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手話裁判劇『テロ』 劇評:佐々木敦(文筆家)

「倫理のレイヤー」

 
 この舞台を評するには二段構えが必要となる。フェルディナント・フォン・シーラッハ作の戯曲「テロ」をどう読むか? そしてピンク地底人3号によって演出された手話裁判劇『テロ』をどう観るか?
 まず一つ目から話を始めよう。私はシーラッハの戯曲を日本語訳が刊行されて程なく読んだ。ドイツの刑事事件弁護士として数々の裁判に携わりつつ、自らの経験を基にして小説を書き始め、あっという間に世界的なベストセラー作家となったこの才人の作品を私はデビュー作の短編集『犯罪』から愛読している。シーラッハの小説は基本的に実際に起きた事件を簡潔にして精巧な物語に昇華させたフィクションであり、そこであぶり出されるのは人間性に潜むさまざまな暗部や矛盾である。
 シーラッハが初めて書いた戯曲である「テロ」の場合、実在する出来事を描いたわけではないが、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を引き金として全世界で始まった「テロの時代」に対する彼なりのひとつのアンサーであることは確かである。原著の刊行は2015年であり、劇中の裁判で扱われる事件は2013年7月に起きた設定になっているが、邦訳にはシーラッハの「シャルリー・エブド襲撃事件」にかんするスピーチが併録されている。同事件が起こったのは2015年1月なので「テロ」の執筆とかかわっているのかは微妙だが、むしろ重要なことは、シーラッハがこの劇で問題にしたのがテロという行為そのものというよりも、テロを未然に防ぐという善のためであれば、他の条件下なら悪とされるような行ないがどこまで許されるのか、という倫理の問題であるということである。
 この劇で描かれる裁判の内容は以下の通りである。「弁護人」のセリフから引用しよう。「テロリストが旅客機をハイジャックしました。テロリストはサッカースタジアムに旅客機を墜落させ、七万人を殺害しようと目論見ました。しかしひとりの人、ここにいるこの人が行動する勇気と力を持っていたのです。この人がその旅客機を撃ち落としたことで、百六十四人が命を落としました」。被告人はドイツ空軍の少佐であり、攻撃してはならないという命令を無視して旅客機を撃墜した。彼を罪に問えるのかどうか、有罪なのか無罪なのか、という問題が「テロ」という劇のテーマである。上演にあたっては判決の前に休憩時間が設けられ、それまでの裁判の進捗を見守ってきた観客それぞれが「参審員」(ドイツでは一般市民が任期制で裁判の評決に参加する)となって有罪か無罪かを投票し、数が多かった方の判決が休憩後に結末として演じられる。戯曲には「有罪」「無罪」の二種類のヴァージョンが記載されているのである。
 「テロ」は今回の公演以前に朗読劇として東京で上演されており、私はそれも観劇した。そのときのことを観ながら思い出したのだが、劇=裁判に観客=参審員として立会いながら私は、おそらく評決は無罪の方が多いのではないか、と予想しながら、自分自身は有罪に票を投じた。だが、前回も今回も、私が観た上演の判決は有罪だった。朗読劇のときも、今回も、私の頭の中のプロセスはほぼ同じだったことに気づかされて、そのこと自体も興味深く感じた。
 私はなぜ有罪としたのか? 被告人が善人であり、この事件以前までは命令に忠実な兵士であったことが裁判では語られる。だが彼はギリギリの決断を迫られ、自らの意志でハイジャックされた旅客機を撃ち落とした。その結果、サッカースタジアムの七万人の代わりに旅客機の乗客百六十四人が命を落とした。これを殺人罪として罪に問えるのか。すぐにわかるようにこの問題は日本ではマイケル・サンデルによって有名になったいわゆる「トロッコ問題」と同型である。暴走するトロッコがこのまま進むと五人が轢かれてしまう。それを防ぐには線路を切り替える必要があるが、その先にも一人がいる。五人か一人かを選ばなければならない。どうするべきか、という倫理学(功利主義)における難問である。「テロ」の設定はトロッコ問題のスケールを大きくしたものとも言えるが、違う点もある。
 私が有罪とした理由は、大きく言うと次の二点である。ひとつは、被告人が明確に命令に背いたということである。裁判では軍が撃墜を禁じつつも実際には彼ひとりの責任でそれを選択させるように仕向けたのではないかという疑いも提起されるのだが、被告人が命令を聞かずに結果として百六十四人を絶命させたという事実は見逃せない。たとえテロリストを殺害するためであったとしても、たとえ七万人を救うためだったとしても、この行為を完全に無罪とするのは法的観点から無理があるのではないか。それからもうひとつは、百六十四人の理解や同意を得ることがなかったという点である。むろんそれは不可能だったわけだが、旅客機の乗客は純粋な犠牲者であり、彼らの意志を被告人は完全に無視してしまった。もちろんたとえば百六十四人全員に自己犠牲を選ぶかどうかを問うとするとまた新たな難問が浮上してしまうわけだが、それでも被告人たった一人が乗客の生存の権利を一方的に奪ったことは確かである。因って無罪とすることは出来ない、という意味で有罪。
 この裁判の審判がむつかしい理由は、一見すると七万人対百六十四人という数の問題であるかのように思われる。だが実際には七万人か百六十四人か、という選択ではなかった。旅客機がスタジアムに墜落していたら百六十四人に加えて七万人が犠牲になっていたのだから。乗客たちが協力して操縦室に押し入り、テロリストを拘束して事無きを得る可能性があったのではないかという話も出てくるが、それが出来なかったならば、七万+百六十四か、百六十四か、という選択になる。つまり撃墜してもしなくてもいずれにせよ百六十四人は犠牲になっていたのだという見方もあり得る。
 だが、ここにこそ罠があるのだ。ほんとうは数やその比較の問題ではなく、これを「他者の生命を同意なしに奪うこと」すなわち「殺人」として捉えるならば、それはーー極めて特殊な状況とはいえーー明らかにそうなのだから、たった一人でも相手の意志とは無関係に自分の意志で殺したならば、それはやはり殺人「罪」なのである。おおよそ私はこんな風に考えた。
 第一幕の後半に、旅客機に乗っていて犠牲になった男性の妻が証言をする場面がある。彼女は被告人と彼を止め(られ)なかった軍に憎悪を向け、何の罪もない夫が自分と幼い娘を残して永遠にいなくなってしまった悲嘆を述べ立てる。彼女の哀しみと絶望は痛ましい。だが私はこうも思ってしまった。では夫がスタジアムにいたらどうだっただろう? 彼女は被告人に感謝していたのではないか? この種の問題が複雑な様相を帯びるのは、客観的に捉えようとしても、どうしても「自分だったらどうするか、どう思うか」を考えざるを得ないし、その場合にどの立場に定位するかで答えが大きく違ってきてしまうからである。だからこそ、これが裁判であるからには、そうした感情的な、人間的な要素を無理やりにでも切り離して考えないと、条件が異なるだけで答えが変わるという過ちを冒してしまう。
 ということで私は有罪とした。だが、ここで別の角度からの問いも発しておきたい。それはまさに前段に書いたことにかかわっている。もしも被告人と同じ立場に置かれたら、果たして自分はどうするだろうか? おそらく私は撃墜しただろう。そうするしかないと思うことだろう。そしてその上で有罪を受け入れるだろう。今まで書いたことと矛盾するようだが、やはりそうするのではないかと思う。自分しかそれをやれる者がいないということ、そしてまた、もしも撃墜せずに七万人が死ぬことになったら、自分はそうしなかったことに耐えられないだろうという思い、いや、弱さが、私にそれをさせるのではないか、そうも思うのである。
 以上が戯曲「テロ」に対する私の考えである。私の観劇した回の判決は有罪だったが、他の回には無罪の場合もあったのかもしれない。シーラッハの戯曲の無罪ヴァージョンは有罪よりもはるかに短い。そこで無罪とされる理由は、一言でいえば被告人の行為を「法」で裁くことは出来ない、というものである。
 
 では続いて今回の上演について述べよう。ピンク地底人の東京公演のアフタートークで私はピンク地底人3号と話したことがある(と思う)。かなり昔のことで申し訳ないことにほとんど覚えていないのだが、関西拠点の劇団ということもあり、その後の作品も、彼が新たに立ち上げたももちの世界も観る機会がなかった。今回の公演情報のプロフィールによって、ピンク地底人3号が近年、積極的に手話劇に取り組んでいることを知った。彼はシーラッハの「テロ」を、先に触れた犠牲者の妻を除く全ての登場人物に発話と手話の俳優二名ずつを配して舞台上に同時に存在させるというやり方で上演した。言うまでもなくこれは戯曲にはない演出である。更に先の寡婦は全盲の女優、関場理生が演じているのである。これもシーラッハの原作にはない設定である。端的に言うと、今回の上演でピンク地底人3号は戯曲のテーマの上に織り重ねるように「手話」と「盲目」というまた別のテーマを追加してみせた。このことをどう受け取るべきなのだろうか?
 ピンク地底人3号の演出意図をただしく理解できているのかどうかは自信がないが、倫理学の基本問題に別の倫理のレイヤーを重ねた今回の演出によって、この劇が更なる含蓄、複雑にして豊かな余剰を纏うことになっていたのは確かである。たとえば、ずっと手話で話していた検察官役が一度だけ声を出してしまう場面があった。観ている時はそういう趣向(実はろう者ではない役者が演じていた)かと思ったのだが、演じていた森川環は中途失聴のろう者なのだという。ただ単に「発話/手話」という二分法ではないのである。手話と発話の同時ダブルキャストなので舞台上の配置や導線はどうしても複雑になりがちだが、空間性を活かした自在な演出が出来ていて、観客が混乱するような煩雑さはなかったと思う。あそこまで仕上げるためにはかなりの試行錯誤があったのではないかと想像させられた。
 また、そもそもシーラッハの戯曲自体が、もちろん上演を前提としているとはいえ、やはり「読む」という側面の強いものなので、手話のセリフに字幕が出ることで、手話/発話/文字という三種の言葉が混在する舞台になっていたことも効果的だった。と同時に、これは主に上演時間の長さのためだろうが、今回は戯曲の第二幕(この種の問題の歴史的経緯や思想的背景が延々と述べられる)は舞台では演じられず、休憩中にかなりのスピードで字幕で流れるという趣向が取られていたのだが、やや苦肉の策という感は拭えず、かといって他の手があったかというとむつかしいのだが、いっそハンドアウトで配布して後で読んでもらう方がよかったのかもしれないとも思った(あとで聞くと第二幕の割愛が上演権利者側から認められなかったがゆえのまさに苦肉の策であったらしい)。
 だが、その中でひときわ存在感を放っていたのが、寡婦を演じた関場理生であったことは疑いない。シーラッハの戯曲では彼女は証言を終えると退廷するのだが、今回はその後も舞台奥に座って観客の視線の先に居続ける。彼女には被告の姿は、誰の姿も見えず、観客の姿も見えていないのだが、私たちは彼女の開かれた瞳の奥に「視線」を感じ取ってしまう。彼女の絶望と悲哀と怒りが、何も映っていないその両目から、こちらに突き刺すように向かってくるかのように感じられたのだ。彼女はずっと苦渋に満ちた表情をしている。それは冷酷とさえ呼べるものだ。
 だがしかし、(私が観た回では)有罪判決が下り、手話と発話の二人の裁判長によって判決文が読み上げられた後、弁護人と検事と証人などが退廷し、舞台には奥に座る寡婦と被告人だけになる。ある意味で、もう物語は終わっている。そこでふと、寡婦が立ち上がり、被告人に歩み寄り、彼を無言で優しく抱きしめるのである。そして彼女は、この舞台で初めて、柔らかな笑みを浮かべるのだ。素晴らしいラストシーンだったと思う。
 原作戯曲の主題に演出家自身の問題意識を多層的に重ねた異色の上演ではあったが、終演後にも観客それぞれが自分なりに思考を続けていくという意味で、野心的であり効果的でもあるすぐれた舞台になっていたと思う。
 


執筆者プロフィール

佐々木敦
文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。文学ムック「ことばと」編集長。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。長年、芸術文化の複数の分野で執筆などを行なっている。演劇関係の著作として『小さな演劇の大きさについて』など。