nidone.works 渡辺たくみ壱劇屋『空間スペース3D』

半年程前まで、演劇の脚本や演出を生業とするべく悪戦苦闘した。しかし今は会社に勤めている。その理由は、人を思いやれる常識をもって、面白い非常識がわかる大人でいたいからだ。あと貯金残高にヒヤッとしたからでもある。今は参加費4000円の会社の忘年会へ参加を迷っている。あぁ、どうしよう。そんな年末シーズン直前に壱劇屋の演劇を初めて観た。

ドン!ドン! ドン!ドン!上演が始まり、力強い四つ打ちのビートに合わせて放たれる言葉は、本作のタイトル「空間スペース3D」。考える前に感じて!そう受け取れるオープニングは下町の高架下で夜な夜な盛り上がるクラブのように怪しげで、光と音が鋭くスタイリッシュに空間を操っていた。本作は劇場空間が「昔は劇場だった廃墟」として位置付けられ、その敷地をめぐって起きる事件と、一次元・二次元などの別の次元でも物語が展開し交差していく群像劇だ。上演中は決まった舞台の裃が存在しない。お立ち台のような舞台も劇中で移動し、観劇場所も目まぐるしく変化する。限りのある場所を使って、限りの無い場所を表現する壱劇屋の演出的な遊び心が面白く、95分の上演時間をあっという間に感じるほど魅了された。しかし、終演後にロビーで耳にした「ぜひ公演の感想をツイートしてください」という言葉が妙に引っかかる。壱劇屋が嫌いという訳ではないが「ツイートしてたまるもんか!」と胸の奥で呟いた。それはこの作品に感化された証拠である。

そもそも本作のメッセージ性を、私は社会風刺に捉えた。劇中で描かれていたのは、長さ・質量・空間・次元などをはじめとする様々な尺度の基準が複雑化するあまり、モノとモノとの関係性や距離感を把握する事ができず、その場の雰囲気に流されて行動してしまう社会の縮図ではないだろうか。上演中は演者から観客に「シット、ダウン、プリーズ。お座りください。」と音楽的に座る行為を呼びかけられる事もあれば、敷地に不法侵入した人物として観客が扱われ「立ち退け~」と立ち上がる行為を呼びかけられる事もある。演出家と役者達が試行錯誤しているであろう観客が参加するシーンで、私たちはその場の空気を読みながら呼びかけ通りに動く。ここで一つ押さえておきたい。電車の車内で優先座席を譲る。その行動ひとつでも、相手に座って欲しくて譲っているのか、席を譲る姿を周囲に見せたくて譲っているのかでは全く目的が変わる。このように状況を推察して行動を選択する一連の流れは、何のために行われているのかが肝である。

劇中に観客が十数名ごとに束にされ、メジャーをロープかのようにして囲まれるシーンがある。私もこれといった抵抗はせずメジャーの内側に入った。すると、囲まれたメジャーの中にいる一人が急に苦しみ倒れる。勿論これは演者が観客に紛れていた事実に過ぎないが、自分が選んだ何となくの行動が物語上のモブ役として成立してしまい、私は劇中の事件に関与してしまった感覚になった。これはハロウィンの日の渋谷でトラックが横転する光景を目撃した夜、「渋谷に集まる若者」として一括りにされたニュース映像をテレビで見るような感覚に近いのかもしれない。事件を起こしていなくても、空間に居合わせるだけで事件に関与してしまう事が世の中では多発している。一見楽しく清々しさも感じるこの公演には、そのような危うさも表現されていた。

2019年の今、テクノロジーの進化によって目に見える情報の量が増え過ぎた結果、パーソナルスペースとその外にあるものとの距離感を、共通したモノサシで図ることは難しい。その傾向があるからこそ、その場の状況を捉えて、個人で考え、他者からの視点も考えた上で行動を選択する事は、欠かす事のできない順序のように思う。あらゆるハラスメントも今になってようやく大きく取り上げられ始めたのは、その順序が抜け落ちているにも関わらず、テクノロジーだけが先を走ってしまう現象が理由とも言えるだろう。 その点で「空間スペース3D」は多次元を舞台にしたサイバー群像劇にみえて、全く技術の発展に対応できていない人間の様子を描いた群像劇だった。それも、誰もが主役になり得る群像劇ではなく、誰も主役にはなれない群像劇である。

主役にはなれない報われなさや寂しさが漂う渦中にyoutuberや引きこもりの若者が登場するが、人間以外の存在であるゾンビ・アンドロイド・点Pなどを通して描かれる人間的な感情にフォーカスするシーンが素晴らしかった。そういったシーンに注目すると「生命の宿る場所」についても、本作を捉えるには大きなテーマだったように思う。作品の冒頭、防護服で顔が認識できない演者がキレの良いダンスとともにスポットライトを浴びるシーンがある。その状況において舞台上の防護服が誰かなのかは重要ではない。だが、作品が進んでいくに連れて時に丁寧に描かれるのは、生きている事も死んでいる事もない存在同士の小さな言葉のやりとりだ。本当は存在しない画面上のアバターに夢中になる私たちは、そこに強烈な「生」の要素を感じているからこそ魅力を感じているのだろう。その根源には「人は生きているものが好き」という生理的な好奇心の存在がある。そして鼓動を打たない物でさえも「生きている」と捉える事は、他者から侵される事のない愛情とも言えるだろう。

この作品は感じる事よりも考える事に価値のある作品なのかもしれない。この「考える」とは「物語の内容について考える」ことではなく、自分がなぜここに居て、なぜこの劇と出会い、なぜ他人と言葉を交わすのかを考える事だ。そう思うと、自分がいる空間のジャンルなどは然程重要ではなく、何を考えてこの地に足をつけて立っているか認識しておく事が大切な気もする。後悔を覚悟して、会社の忘年会へは出席しよう。

プロフィール

渡辺たくみ

nidone.works 代表 / 劇作家 / 演出家。1995年生まれ、大阪府吹田市出身。
2016年、京都造形芸術大学舞台芸術学科を在学中に、固定メンバーを決めず活動を開始。
銭湯・音楽・ご飯など、幸福感が溢れるモチーフを用いて、生活空間の延長上に彩度の高いフィクションを演出している。
観客にこどもの存在を見据えた観客参加型・ツアー形式の演劇作品を中心に、
ラジオドラマの脚本、ミュージックビデオの監督、ワークショップの講師としても活動中。
nidone.worksのウェブ上にて、たまにのエッセイ『テレビとラジオ』を連載中。



nidone.works やまもとかれん壱劇屋『空間スペース3D』

劇団壱劇屋本公演『空間スペース3D』。音楽的、ダンス的、空間的要素、どれもが役者達の魅力を引き出し、さらに観客を無理なく劇へ巻き込む技術で、ストレスなく楽しめる参加型エンターテイメントというのが全体的な印象だった。

カップル、刑事、ひきこもり、ゾンビなど20名近い役者が演じる輪郭のはっきりしたキャラクターよって、現代社会への風刺とも取れる表現を込めつつ、気づけば一つのストーリーが見えてくる。この群像劇(登場人物を一人一人にスポットを当て集団が巻き起こすドラマを描くスタイル)を観劇しているうちにふと、印象派画家の巨匠クロード・モネの作品がよぎる。

“たとえば、黄色と青を細かなタッチで配置すると、近くで見ると色の集合体にしか見えない絵が、やや離れたところから鑑賞すると、鑑賞者の網膜に「緑」として認識されるのです”
(瀧澤秀保『366日の西洋美術』 三才ブックス, 2019年, p.261)

色の移ろいを表現するためにモネが生み出した筆触分割という技法についての文章だ。群像劇の中でクセの強いキャラ達が交差しはじめ、徐々に土地争奪戦に発展していく。交差によってひとつの物語になることにワクワクできる群像劇と、色を要素として組み合わせた全体像で人々を魅了した印象派に共通点を発見した。唯一無二な主役やその演出を求める事だけが演劇では無いと考えさせられる。

クセの強い群像を楽しむ中、ネット上ではアバターとして人気を集めるひきこもりのたもつが訴えるように叫んだ"日常のゴミは捨てれるけど、空間に充満した不満はいつ捨てるんだ!!!!"というセリフが、(うわ、その通りすぎるよ!!)と筆者の共感を呼んだ。大人になって自由になれば生きるのがラクになると思っていた。実際は年を重ねても晴れることのない陰鬱な気持ちや辛いモノが付き纏ったまま、それでも私たちは人生を回していくしかないのだ。原因もはっきりしない日常の疲れやモヤモヤをどうやって処理すればいいものか。

物語は終盤に差し掛かり、社会の単位まで広がった不満やグロッキーな感情を暗示するように、舞台上にもゴミ袋がどんどん積み上がっていく。そして、ごちゃごちゃになってしまった理や次元を統一するため、観客も登場人物も全員集合の"祭"が始まる。

ここで正直(え?!結局お祭騒ぎなノリで締めちゃうんですか?!)と感じた。どうしてこのフィナーレを選んだのか。おかしいようにも感じたが、そこまで強い違和感も感じない。なぜだろうか、祭についてリサーチしてみよう。

祭りの起源を追っていくと、日本神話の"岩戸隠れ"というエピソードにたどり着いた。怒って岩戸に隠れてしまった神アマテラスに出てきてもらうためにひらかれた宴によって、アマテラスは岩戸から顔を出し世界に光が戻る。人間たちが神様をもてなし自分たちのところに呼ぶために祭りが存在したのだ。長い歴史の中で神仏分離の影響もあったりと祭りの形式は多様化したようだ。(日本の祭りの歴史と変遷(最終閲覧日 : 2019/12/25))

どうしようもない環境の変化や、あらがえない不安に対し、どう処理してきたのだろう?と先程ピックアップしたひきこもりのたもつのセリフからも疑問に思っていたのだが、つまるところ、歴史的に日本人が出してきた答えの一つが、"祭"なのだ。あまりに自然で違和感がない。たとえば音楽フェスや、演劇フェスなど大勢の人間が集まり一体感を感じながらイベントを楽しむといった、これも形を変えた現代の新しい祭と言えると思う。発展していく社会、sns、人工知能etc...取り残されて処理しきれない私たちの心の拠り所にお祭り騒ぎというフィナーレで救おうとしてくれたのかもしれない。

『空間スペース3D』が発展した社会による現代を風刺している一面をもつ作品とするならば、実際のところこの群像劇を本当に鑑賞しているのはYouTuberにより中継されたライブ映像を見てる人たちや、観客が参加している様子や役者を優先座席から座って観劇している人たちだったというトンデモ現代社会風刺劇というオチになってしまうのでは?!とも考えたが、壱劇屋という劇団は、多分だけれど、そういった効果は狙わなかったのだろう。
現代の風刺的なモチーフ取り扱っていたとしてもあくまで作品が"マルチな娯楽"(壱劇屋HPに掲載、とても素晴らしい言葉だと思う。)になることが重要であり、観客に風刺的な作品の感想もってもらいたいのではなく、作品に参加しながらストーリーを空間の中で楽しんでもらい、キャラクター達と祭を作りあげて熱いライブ感を持ち帰ってもらうのが一番だったのだ。演劇に参加してもらいながら、誰でも純粋に楽しむことができる観客に寄り添った公演として完成していた。 

プロフィール

やまもとかれん

nidone.works 美術・小道具・パペット担当。1996年生まれ大阪府出身。
京都造形芸術大学舞台芸術学科で舞台美術を中心に学ぶ。
在学中に同期の渡辺たくみとnidone.worksに出会い、仲間とおもしろおかしく作品を作る楽しさに目覚める。
nidone.works卒業制作公演『おにぎりパン!』の舞台美術は学内の優秀賞を受賞。
2018年に同大学を卒業後も、大人も子どももクスッと笑えて温かくなれるようなデザインを心掛けている。