「劇場」とは、どのような場所なのか。それはオンラインで代替可能なのか。作品が投げかける問い(あるいはその失敗)が観客の思考を刺激し、既成概念や社会的構造への再考を促し、時に観客どうしの意見交換の場となって、別の視点や考え方をオルタナティブに喚起させる―そうした創造的な批評性を持つ場として機能することが、劇場(に限らず様々な表現の場)の社会的機能である。だが、オンライン上に移譲された「公共性」は、「#MeToo」運動や専制的政治への抵抗手段となる一方で、自己承認欲求、正論を振りかざす攻撃や排除、自己防衛、マウントを取りに行く牽制、同調圧力といった「げきじょう(激情)」の吐き出される場ともなり、公共性や民主主義の機能不全が露呈してしまう。また、映像配信やZOOM演劇といったオンラインに表現の場を移行させることは、単なる代替手段を超えて、新しい表現の開拓という実験性を持つ一方で、「やはりリアルの劇場で上演したい」という欲求は否定できない。コロナ禍で多くの表現者が抱えたジレンマや葛藤に対し、本作は、オンライン(特にtwitterなどSNS)上のコミュニケーションを演劇のテキストとして取り込むという逆流的な操作によって、オンライン/演劇の両者に対するメタ的な考察を提示していた。 上演会場に入ると、通常「舞台」があるべき場所に仮設の客席が設えられ、この客席の向かって左側にある「ひな壇の通常の客席」からコの字を描くように細長い舞台が組まれ、イレギュラーな構成となっている。そこに現われる、ジャージやトレーニングウェアなど「稽古着」姿の俳優たち。彼らは、2、 3人ごとに短いシチュエーションの会話を演じ、そのやり取りの羅列が、何らかの物語に帰着しないまま、ただ断片的に積み上げられていく。相手との力関係を測り、高圧的に怒鳴り散らす男性。「僕は人を殺すかもしれないんです」と交番の警察官を相手に妄想的なモノローグを語り続ける者。「妹は目が見えない」からと庇う姉の言葉では、社会的弱者であることが他者への攻撃性へと容易に転化する。「私の話を聞いてください」「自分の話をしてもいいですか」という誰かへの呼びかけは何度も反復されるが、肝心の「話の内容」が語られないまま、論理のすり替えや揚げ足取りに横滑りしていく。 語るべき「物語」はもはやなく、バラバラに解体し、ただ「語りたい」「つながりたい」欲求のベクトルだけが剥き出しでここにある。その欲求は、他者からの承認欲求、肥大する妄想、「正論」を振りかざした自己正当化、他者への排他的な攻撃、マウントや揚げ足取りで得られる優越感へと膨れ上がっていくが、何らかの調停や事態の収束がなされない宙吊りのまま突然終了し、また別の機能不全的なコミュニケーションが局所的に発生する。そのやり取りを、「ひな壇の客席」に座った者たちが常に見つめ、「安全」な外野からヤジや笑い声を飛ばす。それは、生身の俳優による、twitterなどSNS上のコミュニケーションの実体化だ。スクリーンに突然登場して語りかける、サングラスで目を隠した怪しげな男は、洗脳的に呼びかける「ネット上の扇動者」を思わせる。廃墟や残骸のような舞台装置が、物語/民主主義の機能不全や荒廃を暗示する。また、シチュエーションの反復と差異(一人称や距離感など)、派手な効果音と照明による「死」の演出、「女性だと仮定してシミュレーションします」といった台詞は、メタ演劇的な側面も持つ。 終盤、唐突に客電が点灯し、頭上に吊るされた照明器具が昇降し、ブザーの作業音とともにひな壇の客席が一段ずつ折り畳まれて壁の中に収納され、何もない更地が出現する。ここで解体の手つきは最終的に、「物語」およびそれへの没入装置である「演劇」から、「劇場の物理的機構」そのものへと向かう。だが、スクリーンには、街中をさまよいながら「新しい劇場を探しているが、まだ見つからない」と言う男の映像が映され、俳優たちは「私は間に合ってますか」「間に合ってますよ」「間に合って良かった」というやり取りを繰り返す。「(開演に)間に合った」、すなわち「今」は、まだ到来していないが来るべき「上演」を待つ時間であること。俳優たちが「稽古着」を着用している理由や「反復構造」の企図がここで明らかになる。また、冒頭と終盤で繰り返される「開演のあいさつ」は、緊張してどもりながら発話され「うまく言えない」が、だからこそ上演への強い希求を示す。「劇場」および「上演」に対する両義的な希求が本作の基底にある。 2ちゃんねるの掲示板やニコニコ動画のような動画共有サイトなどオンライン上の新しいコミュニケーションの様態を演劇表現として取り入れる試みは、様々になされてきた。そこでは、例えば「ニコニコ動画の実況中継」を通して引きこもりという社会的主題を描く試みや、演劇表現それ自体の刷新が目指されていた。だがコロナ禍は、主題や形式的な実験性への着目にとどまらず、より切実に「オンライン上の表現によって何が(不)可能か」という問いを突きつけた(そのうちのいくつかの試みは、「演劇」「上演」に対する反省的・原理的な問い直しの成果をもたらしたと思う)。「オンライン上のコミュニケーションの生態の実体化による物語・演劇批判」である本作は、「オンライン上/リアルな場での上演」の狭間でのジレンマや葛藤が刻印された時期に上演されたからこそ、「劇場での上演」へのより強い希求を提示していた。
高嶋慈(たかしま めぐみ)
美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン artscape にてレビューを連載中。共著に『身体感覚の旅―舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会、2017)。
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高嶋 慈「オンライン上の「激情」/リアルの「劇場」の狭間で」
「劇場」とは、どのような場所なのか。それはオンラインで代替可能なのか。作品が投げかける問い(あるいはその失敗)が観客の思考を刺激し、既成概念や社会的構造への再考を促し、時に観客どうしの意見交換の場となって、別の視点や考え方をオルタナティブに喚起させる―そうした創造的な批評性を持つ場として機能することが、劇場(に限らず様々な表現の場)の社会的機能である。だが、オンライン上に移譲された「公共性」は、「#MeToo」運動や専制的政治への抵抗手段となる一方で、自己承認欲求、正論を振りかざす攻撃や排除、自己防衛、マウントを取りに行く牽制、同調圧力といった「げきじょう(激情)」の吐き出される場ともなり、公共性や民主主義の機能不全が露呈してしまう。また、映像配信やZOOM演劇といったオンラインに表現の場を移行させることは、単なる代替手段を超えて、新しい表現の開拓という実験性を持つ一方で、「やはりリアルの劇場で上演したい」という欲求は否定できない。コロナ禍で多くの表現者が抱えたジレンマや葛藤に対し、本作は、オンライン(特にtwitterなどSNS)上のコミュニケーションを演劇のテキストとして取り込むという逆流的な操作によって、オンライン/演劇の両者に対するメタ的な考察を提示していた。
上演会場に入ると、通常「舞台」があるべき場所に仮設の客席が設えられ、この客席の向かって左側にある「ひな壇の通常の客席」からコの字を描くように細長い舞台が組まれ、イレギュラーな構成となっている。そこに現われる、ジャージやトレーニングウェアなど「稽古着」姿の俳優たち。彼らは、2、 3人ごとに短いシチュエーションの会話を演じ、そのやり取りの羅列が、何らかの物語に帰着しないまま、ただ断片的に積み上げられていく。相手との力関係を測り、高圧的に怒鳴り散らす男性。「僕は人を殺すかもしれないんです」と交番の警察官を相手に妄想的なモノローグを語り続ける者。「妹は目が見えない」からと庇う姉の言葉では、社会的弱者であることが他者への攻撃性へと容易に転化する。「私の話を聞いてください」「自分の話をしてもいいですか」という誰かへの呼びかけは何度も反復されるが、肝心の「話の内容」が語られないまま、論理のすり替えや揚げ足取りに横滑りしていく。
語るべき「物語」はもはやなく、バラバラに解体し、ただ「語りたい」「つながりたい」欲求のベクトルだけが剥き出しでここにある。その欲求は、他者からの承認欲求、肥大する妄想、「正論」を振りかざした自己正当化、他者への排他的な攻撃、マウントや揚げ足取りで得られる優越感へと膨れ上がっていくが、何らかの調停や事態の収束がなされない宙吊りのまま突然終了し、また別の機能不全的なコミュニケーションが局所的に発生する。そのやり取りを、「ひな壇の客席」に座った者たちが常に見つめ、「安全」な外野からヤジや笑い声を飛ばす。それは、生身の俳優による、twitterなどSNS上のコミュニケーションの実体化だ。スクリーンに突然登場して語りかける、サングラスで目を隠した怪しげな男は、洗脳的に呼びかける「ネット上の扇動者」を思わせる。廃墟や残骸のような舞台装置が、物語/民主主義の機能不全や荒廃を暗示する。また、シチュエーションの反復と差異(一人称や距離感など)、派手な効果音と照明による「死」の演出、「女性だと仮定してシミュレーションします」といった台詞は、メタ演劇的な側面も持つ。
終盤、唐突に客電が点灯し、頭上に吊るされた照明器具が昇降し、ブザーの作業音とともにひな壇の客席が一段ずつ折り畳まれて壁の中に収納され、何もない更地が出現する。ここで解体の手つきは最終的に、「物語」およびそれへの没入装置である「演劇」から、「劇場の物理的機構」そのものへと向かう。だが、スクリーンには、街中をさまよいながら「新しい劇場を探しているが、まだ見つからない」と言う男の映像が映され、俳優たちは「私は間に合ってますか」「間に合ってますよ」「間に合って良かった」というやり取りを繰り返す。「(開演に)間に合った」、すなわち「今」は、まだ到来していないが来るべき「上演」を待つ時間であること。俳優たちが「稽古着」を着用している理由や「反復構造」の企図がここで明らかになる。また、冒頭と終盤で繰り返される「開演のあいさつ」は、緊張してどもりながら発話され「うまく言えない」が、だからこそ上演への強い希求を示す。「劇場」および「上演」に対する両義的な希求が本作の基底にある。
2ちゃんねるの掲示板やニコニコ動画のような動画共有サイトなどオンライン上の新しいコミュニケーションの様態を演劇表現として取り入れる試みは、様々になされてきた。そこでは、例えば「ニコニコ動画の実況中継」を通して引きこもりという社会的主題を描く試みや、演劇表現それ自体の刷新が目指されていた。だがコロナ禍は、主題や形式的な実験性への着目にとどまらず、より切実に「オンライン上の表現によって何が(不)可能か」という問いを突きつけた(そのうちのいくつかの試みは、「演劇」「上演」に対する反省的・原理的な問い直しの成果をもたらしたと思う)。「オンライン上のコミュニケーションの生態の実体化による物語・演劇批判」である本作は、「オンライン上/リアルな場での上演」の狭間でのジレンマや葛藤が刻印された時期に上演されたからこそ、「劇場での上演」へのより強い希求を提示していた。
高嶋慈(たかしま めぐみ)
美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン artscape にてレビューを連載中。共著に『身体感覚の旅―舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会、2017)。
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