神戸アートビレッジセンターにて、匿名劇壇『大暴力』を観た。全体が三十以上のセクションに分けられて展開する、いわゆる構成劇。現代日本の日常描写、いじめの情景、恋愛の情景、アニメ的ベタな学園風景、戦場、など様々なシーンが挟み舞台でテンポよく場面転換しながら進んでいく。ともすればスキゾフレニックにバラバラになってしまいそうな作品だが、状況が変わっても登場人物がずっと同じ役名(実名ではない)で呼ばれること、そして繰返しこの劇自体を稽古していると思われる「匿名劇壇の稽古場」風のシーンに帰ってくることで、全体にひとつの舞台作品としての統一感が生じていた。いや、一見するとこの劇では様々な場面が縦横に描かれているようだが、その実、底流には常に一貫したテーマが流れており、ほとんど徹底的といっていいぐらいそのテーマから離れることはないのだ。そのテーマとは、タイトルにも示される通り「暴力」、あるいは「暴力性」に他ならない。ただ、DVやいじめの場面など、実際の「暴力(バイオレンス)」が描かれると同時に、「告白に失敗してしまう」などという心理的な「暴力性」にも言及していく舞台だったので、以下、その二つを区別しつつ論じていきたい。 匿名劇壇の福谷は上記のような舞台作品を作るにあたって、さまざまな場面、階層において同一の構造を反復するという手法を取った。それを定式化すれば、「Aであると分かっているのにAではないフリをする」ということにでもなるだろうか。たとえば、「いじめである」と分かっているのに、「いじめではない」フリをするいじめっ子。「パワハラである」と分かっているのに、「パワハラ」としてSNSで発表することを許さない演出家。「デートDVである」と分かっているのにそれを「優しさ」にすり替える恋人。などなど。極めつきは、何度も繰返される「匿名劇壇の稽古場」風の場面において、ほとんど必ず「これはまだ本番ではない」という文字が映像によって示されることが挙げられよう。観客が入っていて、作品を観せているのだからこれが本番でないわけはない。そんなことは観客も演者もわかっている。だが、何度でも繰返し「これはまだ本番ではない」と題された「匿名劇壇の稽古場」風の場面はその文字映像とセットになって繰り返されるのだ。要するに上演自体にひとつの暴力性を孕みながら、この劇は進行していくのである。 おそらく福谷は悪意や敵意そのものの中に暴力は無く、むしろ「そうであると認識しながらそうではない何かにすり替えていく」という、その手つきの中にこそ、その本質を見出したのではないだろうか。だからこそ、いじめられっ子は極めて真剣な調子でいじめっ子たちに復讐的な言葉を連ねていくことになる。 「反省とか後悔とかじゃないんで。成長とかじゃないんで。見せ方とか解釈の問題じゃないんで。今のこれは。今、この瞬間のこれは。ほんまに、そうなんで。なんか今、泣いて、ちょっと時間が進んで、泣いて、なんか、過去みたいにしてると思うんですけど、全然、さっきの今は、ずっと今なんで、今も。その、そういうのがほんまに、全然違う、そういうことじゃないんで。・・・わかってます? (客席を向いて)あの、皆さんも、ほんまにそういうの、やめて欲しい。懺悔とか、全然、そういうことじゃないんで」 彼は、彼の抗議が暴力の場、すわなち、力と力のぶつかり合い、他者に攻撃を加え/加えられる、という場において作用することを丁寧に、しかし断固として拒絶する。彼は実際になされた暴力を「暴力ではない何か」にすり替えることを許さず、その場、その瞬間において確かになされた暴力の前に留まれ、と要求するのだ。反省し、あるいは謝罪して、過去の行為を「悪かった」と自ら断罪することすら彼は許さない。暴力がなされた、という厳然とした事実の前に留まり、目を逸らすな、ということだけが彼の要求なのである。 このあたりにこの作品の可能性の中心を僕は見た。上記のような抗議は非常に激烈な抗議であると言えるだろう。たとえば、ベトナム戦争におけるソンミ村の虐殺、という歴史的な事実に対しても彼の「抗議」は有効である。おそらく彼は米軍が無抵抗な丸腰の民間人を特別な理由なく虐殺したという、かの事件の圧倒的な暴力をもちろん許さないであろうし、その暴力の隠蔽や、「あれは戦闘行為の一貫であった」という正当化も許さないであろう。そして、「あれは戦争犯罪であった。申し訳ない」という謝罪すらも許さないのだ。「暴力を行ったものに対しては、その謝罪すらも許容しない」というこの態度の激烈さはもっと大きなテーマ、より普遍的な問題を彼らが描いていく上での強力な武器になるに違いない。あるいはその態度は、ハンナ・アレントがアイヒマン裁判において行った言動にも通じていくだろう。彼女はアイヒマンを始めとするナチスが行った巨大な暴力をもちろん許さなかったが、それと同様にアイヒマンなる人物を悪魔化し、「この男は人間じゃない、悪魔だ」などという言説もまた許さなかった。何万、何十万というユダヤ人を殺害するに至る命令を下し続けたアイヒマンという男もまた悪魔ではなく人間であり、しかも凡庸な、至って普通の人間であった、という彼女の主張は、この劇のいじめられっ子の彼が主張したことと同様、過去におきた暴力を物語化して消費していくことに対してなされた抗議に他ならない。 と、まあ、少し話が逸れてしまったが、以上の点に僕はこの劇の、あるいはこの作家・劇団の大きな可能性を感じた次第である。 次にもう一点、特筆すべき上演成果として彼の描き出した心理的な暴力、すわなち暴力性の問題について述べたい。二つのシーンについて書こう。ひとつはストリート・ミュージシャンのシーン。もうひとつは男が友人関係を持っている女に告白してフラれてしまう、というシーンである。 ストリート・ミュージシャンのシーンにおいては、いわゆる「暴力」、バイオレンスは描かれない。むしろこの場面で描かれたのは「原発をこの町に作るのは嫌だけど、世界から原発が無くなったらもっと嫌だからこの町に作ってもいいよ♪」と歌う、妙に聞き分けのよい、言うなれば「公共性」を持ったシンガーたちだ。ストリート・ミュージシャンは火葬場やゴミ処理場など、様々なバリエーションで自分の町に欲しくないものを挙げ、ことごとくそれらを受容する歌を歌う。まったく聞き分けがよい。しかし、舞台上ではこの歌を歌っているすぐ傍で、ひとりの女が前のシーンで散乱した小道具を丹念に片付けるという行為が同時進行しており、シンガーたちはそれを手伝うことは決してない。ここで描かれた皮肉は、「苦痛を受容する」態度を宣言するものたちは、決してその「受容」の責任を自ら引き受けるわけではなく、無言のままに片付けを続ける女ひとりが「受容」を強いられ、結果として責任を取らされる、というものだ。このシーンは、言葉によって暴力的なものが何一つ語られないだけにとりわけ印象に残った。あえて前述の定式にあてはめて表現すれば、シンガーたちは「苦痛を受容すべきものは僕たち」であると分かっているにも関わらず、自分たちはひたすら歌い続けて掃除の手伝いをせず、あたかも「苦痛を受容すべきものは僕たち」ではないかのように振る舞っている。そこに「暴力」が発生しているのだ。 もうひとつ、女性に告白してフラれる男のシーンだ。ここで感じたのは「痛み」は暴力が無くても発生する、という当たり前の事実だ。このシーンではごくありふれた若い男女の「告白失敗」の情景が描かれていた。男が女を好きになり、思いつめた内容の手紙を書いて見事にフラれる。そう、ここまでは何の悪意も暴力もない。が、しかし、すでに痛みはそこにある。そして、女の側が「実は気づいていた」と発言するあたりから「痛み」に遅れて「暴力」が現れてくる。なぜか。女は、「男が自分を好いている」と分かっていたのに、「男が自分を好いていない」かのように振る舞ってきたからだ。そこには当然、暴力が潜んでいる。フラれた男が自分のラブレターについて、「これはもはやゴミだね」と宣言した時、女は事実としてはそれに同意するしか無いはずだ。が、そういったことは言わない。あるいは、言えない。代わりに女は、「ゴミじゃないよ」と言う。「手紙がゴミである」と分かっているのに、「ゴミではない」フリをして、さらには、「それが欲しい」かのように振る舞って、「見せて」「ちょうだい」などと迫る。欲しくもない「ゴミ」であるはずの手紙を欲しがるという身振りの中に、フラれた男は最大級の暴力を感じて非常に強い「痛み」を感じることになるわけだ。これがあのシーンで起きていた「暴力行為」の内実ではないだろうか。 最後にこの劇のラストについて書こう。大変、興味深く、おもしろい終わり方だった。物語の終盤、「匿名劇壇の稽古場」風のシーンに変化が起きる。暴君のようにパワハラの当事者を演じていた演出家役が、「暴力シーンだけピックアップしよう」と指示を出すと、劇団員役の俳優たちはその場面を演じ始める。だが、ここでそれぞれの俳優たちが相手役に対して「あ、ごめん、痛くなかった、今?」「大丈夫?」などといって配慮を示すのだ。「痛みであると知りながら痛みではないフリ」を演じてきた当事者たちが突如、痛みを痛みとして認識し、行為する。ここにおいて暴力の定式は崩れ、配慮と思いやりが暴力を中和して大変優しい雰囲気が舞台上に満ちていく。あたかも、暴力はこのようにして乗り越えられるのだ、という提示のようにも見える終盤のシーンであった。だが、物語はまだ終わらない。確かに、明らかに優しさに満ちた雰囲気が舞台上の緊張を弛緩させ、物語は収束に向っていく気配だ。終わりは近い。だが、観客も演者もすでに知っているのだ。暴力は無くても痛みはある、と。さらに私たちは告白のシーンにおいて、配慮の形を取った暴力、というものもあると知っている。だから、私たちはこう思わざるを得ない。「今、ここで示されている『優しさ』や『配慮』が、どうして『配慮』の皮を被った『暴力』ではないと言えるのか?」、と。どんな場面においても、配慮の中にこそ暴力性は浸透し、それを犯していくものだ。心配する行為や、心配を軽減しようとする振る舞いの中でこそ私たちはより多くの偽りを、つまりは「Aではないフリ」を量産していくのだから。 その後、舞台上には映像によって「これはまだ本番である」というごく当たり前のことが示される。この映像によって観客は奇妙な場所に追い込まれる。そう、まだ本番である。カーテンコールどころか、俳優が現に舞台上で演技を続けているではないか。それでも「これはまだ本番である」とわざわざ示されてしまうと、むしろ、すでに物語は終わり、舞台は終わってしまったのではないか? と私たちは思わされてしまう。「本番が本番であると知りながら、本番ではないフリ」を演じてきた俳優たちは、今や「本番が本番である」と宣言して偽りを排し、つまり暴力を中和して優しさを身にまとった。が、しかし、その時にこそすでに物語は終わっていて、「すでに本番ではない」かもしれない時間が流れている。「私たちは暴力を配慮によって中和し、乗り越えることができました」とでも言いたげなラストは、その背後に、「私たちは暴力を乗り越えることはできない」と、分かっているのにそうではないフリをする、というこの劇全体が持っている「暴力」が顔を覗かせている、という訳だ。実にニクい、ラスト・シーンだった。
広田淳一
劇作家/演出家/脚本家 劇団アマヤドリ主宰。さりげない日常会話ときらびやかな詩的言語を縦横に駆使し、身体性を絡めた表現を展開。簡素な舞台装置と身体的躍動感を必須としながらも、あくまでも相互作用のあるダイアローグにこだわりを見せる。日本演出者協会主催 若手演出家コンクール2004 最優秀演出家賞受賞(『無題のム』にて)、佐藤佐吉賞 最優秀演出賞・優秀作品賞受賞(2005年『旅がはてしない』)。
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広田淳一匿名劇壇『大暴力』@(神戸アートビレッジセンター)
神戸アートビレッジセンターにて、匿名劇壇『大暴力』を観た。全体が三十以上のセクションに分けられて展開する、いわゆる構成劇。現代日本の日常描写、いじめの情景、恋愛の情景、アニメ的ベタな学園風景、戦場、など様々なシーンが挟み舞台でテンポよく場面転換しながら進んでいく。ともすればスキゾフレニックにバラバラになってしまいそうな作品だが、状況が変わっても登場人物がずっと同じ役名(実名ではない)で呼ばれること、そして繰返しこの劇自体を稽古していると思われる「匿名劇壇の稽古場」風のシーンに帰ってくることで、全体にひとつの舞台作品としての統一感が生じていた。いや、一見するとこの劇では様々な場面が縦横に描かれているようだが、その実、底流には常に一貫したテーマが流れており、ほとんど徹底的といっていいぐらいそのテーマから離れることはないのだ。そのテーマとは、タイトルにも示される通り「暴力」、あるいは「暴力性」に他ならない。ただ、DVやいじめの場面など、実際の「暴力(バイオレンス)」が描かれると同時に、「告白に失敗してしまう」などという心理的な「暴力性」にも言及していく舞台だったので、以下、その二つを区別しつつ論じていきたい。
匿名劇壇の福谷は上記のような舞台作品を作るにあたって、さまざまな場面、階層において同一の構造を反復するという手法を取った。それを定式化すれば、「Aであると分かっているのにAではないフリをする」ということにでもなるだろうか。たとえば、「いじめである」と分かっているのに、「いじめではない」フリをするいじめっ子。「パワハラである」と分かっているのに、「パワハラ」としてSNSで発表することを許さない演出家。「デートDVである」と分かっているのにそれを「優しさ」にすり替える恋人。などなど。極めつきは、何度も繰返される「匿名劇壇の稽古場」風の場面において、ほとんど必ず「これはまだ本番ではない」という文字が映像によって示されることが挙げられよう。観客が入っていて、作品を観せているのだからこれが本番でないわけはない。そんなことは観客も演者もわかっている。だが、何度でも繰返し「これはまだ本番ではない」と題された「匿名劇壇の稽古場」風の場面はその文字映像とセットになって繰り返されるのだ。要するに上演自体にひとつの暴力性を孕みながら、この劇は進行していくのである。
おそらく福谷は悪意や敵意そのものの中に暴力は無く、むしろ「そうであると認識しながらそうではない何かにすり替えていく」という、その手つきの中にこそ、その本質を見出したのではないだろうか。だからこそ、いじめられっ子は極めて真剣な調子でいじめっ子たちに復讐的な言葉を連ねていくことになる。
「反省とか後悔とかじゃないんで。成長とかじゃないんで。見せ方とか解釈の問題じゃないんで。今のこれは。今、この瞬間のこれは。ほんまに、そうなんで。なんか今、泣いて、ちょっと時間が進んで、泣いて、なんか、過去みたいにしてると思うんですけど、全然、さっきの今は、ずっと今なんで、今も。その、そういうのがほんまに、全然違う、そういうことじゃないんで。・・・わかってます? (客席を向いて)あの、皆さんも、ほんまにそういうの、やめて欲しい。懺悔とか、全然、そういうことじゃないんで」
彼は、彼の抗議が暴力の場、すわなち、力と力のぶつかり合い、他者に攻撃を加え/加えられる、という場において作用することを丁寧に、しかし断固として拒絶する。彼は実際になされた暴力を「暴力ではない何か」にすり替えることを許さず、その場、その瞬間において確かになされた暴力の前に留まれ、と要求するのだ。反省し、あるいは謝罪して、過去の行為を「悪かった」と自ら断罪することすら彼は許さない。暴力がなされた、という厳然とした事実の前に留まり、目を逸らすな、ということだけが彼の要求なのである。
このあたりにこの作品の可能性の中心を僕は見た。上記のような抗議は非常に激烈な抗議であると言えるだろう。たとえば、ベトナム戦争におけるソンミ村の虐殺、という歴史的な事実に対しても彼の「抗議」は有効である。おそらく彼は米軍が無抵抗な丸腰の民間人を特別な理由なく虐殺したという、かの事件の圧倒的な暴力をもちろん許さないであろうし、その暴力の隠蔽や、「あれは戦闘行為の一貫であった」という正当化も許さないであろう。そして、「あれは戦争犯罪であった。申し訳ない」という謝罪すらも許さないのだ。「暴力を行ったものに対しては、その謝罪すらも許容しない」というこの態度の激烈さはもっと大きなテーマ、より普遍的な問題を彼らが描いていく上での強力な武器になるに違いない。あるいはその態度は、ハンナ・アレントがアイヒマン裁判において行った言動にも通じていくだろう。彼女はアイヒマンを始めとするナチスが行った巨大な暴力をもちろん許さなかったが、それと同様にアイヒマンなる人物を悪魔化し、「この男は人間じゃない、悪魔だ」などという言説もまた許さなかった。何万、何十万というユダヤ人を殺害するに至る命令を下し続けたアイヒマンという男もまた悪魔ではなく人間であり、しかも凡庸な、至って普通の人間であった、という彼女の主張は、この劇のいじめられっ子の彼が主張したことと同様、過去におきた暴力を物語化して消費していくことに対してなされた抗議に他ならない。
と、まあ、少し話が逸れてしまったが、以上の点に僕はこの劇の、あるいはこの作家・劇団の大きな可能性を感じた次第である。
次にもう一点、特筆すべき上演成果として彼の描き出した心理的な暴力、すわなち暴力性の問題について述べたい。二つのシーンについて書こう。ひとつはストリート・ミュージシャンのシーン。もうひとつは男が友人関係を持っている女に告白してフラれてしまう、というシーンである。
ストリート・ミュージシャンのシーンにおいては、いわゆる「暴力」、バイオレンスは描かれない。むしろこの場面で描かれたのは「原発をこの町に作るのは嫌だけど、世界から原発が無くなったらもっと嫌だからこの町に作ってもいいよ♪」と歌う、妙に聞き分けのよい、言うなれば「公共性」を持ったシンガーたちだ。ストリート・ミュージシャンは火葬場やゴミ処理場など、様々なバリエーションで自分の町に欲しくないものを挙げ、ことごとくそれらを受容する歌を歌う。まったく聞き分けがよい。しかし、舞台上ではこの歌を歌っているすぐ傍で、ひとりの女が前のシーンで散乱した小道具を丹念に片付けるという行為が同時進行しており、シンガーたちはそれを手伝うことは決してない。ここで描かれた皮肉は、「苦痛を受容する」態度を宣言するものたちは、決してその「受容」の責任を自ら引き受けるわけではなく、無言のままに片付けを続ける女ひとりが「受容」を強いられ、結果として責任を取らされる、というものだ。このシーンは、言葉によって暴力的なものが何一つ語られないだけにとりわけ印象に残った。あえて前述の定式にあてはめて表現すれば、シンガーたちは「苦痛を受容すべきものは僕たち」であると分かっているにも関わらず、自分たちはひたすら歌い続けて掃除の手伝いをせず、あたかも「苦痛を受容すべきものは僕たち」ではないかのように振る舞っている。そこに「暴力」が発生しているのだ。
もうひとつ、女性に告白してフラれる男のシーンだ。ここで感じたのは「痛み」は暴力が無くても発生する、という当たり前の事実だ。このシーンではごくありふれた若い男女の「告白失敗」の情景が描かれていた。男が女を好きになり、思いつめた内容の手紙を書いて見事にフラれる。そう、ここまでは何の悪意も暴力もない。が、しかし、すでに痛みはそこにある。そして、女の側が「実は気づいていた」と発言するあたりから「痛み」に遅れて「暴力」が現れてくる。なぜか。女は、「男が自分を好いている」と分かっていたのに、「男が自分を好いていない」かのように振る舞ってきたからだ。そこには当然、暴力が潜んでいる。フラれた男が自分のラブレターについて、「これはもはやゴミだね」と宣言した時、女は事実としてはそれに同意するしか無いはずだ。が、そういったことは言わない。あるいは、言えない。代わりに女は、「ゴミじゃないよ」と言う。「手紙がゴミである」と分かっているのに、「ゴミではない」フリをして、さらには、「それが欲しい」かのように振る舞って、「見せて」「ちょうだい」などと迫る。欲しくもない「ゴミ」であるはずの手紙を欲しがるという身振りの中に、フラれた男は最大級の暴力を感じて非常に強い「痛み」を感じることになるわけだ。これがあのシーンで起きていた「暴力行為」の内実ではないだろうか。
最後にこの劇のラストについて書こう。大変、興味深く、おもしろい終わり方だった。物語の終盤、「匿名劇壇の稽古場」風のシーンに変化が起きる。暴君のようにパワハラの当事者を演じていた演出家役が、「暴力シーンだけピックアップしよう」と指示を出すと、劇団員役の俳優たちはその場面を演じ始める。だが、ここでそれぞれの俳優たちが相手役に対して「あ、ごめん、痛くなかった、今?」「大丈夫?」などといって配慮を示すのだ。「痛みであると知りながら痛みではないフリ」を演じてきた当事者たちが突如、痛みを痛みとして認識し、行為する。ここにおいて暴力の定式は崩れ、配慮と思いやりが暴力を中和して大変優しい雰囲気が舞台上に満ちていく。あたかも、暴力はこのようにして乗り越えられるのだ、という提示のようにも見える終盤のシーンであった。だが、物語はまだ終わらない。確かに、明らかに優しさに満ちた雰囲気が舞台上の緊張を弛緩させ、物語は収束に向っていく気配だ。終わりは近い。だが、観客も演者もすでに知っているのだ。暴力は無くても痛みはある、と。さらに私たちは告白のシーンにおいて、配慮の形を取った暴力、というものもあると知っている。だから、私たちはこう思わざるを得ない。「今、ここで示されている『優しさ』や『配慮』が、どうして『配慮』の皮を被った『暴力』ではないと言えるのか?」、と。どんな場面においても、配慮の中にこそ暴力性は浸透し、それを犯していくものだ。心配する行為や、心配を軽減しようとする振る舞いの中でこそ私たちはより多くの偽りを、つまりは「Aではないフリ」を量産していくのだから。
その後、舞台上には映像によって「これはまだ本番である」というごく当たり前のことが示される。この映像によって観客は奇妙な場所に追い込まれる。そう、まだ本番である。カーテンコールどころか、俳優が現に舞台上で演技を続けているではないか。それでも「これはまだ本番である」とわざわざ示されてしまうと、むしろ、すでに物語は終わり、舞台は終わってしまったのではないか? と私たちは思わされてしまう。「本番が本番であると知りながら、本番ではないフリ」を演じてきた俳優たちは、今や「本番が本番である」と宣言して偽りを排し、つまり暴力を中和して優しさを身にまとった。が、しかし、その時にこそすでに物語は終わっていて、「すでに本番ではない」かもしれない時間が流れている。「私たちは暴力を配慮によって中和し、乗り越えることができました」とでも言いたげなラストは、その背後に、「私たちは暴力を乗り越えることはできない」と、分かっているのにそうではないフリをする、というこの劇全体が持っている「暴力」が顔を覗かせている、という訳だ。実にニクい、ラスト・シーンだった。
広田淳一
劇作家/演出家/脚本家
劇団アマヤドリ主宰。さりげない日常会話ときらびやかな詩的言語を縦横に駆使し、身体性を絡めた表現を展開。簡素な舞台装置と身体的躍動感を必須としながらも、あくまでも相互作用のあるダイアローグにこだわりを見せる。日本演出者協会主催 若手演出家コンクール2004 最優秀演出家賞受賞(『無題のム』にて)、佐藤佐吉賞 最優秀演出賞・優秀作品賞受賞(2005年『旅がはてしない』)。
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