手話裁判劇『テロ』 劇評:大堀久美子(編集者、ライター)
国内各地域の舞台芸術、その周辺の人や場所、事物への取材は筆者の仕事の軸だ。東京拠点で全国網羅には程遠いが、この感染症禍にも先方の許しがある限りは現場に足を運んで見聞きし、ささやかな記録を残している。
2022年春、関西への取材の折に手にした1枚のチラシに釘づけになった。そこにはドイツの刑事弁護士で、自らの体験をもとにした小説が世界的人気を博しているフェルディナント・フォン・シーラッハ初の戯曲『テロ』を、神戸アートビレッジセンター(KAVC)が舞台化するとあったのだ。筆者は本作が2018年に舞台化された際、スタッフとして関わっていた。しかもKAVC制作版には“手話裁判劇”という冠があり、座組は聴者、ろう者による混成チームだという。演出は「ピンク地底人」と「ももちの世界」2つの演劇ユニットを率いる劇作家/演出家のピンク地底人3号(以下、3号)。期待を募らせる要素の複合が過ぎ、今秋マストな取材候補として胸に刻んだ。
結果、9月頭の稽古の様子、数日後のリモートによる3号へのインタビュー、10月の観劇と再度の3号インタビュー、公演後10日程しての俳優へのインタビューというように、作品の創作過程と回を重ねて向き合う稀有な取材体験となった。本稿は、その過程によぎった思考と発見の「記録」でもある。
3号が手話言語を取り込んだ演劇創作を始めたのは、感染症禍で上演がままならない演劇を、映像配信しようという周辺に生まれた潮流に対する懐疑がきっかけとのこと。「ただ映像に記録しただけの演劇は発語が平板になり、時間と空間を共有しながら体感する演劇よりも台詞の情報量が激減し、魅力も薄れてしまう。ならば“言語が可視化されている手話に活路はないか”とふと思いついた」とは3号の談。その後の3号は、手話文化に関する取材を重ね2021年2月の『サバクウミ』、同年「せりふの時代2021」に発表した短編『華指212度』、同年9月ももちの世界で『華指1832』と立て続けに手話を取り入れた演劇を創り、自身の創作に検証を重ねていく。その検証をさらに深め、実験要素を多く投入したのが今作、手話裁判劇『テロ』なのだ(作品のあらすじなどはKAVC特設サイトの別項に委ねる)。
舞台芸術関連の情報誌のため取材を申し込んだ8月の終わり。KAVCの担当者は公式の制作発表に参加できない筆者に、「稽古を見てから取材を」と強く勧めた。
3月に行われたオーディションには全国から82人が集まり、3号をよく知る俳優から演劇経験のない者までが混在する10人が選抜された。座組には聴覚にハンディがある者だけでなく、全盲の関場理生も含まれている。稽古は5月から断続的に約5か月間実施。創作過程を振り返り、「座組全員で創作上のルールを作り、コミュニケーションを深めながら共有するものを増やしていく必要があった。創作の全工程に作品と同様の価値があり、この機会と場を与えてくれたKAVCには感謝しかない」と語る3号の言葉が印象深い。
取材日の稽古はKAVCホールで行われており、床面にテープでアクティングエリアを示す他、等間隔に結び玉をつけたビニール紐でぐるりと周囲が囲まれていた。これは本番時は点字ブロックになる動線を示すもので、議論が伯仲する場面で3号は関場にこの紐の上を歩くよう指示。関場は劇中、テロリストにハイジャックされた旅客機に乗り合わせ、さらなる被害を防ぐべく自国空軍に撃墜されて命を落とした乗客の一人、その未亡人役。熱を帯びた手話と発語が飛び交う中、全神経を集中して一人、答えの出ない問いの深淵を歩く関場の佇まいは胸を突く美しさだった。
一方、稽古場全体の雰囲気と言えば賑やかの一言に尽きる。3号は『テロ』の登場人物を、手話を使う俳優と発語する俳優の「二人一役」で演じる仕掛けを施していた。俳優はいくつかのグループに分かれ、3号が提示したビジョンを実現するためどんな間合いで手話と発語の掛け合いを行うのか、どんな仕草や身振りなどを付加するかなどを、手話通訳も交えつつ伝え・理解し合うためのディスカッションを精力的に重ねていく。時には脱線し、3号が止めに入るまで余談(ボケ、ツッコミが手話と発語で入り乱れて往還する様を初めて見た)が盛り上がることも。3号はもちろん、聴者の俳優らも稽古の過程で手話を学び、全員が自身の持つ「伝える方法」をフル活用してコミュニケーションを図る。普段から「極めてフラットで民主的」と3号が言う、彼の創作姿勢が十全に生かされた座組でありクリエーションだと腑に落ちる稽古だった。
本番を観劇したのは約一か月後の10月8日の夜公演。開場時から手話通訳者も参加して場内誘導を行い、客席でも手話の会話や白杖を持つ観客の姿があちこちに見受けられる。ステージの四辺と中央に、通路のように点字ブロックが配され、舞台奥上部には字幕スクリーンが。そうして始まった手話裁判劇『テロ』は多彩な言語と表現、そこに含まれる膨大な感情と情報、ドラマを浴びるように感受することになる圧倒的な時間だった。
まず手話と発語、それぞれが台詞を発しながら繋げていく連携が素晴らしい。筆者の場合は意味は発語で、そこに込められた感情など心の動きは手話や仕草から感じ取ることが多く、それらが流れるように連なっていく様は時に踊りのように、時には譜面上を生きて動き回る音符を目にしているようにも感じられた。
字幕付きの外国語の映画や舞台脇に手話通訳を配した上演、音声ガイドつきの作品などを観たことは、多くの人があるだろう。それら表現方法の異なる複数の入力を、脳は有難いことに的確に処理し、ひとつにまとめて感受できるようにしてくれる。今作に関して言えば、その「複数の入力」の数と種類がべらぼうに多いわけだが、通常の観劇の何十倍も、自分の知覚器官が働き続けていると実感した。
原作を読み、舞台版も複数回観劇して展開や物語を熟知している筆者は、自分が手話表現や手話と発語の連携に注視できると考えていた。ところが何の習性か、スクリーンに言葉が投影されると、目がそれを読もうと追いかけてしまうのだ。個人差はもちろんあるだろうが、筆者の場合、情報の感知を視覚情報に頼っている割合が大きいのかもしれない、という発見もあった。上演中、自分の全ての感覚器官が舞台上で起こる細部までを逃すまいと貪欲に働き続ける感覚はかつて味わったことのないもので、3号と作品に携わる全ての人々から生まれた手話裁判劇『テロ』は、演者と観客双方にとって“身体的特徴を越境する多言語演劇”だと確信した。
今作は本来、被告と参考人の証言を弁護士と検察が検証・議論する場面に続き、両者の長い最終弁論が繰り広げた後に休憩に入り、その時間で観客に有罪・無罪、どちらかに投票させる。戯曲には無罪判決と有罪判決、二通りの結末が用意されており、その回の投票結果に即した判決を休憩後に裁判長が読み上げて終幕となるのだ。
今回、最終弁論はKAVC上演版として特別な扱いになっていた。過去の事件や判例を引いたプロフェッショナルの弁論、ひたすらに“意味あること”を追求した言葉よりも、多様な表現を駆使して“伝える”ことに専心する目の前の俳優たちから溢れ出す熱いパフォーマンスからのほうが「受け取るもの」はより多いと個人的には感じた。
判決(この回は有罪)を読み上げる裁判長役は、3号が原作を読んだ時に法廷で手話をするその姿が思い浮かんだことで企画が動き出し、3号の他の手話演劇にも出演する、ろう俳優の山口文子と、神戸の劇団赤鬼出身で現在はフリーとして演劇やラジオでの活動に加え単独ギャグライブも自身で開催する田川徳子のペア。容易には答えの出ない、出した答えの真偽すら危うい難しい裁判の一方の判断を、手話という“見えるけれど聴こえない言葉”は、発語以上の深い余韻を観る者に刻む。それは、目の前の人間や出来事に対し正面きって向き合い、自分で考え・判断することが、当たり前ながらいかに重要かを思い出させてくれる体験でもあった。
今作についての考察に欠かせない、もう一つの作品を筆者は9月末に観劇した。3号が東京の青年座に初めて書き下ろした『燐光のイルカたち』(2022年9月23日~10月2日。中野 ザ・ポケット)だ。
時代も国も定かでない、厳めしいコンクリートの壁で隔てられた地域。その壁の向かいにある古びたコーナーショップ(カフェ兼雑貨屋)が舞台で、10年の時間を間に「現在」と「過去」を往還しながら進むのは、望まぬ「分断」といわれのない暴力に苦しむ人々、それを覆すべくさらなる暴力=テロに身を投じる若者、残された人々の悔いと哀しみ、そこから始まる再生と微かな希望が繊細に絡み合う物語だ。『テロ』の劇中で起きた出来事の、前日譚と後日譚の両方がそこには重ねられており、同時期に日本の西と東で上演される二つの舞台を呼応させる3号の、つくり手としての深い思惑が感じられる。
さらに言えば、観劇の際に入手した『華指1832』とも『燐光~』は登場人物や設定が通底しているうえ、ももちの世界の最新作・ボクシング演劇『あと9秒で』(22年12月16日~20日。in→dependent theatre 2nd)にも、その相似形を見ることができる(同作には山口文子も出演)。
他者との「違い」を嫌悪し、ともすれば排斥に向かい「分断」を加速させる今という時代。綻びつつある世界と人間の脆弱さを作品を介して意志を持って告発し、観る者に気づきを与える一連の3号の創作がどこまで広がっていくのかは知る由もない。だが、その創作の動向が演劇の枠を超えて注目すべきものであることは確かだ。
もう一つ、今作は20年以上にわたり関西を中心としたアーティストと繋がり、立地する新開地の町と人とを結びながら文化や創造を社会に還元してきたKAVCとしての最終公演だった。施設は改修を行い、2023年4月からは「新開地アートひろば」という、子どもたちと子育て世代に寄り添う複合文化施設として再出発することになる。
公立の文化施設がより幅広い世代に訴求する必要性は理解できる。だが同時にKAVCが積み重ね育ててきた、地域に根ざすアーティストとの連携や多様な人々との協働する懐深い活動の指針が、新たな施設にも受け継がれることを願ってやまない。実際、公演中と公演後に3号と山口、関場にさらなる聞き取りを行った際には一様に、創作環境を整え、問題にぶつかるたび誠実にクリアして創作を支え続けたKAVCとそのスタッフへの感謝の言葉を口にしていた。
手話裁判劇『テロ』は、そんなKAVCのこれまでの活動と思想を体現する、稀有な作品だ。同時に、舞台芸術が担う役割と表現の可能性を更新する「挑戦」でもあった。さらなる「挑戦」の機会にも伴走すべく、できることを続けねばと考えている。