生活でありそうなディティール、彼らの「生態」を観察している感覚を味わう。この「観察者の視線」は、人間たちの生活の傍らで並列的に存在する「カラス」たちによって、劇中空間に入れ子状に形成されている。一様に黒服をまとい、黒い傘で顔を隠した「カラス」たちは、防鳥ネットをつつき、ホームレスの男が投げるパンくずをついばみながら、じっと人間たちの生態を観察しているのだ。 だが、淡々とした日常の反復の中、歯車が少しずつ狂うような違和感が醸成され、終盤である「事件」が起こる。違和感の醸成のひとつは、舞台上の「カラス」たちの数が次第に減り、気付くと一羽もいなくなっている事態だ。序盤、町の外から来た者は「この町はカラスが多い」と言うが、「最近、カラス見ないよね」「隣町ではカラスが増えたから害獣として駆除したらしい」という台詞がさりげなく交わされ、「カラス」=外国人・移民とその排除のメタファーともとれる。また、「隣町で大きな国際的なお祭りがある」と浮かれる高校生たちや、「宿泊施設が足りないため、建設の立ち退き交渉に弁護士がやってくる」事態は、東京オリンピックあるいは大阪万博を示唆するだろう。 表面的な平穏さと忍び寄る閉塞感という、現代日本の縮図のような架空のこの町をめぐる本作で、一つのテーマとして浮上するのが「家族」である。病気がちのうえ、「引っ越した転校先で友達ができない」ことを両親に言えず、家庭に居づらい小学生の娘は、同じく孤独を抱えるホームレスの「おじさん」にむしろ親近感を抱き、登下校時に毎日立ち寄ってパンを渡し、胸の内を語りかける。だが彼は、実はある男子高校生の父親であり、アルコール中毒とDVで離婚したらしいことが、会話から推察される。息子から憎悪の言葉を投げかけられつつ、完全には見捨てられずに食事の差し入れで生きている彼が、「家族外」の少女に慕われるという皮肉。黙したままの彼の心境の複雑さ。だが、ゴミあさりでカップ酒を発見した彼は、誘惑に勝てず飲酒してしまう。そして夜の公園に立ち寄った少女は、肝試し兼ホームレス狩りに来た高校生たちに勘違いされ、バットで殴り殺されてしまう。カラスの死体にそうしてやったように、少女の身体を土に埋めようとするホームレスの男。その場面を目撃した息子は、空の酒瓶を見て、「酒に酔った父親が(また)暴力を振るってしまった」と早合点し、いったんは父親を連れてその場から逃げるが、再び公園のベンチに戻り、意を決して携帯電話をかけようとする。そこへ自転車で通りがかった警察官と目が合う。「彼の口からどんな言葉が飛び出すのか」、選択と分岐点と緊張感が凝縮されたまさに「劇的瞬間」のただ中で、幕切れとなる。 本作は、「ドラマを見た」というより、「ドラマの生成に向かう時間」の持続や緊張感を見続けた感覚に近い。また、個々のアクティングポイントが等価に並列化され、会話や動作が同時多発的に進行し、それらを全方向から取り囲む客席の構造において、視点にも中心性はない。こうした舞台空間/視点の双方における中心性の欠如と、ドラマとしての中心性(例えば「主人公」)や求心力を持たない構造をリンクさせる点に、本作の企図がある。 ラストは鮮烈だが、その印象の強さに比べて、個々の人物造形はいささか記号的で平板に感じられたのが残念だった。それぞれの会話の構築の密度を詰め、かつ(「見落とし」のリスクを引き受けつつ)出来事の同時多発性の精度を上げ、「多焦点性」「脱中心性」「観客の全貌把握の阻害」という構造と内容面との関連の必然性をより高めれば、今後化ける可能性があるだろう。
高嶋慈(たかしまめぐみ)
美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン artscape にてレビューを連載中。共著に『身体感覚の旅―舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会、2017)。
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高嶋慈脱中心的な構造のなかで、「ドラマの生成に向かう時間」を見続ける
架空の田舎町で日常生活を営む人々をリアルベースの会話劇で描く群像劇だが、本作の最大の特徴かつ企図は、舞台空間の構造にある。壇上の舞台もひな壇の客席も取り払われたフラットな空間を、四方からぐるりと客席の椅子が取り囲む。囲まれた空間には、ベンチ、向かい合った椅子、ブルーシート、黄色い防鳥ネットで覆われたゴミ袋の山、植木鉢、ビニールシートとハンガーラックなどが孤独な島のように点在し、それらを見守るように4個の拡声器が頭上に吊られている。
開演=夜明けとともに始まるのは、点在する個々のアクティングポイントでそれぞれ営まれる、住民たちの日常生活の生態だ。重い腰でシャッターを上げ、ひなびた雑貨店の開店の準備をする老婆。自転車で通勤し、駐在所の業務をのんびりとこなす警官。小学生の娘を起こし、朝食や弁当をつくり、会社勤めの夫を送り出す主婦。毎日パンを買いに立ち寄る雑貨店が待ち合わせポイントになり、気になる同級生と登校する女子高校生。遅刻寸前でバタバタと駆けていく男子高校生たち。それらの一切に丸めた背を向けて、公園のベンチには年老いたホームレスの男が日がな一日座っている。学校のチャイムが鳴り、下校放送の音楽が流れ、夕日が町を照らす時刻になると、高校生たちは帰宅の途に就き、バイトに向かう者は会社帰りの男とすれ違い、老婆や警官は店や駐在所を閉め、平穏な一日が終わりに向かう。暗転、そしてまた朝。人々は同じような会話と動作を繰り返す。
見ている内に、日常生活でありそうなディティール、彼らの「生態」を観察している感覚を味わう。この「観察者の視線」は、人間たちの生活の傍らで並列的に存在する「カラス」たちによって、劇中空間に入れ子状に形成されている。一様に黒服をまとい、黒い傘で顔を隠した「カラス」たちは、防鳥ネットをつつき、ホームレスの男が投げるパンくずをついばみながら、じっと人間たちの生態を観察しているのだ。
だが、淡々とした日常の反復の中、歯車が少しずつ狂うような違和感が醸成され、終盤である「事件」が起こる。違和感の醸成のひとつは、舞台上の「カラス」たちの数が次第に減り、気付くと一羽もいなくなっている事態だ。序盤、町の外から来た者は「この町はカラスが多い」と言うが、「最近、カラス見ないよね」「隣町ではカラスが増えたから害獣として駆除したらしい」という台詞がさりげなく交わされ、「カラス」=外国人・移民とその排除のメタファーともとれる。また、「隣町で大きな国際的なお祭りがある」と浮かれる高校生たちや、「宿泊施設が足りないため、建設の立ち退き交渉に弁護士がやってくる」事態は、東京オリンピックあるいは大阪万博を示唆するだろう。
表面的な平穏さと忍び寄る閉塞感という、現代日本の縮図のような架空のこの町をめぐる本作で、一つのテーマとして浮上するのが「家族」である。病気がちのうえ、「引っ越した転校先で友達ができない」ことを両親に言えず、家庭に居づらい小学生の娘は、同じく孤独を抱えるホームレスの「おじさん」にむしろ親近感を抱き、登下校時に毎日立ち寄ってパンを渡し、胸の内を語りかける。だが彼は、実はある男子高校生の父親であり、アルコール中毒とDVで離婚したらしいことが、会話から推察される。息子から憎悪の言葉を投げかけられつつ、完全には見捨てられずに食事の差し入れで生きている彼が、「家族外」の少女に慕われるという皮肉。黙したままの彼の心境の複雑さ。だが、ゴミあさりでカップ酒を発見した彼は、誘惑に勝てず飲酒してしまう。そして夜の公園に立ち寄った少女は、肝試し兼ホームレス狩りに来た高校生たちに勘違いされ、バットで殴り殺されてしまう。カラスの死体にそうしてやったように、少女の身体を土に埋めようとするホームレスの男。その場面を目撃した息子は、空の酒瓶を見て、「酒に酔った父親が(また)暴力を振るってしまった」と早合点し、いったんは父親を連れてその場から逃げるが、再び公園のベンチに戻り、意を決して携帯電話をかけようとする。そこへ自転車で通りがかった警察官と目が合う。「彼の口からどんな言葉が飛び出すのか」、選択と分岐点と緊張感が凝縮されたまさに「劇的瞬間」のただ中で、幕切れとなる。
本作は、「ドラマを見た」というより、「ドラマの生成に向かう時間」の持続や緊張感を見続けた感覚に近い。また、個々のアクティングポイントが等価に並列化され、会話や動作が同時多発的に進行し、それらを全方向から取り囲む客席の構造において、視点にも中心性はない。こうした舞台空間/視点の双方における中心性の欠如と、ドラマとしての中心性(例えば「主人公」)や求心力を持たない構造をリンクさせる点に、本作の企図がある。
ラストは鮮烈だが、その印象の強さに比べて、個々の人物造形はいささか記号的で平板に感じられたのが残念だった。それぞれの会話の構築の密度を詰め、かつ(「見落とし」のリスクを引き受けつつ)出来事の同時多発性の精度を上げ、「多焦点性」「脱中心性」「観客の全貌把握の阻害」という構造と内容面との関連の必然性をより高めれば、今後化ける可能性があるだろう。
高嶋慈(たかしまめぐみ)
美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン artscape にてレビューを連載中。共著に『身体感覚の旅―舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会、2017)。
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